幸福の贈り合い


 厄日なんてものは予告もなしにやってくる。今日は5時入りだというから、4時に起きて現場入りしたのにカメラマンが2時間遅刻してきた。雑誌撮影の場合、写真が載るのは撮ってから数か月後。夏の海の絵が欲しければ、冷えた潮風にさらされながら夏の恰好をして撮っているわけだ。今は夏の終わり、といってもまだまだ蒸し暑いこの時期。ここで撮影されるのは当然秋冬のもの。比較的涼しい朝を狙ったのに、カメラマンの遅刻のせいで熱中症の一歩手前になりかけた。案の定撮影は延び、泉は昼食もとらずに次の現場に向かうこととなった。
 午後はトークバラエティ―の収録ということでテレビ局に入ろうとすれば、なぜか入口で警備員に止められた。確かに簡易だが変装はしていた。しかしまさか自分が止められるとは。最近出始めたお笑いタレントが通されたのを見ていただけに、見事にプライドが傷つけられた。
 気を取り直し、いざ番組収録にと臨んだもののこれまたひどいものだった。打合せと違う話題振りをする司会者、話を脱線させるゲストと、目も当てられないほどのぐだぐだ進行。このまま帰ってやろうかとまで考えたが、どんな仕事でもやり遂げるのが泉の信条だ。ゲストにも関わらず番組を回し、いつもの3倍は疲弊しながらもなんとか収録を終えた。帰り際には撮影の合間やたら話しかけてきていた女が連絡先を聞いてくるものだから、さすがに舌打ちをして現場を後にしたが仕方のないことだろう。ここ最近は大人の対応が板についてきたと思っていたが、さすがに今日は無理だった。ちなみに帰りはすべての信号に引っかかった。
「あんた、ちゃんと聞いてるのぉ!」
「早起きしたらご飯食べ損ねて、一般人に間違えられて、遅刻したお笑いタレントが泉を口説いてきたってこと?」
「聞いてないじゃん!」
 苛立ちをそのままに帰宅すれば、ソファーで寝転がりながら雑誌を読んでいた名前に、「おかえりー」なんて毒気を抜かれるような緩さで迎えられた。流されそうになりつつも、それでも収まらかった癇癪を彼女に吐き出した結果がこれだ。話が混ざっているのもそうだが、泉のプライドに触ったところだけはきちんと聞いていたところがまたむかつく。あの警備員、次会ったらどうしてやろうか。
 泉は口に残る苦みとともにため息をはいた。名前にあたっても仕方ないと分かっている。少し頭を冷やした方がいいのかもしれない。
「ちょっとシャワーして……なに、その腕」
 持っていた雑誌をサイドテーブルに置いた彼女は、その腕を大きく広げていた。
「ハグすると、脳からオキなんちゃらとかべーたなんちゃらが分泌されて、リラックス効果とストレス解消に効くらしいよ」
「なにそれ」
「雑誌に書いてあった」
 どうやらハグしてやると言いたいらしい。広げられている腕は泉を迎えるためのものだったようだ。しかし彼女の体勢は泉が帰って来た時から変わらず、ソファーに寝ころんだままだ。
「なんか雑じゃない?」
「いらないなら別にいいけど」
「いらないとは言ってない」
 彼女のせっかくの気まぐれを無下にするのは惜しい。あっさりと腕を戻そうとする名前を止め、泉はソファーに寝そべったままの体に覆いかぶさった。体重をそのままのせれば、カエルが潰れたような汚い声が届く。
「……重い」
 文句が聞こえるが、この体勢を選んだのは名前だ。こうなることなど予想できただろうに。仕方なく体を起こそうとすれば、それよりも先に彼女の腕は泉の背中に回った。背にトントンと一定のリズムが刻まれるのを感じながら、泉は彼女の胸に顔を埋める。風呂から上がったばかりらしく、いつもより高い体温と花の香りが泉を包む。同じシャンプーを使っているはずなのに、なぜ彼女から香るものは甘く感じるのだろうか。その理由を確かめたくて、彼女の首筋に鼻を寄せていく。
「ふふ、くすぐったい」
 耳心地の良い柔らかな声も、泉を落ち着かせる要素の一つだった。心地の良いリズムと甘い香りが、泉の苛立ちを確実に収めていく。言葉を吐き出すよりも、彼女の存在を感じる方へ意識を向けていた。
「いずみくんは甘えん坊さんですねえ」
「ガキ扱いしないで」
「いい子いい子ー」
「うざい」
「ははは」
 髪をすくように頭を撫でられる。うざいとは言ってみたものの、その行為を止めてほしいとは思わなかった。
「どう? 効果あった?」
「……そこそこ」
 無性に悔しくて素直でない言葉をこぼす。実際は十分、いやそれ以上に効果はあった。「そっか」と笑う彼女に、泉はいよいよ勝てる気がしないと、静かに目を伏せた。
「今の俺、すごくかっこ悪いよねぇ」
「んー……かっこ悪いってわけじゃないと思うけど。私としては、こうやって泉が甘えてきてくれるの、けっこう好きなんだよね」
 だって、と彼女が続ける。
「こんな可愛い泉を知ってるの、私ぐらいじゃない?」
 可愛いは余計だと思いつつも、名前にしては珍しい言葉に泉の心臓が音を立てる。いつもは泉ばかりが見せる独占欲、その片鱗を彼女が見せたのだ。独占欲も愛の一つなんてよく言ったものだと思う。彼女の言葉一つで簡単に浮かれてしまう。
 名前にしか見せられない。名前にだけ知っていてほしい。そう思うとともに、彼女もそうであったら良いのになんて。心の中でうずき始める感情を隠すように、泉は名前を抱く腕を強めた。
 柔らかな声が泉の耳を撫でる。どうやら彼女からの甘い贈り物はこれだけではなかったらしい。
「今日一日頑張ったご褒美に、泉の言うこと何でも一個だけ聞いてあげる」
 顔を上げれば、穏やかな笑みが迎えた。
「何してほしい?」
 もう十分だったはずなのに。そう言われてしまえばもっと欲しくなる。満たされたと思っても、またすぐに次の欲求が生まれてきてしまう。彼女への欲が満たされることなど、きっと永遠に来ないのだろう。
 あらゆる欲が泉の中で一巡したが、目を閉じることで押しとどめる。今はただ、この穏やかな心地に浸っていたくて、だから。
「もう少しだけ、このままでいさせて」
「え、重いんだけど」
「……あんたねぇ」
 何でもと言ったのはどの口か。はじめは確かにふざけて全体重をかけていたが、途中からはちゃんと負担にならないよう気を遣っていた。分かっているくせに可愛げのないことを言う。
 泉はため息をついてから、名前に回していた腕に力を込める。そして彼女をしっかりと抱きとめたまま、ソファーの上で体を反転させた。
「うわっ」
 先程まで泉を包んでいた小さな体は今、泉の腕の中におさめられていた。慌てて起き上がろうとする彼女をその腕が止める。
「重くない?」
「重い」
「ひどい。さっきの仕返し?」
 暖かさも、香りも、声も。この重みすらも心地いい。自分だけのものだと感じられる。さっきのイライラなどもう忘れてしまった。そんなことに時間を割くより、甘美な彼女を感じる方が自分には必要だ。泉は笑いながらそのふくれっ面に顔を寄せた。
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