錦上に花を添える


 はしゃぐ子供たち、微笑ましい親子、初々しいカップル。様々な関係性の人達が、まるでごった煮のようにあふれかえっていた。日が落ち始めて薄暗くなる空の代わりに、明るい屋台が道を照らす。その中を歩く日本の伝統衣装に身を包んだ人々、とくに女性が多いそれは、この時期特有の光景だろう。その様子を一人沿道から眺める私も同じだった。夏の朝を飾る花が写し描かれた浴衣は、実家に眠っていたのをわざわざ送ってもらったものだ。下駄を足に通し、鞄代わりの巾着を手にして。少し気合を入れ過ぎたかと思ったが、行き交う人々を見ればそうでもなさそうだった。むしろ少し地味なくらいかもしれない。別に目立ちたいわけでなく、雰囲気を楽しみたいだけだから良いけれど。
「へぇ、悪くないじゃん」
「いずっ」
 ふいに後ろから聞こえた声は、私の待ち人のもの。馴染んだ名を口にしてしまうのはもはや条件反射だった。だがそれがきちんと意味を成す前に、素早く彼の手が塞いだ。
「ばか。せっかく変装してるのに名前呼ぶとか何考えてるのぉ」
「ごめ……ん?」
 ひそひそ声に対し、塞がれる手のひら越しに謝りながら振り返った。そして目にした姿に首をかしげる。そこにいたのは確かに私の恋人、瀬名泉だった。しかしどこか違和感を持つ。いつもの洗練された美しさは影を潜め、代わりに感じる野暮ったさ。
「なんか、ださっ」
 いまだ私の口元にある彼の手が、今度は故意に塞いだ。
「誰のために……」
 やたら太い縁の野暮ったい眼鏡の下で、形の良い眉がきれいに吊り上がる。深くかぶっている帽子はパチモンみたいなロゴが入っているし、オーバーシャツも必要性の感じないキャラクターと文字が描かれていた。どこかの格安量販店で売ってそうなものばかり。
「こんなに人が多いんだから、いつもより警戒しなきゃでしょ。だからわざわざこんな変装してきたってのに、あんたはさぁ」
 美意識の高い彼にとって屈辱に違いない絶妙にダサい服装。確かにまさかあの瀬名泉がこんな格好をしているなんて誰も思わないだろうから、変装にはなっている。きっと知り合いに目撃されたら本人は一週間ぐらい立ち直れなさそうだ。けれどあえてそんな恰好をしてきてまで来てくれた理由は、考えるまでもない。
 ようやく私の口から離れた手は、そのまま私の手を握った。
「いくら俺が完璧な変装してても、にじみ出るオーラは隠せないからねぇ。立ち止まってると気付かれる可能性上がるし、移動するよ」
 その自信はどこから来るのだろうといつも思うが、否定もできないから困る。泉は私の手を引いて喧騒の中へ入っていく。屋台から聞こえる威勢のいい声や遠くから聞こえる笛や太鼓、さっきよりも間近になった雑多な音が耳を刺激する。彼と話すのに、自然と顔の距離が近付いた。
「行きたいところある?」
「焼きそば、かき氷……りんご飴も食べたい。あ、綿あめも買っていこう」
「食べ物ばっかりじゃん」
「匂いに誘われちゃって」
「ただ食いしん坊なだけなんじゃない? あんたって本当に……ああ、向こうに焼きそば売ってるところあるから行こうか」
 ケチをつけておきながら付き合ってくれるところが実に泉らしい。あまのじゃくのせいで隠れてしまっているが、気付いてしまえば彼の優しさはとても分かりやすい。下駄で歩きづらい私に合わせてゆっくり歩いてくれること。意にそぐわない服装をしてまでも、私との時間を作ってくれること。
 繋がれる手を少しだけ引くと泉はすぐに気付いてくれた。
「どうしたの?」
 私よりも背の高い彼が、合わせるように顔を近づける。だから私も少しだけ背伸びをして、聞こえるように耳元に口を寄せた。
「ありがとう」
「……うん」
 分厚い眼鏡の下で細められた目。綺麗に上がる口角。微かに色づいた頬。どんな格好をしてたってやっぱり彼は美しい。これではすぐにばれてしまいそうだと、心の中で苦笑した。

 泉からお祭りに行こうと誘われたのは一週間前のことだった。思わず「ご乱心ですか?」と言ってしまって、一時間くらい彼の機嫌を取ることとなったのは別の話だ。普段一緒に出掛ける時は人を避けた場所ばかり。もちろんアイドルという彼の立場を考えれば当たり前で、むしろ泉の誘いに困惑してしまった。どうにかすると力強く言った彼の言葉を疑っていたわけではないが、こうして隣を歩くまで実感は湧かなかった。
「わっ」
「大丈夫?」
 見知らぬ人とすれ違いざまに肩がぶつかってよろけそうになるのを、すぐに隣の彼が支えてくれていた。
「ありがと、大丈夫」
「人増えてきたし、気を付けて歩きな。それと、はぐれたら大変だから手は離さないこと」
「うん」
 来たばかりの時はまだ歩けていた沿道も、今では前に進むのも一苦労だった。少しでも気を抜いたら、すぐに迷子になってしまいそう。けれどそんな不安を、繋いだ時から一度も離れてない手が取り除く。代わりに片手しか使えないものだから、その手が忙しいが。巾着と水風船を手首に引っ掛けつつ、買ったばかりのりんご飴が人にぶつからないようにと常に気に掛けなかればならない。
「そういえば花火あるんだっけ。何時からか分かる?」
「七時半……あと一時間くらい」
「場所取りした方がいいかな」
 人が集まる場所だと泉が危険だから、人気のスポットみないなところは避けた方が無難だろう。ただ人がいないところとなれば花火は見えないだろうし。どこか穴場があればいいが、あまりこの辺りの地理に詳しくないので、適切な場所は思いつかない。人の熱気で回らない頭を動かそうとりんご飴を一口かじる。
「あんた、さっきからずっと食べてるんだけど」
「今日は特別だから良いの」
「ふうん」
 この特別はもちろん泉と一緒に来ているという特別。だから今日だけはやりたいことをやりつくすと決めていた。屋台飯は食べたし、ヨーヨー釣りもした。金魚すくいは誰が面倒みるかで揉めたから見送りになったけど、あとは花火さえ見れれば完璧だ。問題はその花火なのだが、さてどうしようかと考えながらもう一口とりんご飴を口に近付けた。しかし私がその独特な甘さを得ることは出来なかった。ふいに掴まれた手首がそのまま連れ去られる。目で追った先で、私のりんご飴はすでに彼の口へ運ばれていた。
「気でも狂った?」
 一口かじった後、泉は舌を少し出しながら顔をしかめた。
「名前が言ったんでしょ。今日は特別だって。……砂糖の味がする」
 当たり前だ。だってりんごを砂糖水でコーティングしたものをりんご飴という言うのだから。そんなことなど泉も分かっているはず。けれど今日は特別だからと言う。彼もまた私と同じように思ってくれていることが何より嬉しい。
「口直しに飲み物でも買う?自動販売機でもいいけど、せっかくだから出店で買いたいかも。ラムネとかがいいな」
「今日だけだからねぇ」
 いつもだったら絶対口にしないのに。特別とはすごいものだ。
 緩む頬がバレないように顔をそらした時だった。大きく人の流れが動いた。
「うわっ」
 周囲の動きに気を取られ、繋いでいた手の力が抜ける。その隙に私の体は人波にのまれていた。
「名前!」
 名を呼ぶ声の方向へ振り返るが、あるのは見知らぬ人々が押し合う景色だけ。声の持ち主の姿はもう見当たらなかった。私も同じように名を呼ぼうと口を開いたが、声になる前に閉じる。有象無象の中、「泉」と彼の名を口にすることは出来なかった。一気に心が冷えていくのが分かる。私を安心させる姿も声もない。あるのは手の中に残るわずかな温度だけだった。

 人波に流されて流されて。気付けば元いた場所が分からなくなっていた。泉と連絡を取ろうとスマートフォンを手にしてみても電波が繋がらない。人が多すぎて通信障害なんて、5Gの時代だというのにどういうことか。まあ5Gの意味もたいして分かっていないのだけれど。
 とりあえずふらふらと歩いて見つけた、ラムネの暖簾に立ち寄ってから人混みを抜けた。通りをひとたび離れれば、あの賑わいは幻のように物静かな現実があった。これから祭りに向かうであろう人達と反対方向へ進む。さっきまであんなに楽しかったのに、今じゃなんとも寂しいものか。手をしっかりとつないでいるカップルを横目に、一人自分の手を握りしめた。
 人酔いをさましがてら、土地勘もない場所を彷徨っていると、小さな公園を見つけた。中央に赤茶のさびれたブランコと、すぐそばに簡素な木のベンチ。チカチカと点滅する街灯は役割を果たせていなかった。まともな灯りという灯りはなく、そのせいか見回しても人の気配はなかった。それはそうだ。少し歩けばにぎやかな場所があるのに、わざわざこんなもの寂しい所に来る理由がない。しかし人酔いした私にはこのぐらい閑散としているのがちょうと良かった。
 ベンチに腰を掛ければ、ミシミシと音を立てた。体重のせいでなく、ベンチの劣化のせいだと言い訳をしながら巾着からスマートフォンを取り出す。再び確認するが、新規のメッセージなどなく、そもそも電波の一本も立っていなかった。やっぱり使えないじゃないか、5G。どうしようもない悪態をついてスマートフォンを見限り、代わりに汗のかいたラムネに持ちかえる。ラムネを飲むのは中学生ぶりぐらいか。記憶を手繰り寄せ、悪戦苦闘しながら開ければ少しだけ中から炭酸がこぼれ出た。
 二つ買ってしまったけど、今日はもう泉に会えないかもしれない。このまま、泉に渡すことはできないのかもしれない。帰る場所は二人一緒のはずで、このまま連絡が取れなくても家で待っていればまた会えることが分かりきっている。それなのにもうずっと会えないような気がして。そんな弱気な考えになってしまうのは、さっきまでの高揚感との落差が激しすぎるせい。手を濡らす水滴がそのまま滴り、浴衣をじわりと濡らす。
 その時、辺りがぱっと明るくなった。何事かと顔を上げれば、夜空に半分欠けた大輪の花と、遅れて聞こえてくる地を揺らす音。もうそんな時間だったかと、続けて上がっていく光を眺めた。花が欠けているのは、背の高い建物に隠れているせい。力なく笑う。それは花火に向けてか、自分に向けてか。
「泉と見たかったな……」
 口をつけたラムネはもうなまぬるくて、舌を刺激する力はなかった。ただただ甘いそれは、今の苦い思いを少しだけ中和してくれるように感じる。きっと泉もどこかで同じ花火を見ているのかもしれない。そう思うだけでも救われると、再び空を見上げようとした。
「見つけた」
 背後から聞こえたのはいつだって私の心を満たす声。気付けば馴染みの温もりに包まれていた。
「どうして……」
 彼の珍しく荒い呼吸が耳を撫でる。
「運命ってやつ、かもねぇ」
「うそ」
「……水差さないでくれない?」
 だって。彼の顔は見えていないけれど分かってしまう。平気そうに喋っているが乱れた息遣い。いつもの香水の中に混じる汗の香り。運命なんて言葉で片付けるには聞こえが良すぎる。深く息をつく彼は、呼吸を整えているようだった。私は空の花を見ながら彼の言葉を待つ。しばらくすると、ぽつりぽつりと彼が話し始めた。
「はぐれた後、辺り回ってみたけど全然見つからないし、もちろんスマートフォンはつながらないし。それで直前にラムネの話してたの思い出して、呑気に買ってんじゃないかと思って店あたって聞いたりしたの」
 泉は私が手にするラムネを一瞥して、「やっぱり予想通りじゃん」とつぶやく。
「それで店見つけて、近く探したりして。あとあんた人混み苦手だから、人気ない場所にいるんじゃないかって……で、案の定ってところ」
「……うん」
「名前の行動なんてまるわかりなんだからねぇ。こうしてちゃんと見つけられてるんだから、運命でも運命じゃなくても、俺があんたを見つけるのは決定事項みたい」
 得意げに笑うその息遣いは、まだいつも余裕を取り戻せてはいないようだった。泉ならきっとない運命ですら自ら引き寄せそうだ。彼はそんな人だから。私を抱きしめる力が強くなる。
「手、離すなって言ったのに」
 私の不注意だ。あの時離さなければ、泉が走り回ることはなかった。私なんてとっくに諦めてしまっていた。一人でうだうだ考えて、ネガティブになって。
「もう、会えないと思った」
 まだどこか拭いきれない不安と諦めた後ろめたさと。顔が見られていないのをいいことに、情けない顔のまま静まる空を見上げる。
「本当、ばかだよねぇ」
 音にならないぐらい小さな「ごめん」のつぶやき。そんな私の気持ちを包むように暖かな手が重なった。
「いいよ。何度だって向かいに行ってあげるから」
 手と手が絡まり、力強く繋がれた。胸がいっぱい過ぎて、あふれた思いが目からこぼれる。今の気持ちを泉に伝えたいのに、どう言葉にすればいいか分からなくて。ただ一言、彼の名を呼んだ。答えるように彼が空気を震わすのと同時に、今までで一番大きな地響きが鳴る。でも確かに、私の名を口にした彼の声が耳に届いていた。
 打ち上げられた花火は、ここまで見てきた中で一番高く上がる。邪魔していた建物よりもずっとずっと高く。そして綺麗な大輪が夜空を飾っていた。
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