花冷えや


 ぱっちり開いた目をそのままに、ひんやりとした空気を吸う。珍しく良い目覚めだった。二度寝をしたくなるような眠気はなく、脳はすでに覚醒していた。
 泉はアラームが鳴る前の目覚まし時計を止め、体を起こし大きく伸びをした。一息ついてから隣で眠る名前に視線を向ける。彼女はうつ伏せの状態で、規則正しい寝息をたてていた。その体勢でよく眠れるものだと変に感心しながら、少しずれていた掛布団を肩まで掛けなおしてやる。
 起こしてしまっても問題ないが、せっかく先に起きたのだ。今日は時間まで寝かせてあげよう。そう思い、泉は起こさないようそっとベッドから下りる。早起きをしたと言っても時間は限られる。さっさと朝の支度をしなければ。
 ふと、泉は寝室から出るためドアへ向かっていた足を止めた。それからベッドへ戻り、名前の後頭部をひと撫でしてから、ようやく寝室を出た。

 タイマーで昨日のうちにセットしていたご飯が炊けた音がする。泉は焼けたばかりの鮭を皿に盛り付け、その端に漬物と卵焼きを添えた。味付けを終えた味噌汁を少し、おたまで小皿に移す。それに息を吹きかけ冷ましながら、テレビに目を向ければ、曇りと雨のマークが映し出されていた。天気予報士の声が流れる。
『今日は夕方から夜にかけて雨となるでしょう』
 泉は基本的にマネージャーの車で移動する。そのためロケ以外であれば天気はあまり関係がない。しかし名前は違う。通勤時に、雨に降られる可能性がある。彼女が家を出る前に傘を持たせるということを、泉は頭の中でメモをした。
 小皿から冷めた味噌汁を口に含めば、濃すぎず薄すぎず。出汁の味がよく効いていた。泉は満足のいく出来だと、一人でほほ笑む。さて、そろそろ時間だ。彼女を起こさなければと、後片付けも早々に寝室へと向かった。
 薄暗いその部屋の中、ベッドには泉が目覚めた時とほぼ変わらない様子の名前がいた。軽くため息をついてから、大きく足音を立てて入っていく。そして窓のカーテンを開け放った。
「ほら、起きな!遅刻するよ!」
「……まぶしい」
 そう言葉をこぼした名前は掛布団を引っ張り上げ、頭まで被ってしまった。もちろんそのままにするわけにはいかない。布団を掴んではぎ取れば、彼女は寒いと言って身を縮こませる。冬はとっくに過ぎ去り、近頃は春の陽気がやってきていた。しかし彼女の言う通り、今日は確かに冷える。泉としても心苦しいが、心を鬼にする。
「朝ごはん出来てるから、早く起きてよねぇ」
「うん……今何時?」
 先ほどテレビは天気予報を伝え、その後に占いをやっていたから、おそらく。
「七時」
「しちじ……七時……七時!?」
 ベッドの上から動かなかった体が、がばっと起き上がった。
「嘘、遅刻する!」
 名前はすぐさまベッドから出ると、その勢いのままに部屋着を脱ぎ始めた。こんな機敏な動きができるなら、初めからやってほしい。手間がかかる。泉は脱ぎ捨てられた服を拾いながら、彼女を追いかけた。
「遅刻って、あんたが家出るまで、まだ一時間はあるでしょ」
 いつも泉が起こす場合は、大抵このぐらいの時間である。だから今日も今の時間まで寝かせていた。
「今日は本社に顔出さなきゃいけないの!いつもと乗る電車も時間も違うから、早く出ないと間に合わない!」
「聞いてないんだけどぉ」
「言い忘れてた!」
 もう少し申し訳なさそうに言ってほしい。
「朝ごはんは?」
「あと二十分で出ないと……ごめん」
 名前は振り向いて、顔の前で両手を合わせる。泉は文句の一つでも言おうと、一度口を開いたがすぐに閉じ、代わりに溜息をついた。こんなことで小言をもらすのもバカらしい。
「別に気にしなくて良いから。早く準備したら?」
「本当にごめん、ありがとう」
 洗面所に急ぎ足で向かう彼女を横目に、泉はキッチンへと向かった。朝から慌ただしいことだ。せっかく完璧な朝を用意したというのに。相変わらず予想の斜め上、いや、この場合は下か。
 キッチンに戻った泉はいまだ芳ばしい香りを漂わせる鮭に、菜箸を差し入れ簡単にほぐした。そして炊き立てのご飯をラップに包み、中央にほぐした鮭を入れ握り始める。ここまでのBGMは、廊下から聞こえる悲鳴だ。
 テレビでは、ちょうどKnightsの新曲の特集が組まれていた。先週受けた取材の様子が流れる。泉は自分のテレビ映りを確認しようと少し前へ出た。しかしまさにその前を、やかましく足音を立てながらやってきた名前が遮る。スーツを身に着けているが、前髪はヘアクリップで留められ、化粧も途中で実に間抜けな姿だった。泉は諦めてキッチンへと戻る。どうせ自分の出演する番組はすべて録画してある。後でゆっくり確認することにした。
 キッチンボードからスープジャーと小さめのタッパーを取り出す。スープジャーには味噌汁を注ぎ、タッパーには卵焼きと漬物を入れる。最後に花柄のランチバッグにそれらを詰め込んだところで、彼女が戻ってきた。
「泉、今何時?」
「七時十五分」
「あと五分!」
 きれいにスーツを着こなし、髪をまとめた姿は、およそ二十分前の寝起き時の様子はどこにもない。
 名前は手に持ったストッキングをつま先に合わせ、引き上げていた。その様子を眺めていた泉は気付く。
「それ、右後ろのところ、伝線してる」
「うそ!」
 彼女は体をひねって確認し、あーと言いながら脱ぎ始めた。他にも支度があるだろうに、このままでは本当に遅刻をしてしまう。これが他人であれば、遅刻しようが何しようがどうでも良いが、彼女は恋人である。寝坊した責任は本人の問題だとしても、放っておくことはできない。
「代わりのストッキング、取りに行ってあげる。名前は他のこと準備して」
「助かる!」
 玄関に向かう名前とは反対に、泉は寝室のクローゼットへ足を向けた。新しいストッキングを取り出し、彼女がすぐ履けるように袋から出しておく。彼女のもとに行く途中、用意していたランチバッグと折りたたみ傘も手に取った。
 玄関に着くと、名前は置いてある鏡を見ながら髪を整えていた。泉が声をかけ、新しいストッキングを渡すと素早く履き始める。そして身なりが全て整って満足したのか、名前はパンプスを履いて背筋をピンと伸ばした。
「準備完了!これなら間に合いそう」
「はいはい、良かったねぇ。これ、折りたたみ傘。今日、夕方から雨降るって」
「そうなんだ。ありがとう」
「あとこっち。俺がわざわざ起きて作ってあげた朝ごはん。間抜けな名前は食べる時間なかったみたいだから、お弁当にしてあげた」
 泉がランチバッグを差し出せば、名前は目を大きく開きながら受け取った。
「朝は少しでもお腹に入れといたほうが良いでしょ。空いてる時間にでも食べな」
 どうせ会社にカフェスペースでもあるだろう。仕事前か空いた時間にでも少し食べてくれれば良い。そんなことを考えていれば、泉はじっと見つめてくる名前に気付いた。
「……なに?」
「どうしよう、泉、超かっこいい。惚れそう」
「そこは惚れ直したって言うところでしょ」
 そうだった、なんて笑う彼女は嬉しそうにランチバッグを胸に抱いた。そういう仕草に、いちいち胸を高鳴らせてしまうのは無意識なので仕方ない。今更だ。もちろん泉は、今唐突に湧き上がってしまった感情を、心のうちに溜めておくつもりもない。
「待って」
 ドアに手をかけ出ようとする名前を、泉は呼び止めた。手を伸ばし、少し跳ねていた前髪を直してやる。そしてそのまま顔を近づけ、軽くおでこへキスを贈った。口にしなかったのは、塗ったばかりのリップに気を遣ったから。おでこを合わせ、目を合わせ、唇は触れないように。
「気を付けて」
「……うん」
 はにかんだ彼女からそっと離れる。後ろ髪を引かれるとは、まさにこのことだろう。いってきますと、小さく手を振る彼女に泉は言う。
「いってらっしゃい」
 離れた一秒後には、もう会いたくなっている。
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