花も実もある


 腹部の痙攣に耐えながら、上半身をゆっくりと浮かす。歯を食いしばり、息を止め、腹筋を意識しながら背を丸めて上げていく。自分の立てた膝の向こうの、やたら意地悪くにやける顔が近づく。体を起こし切ったところで、急いで酸素を体に入れ、呼吸を落ち着かせた。目の前の顔を見やれば、彼は私の膝の上で肩ひじをついた。
「ほら、休憩しない。あと体起こすときは息吐きながら。息止めない」
「ちょっと……しんどいんだけど……休ませて……」
「あと三回。十五回二セットって言ったでしょ。まだもう一セットあるんだから、休んでられないよぉ」
「……鬼畜」
「あんたが言い出したんでしょ。付き合ってあげてるんだから、むしろ感謝してほしいよねぇ」
 泉の言葉にぐうの音も出ず、仕方なく起こしていた上半身の力を抜き体を戻した。するとすぐに、「戻す時は息吸いながら!」と注意を受ける。床に寝転がったまま小言を流し、目を閉じて先日のことを思い出した。

 なぜ私がこうして上体起こしをしているかと言えば、その発端は彼の一言からだった。
「名前、太った?」
 同僚から帰省のお土産としてもらった、かりんとう饅頭を食べていれば泉からそんなことを言われた。ドキリと心臓が音を鳴らしたせいで、口の中のものを咀嚼しきる前に飲み込んでしまう。数度咳をしてから、置いてあったお茶を飲むが、喉は違和感を残す。私は上手い返しが思いつかず、聞き返すような一文字だけを口にした。
「え」
「なんか、前よりふっくらした気がするんだよねぇ。触り心地も柔らかいし」
「……それは良いことなんじゃないかな」
「はぁ?」
 鋭く突いてくる視線から、慌てて目を逸らす。
「最近、体重計乗ってる?名前の測定記録、更新されていないんだけどぉ」
「なんで知って……勝手に私の記録見ないでよ!」
 この家の体重計はトップモデル瀬名泉が使うということもあって、高性能な機能が付いている。体重のみならずBMI、体脂肪率、筋肉量、他にもいろいろあって忘れたが、とにかく様々な値を測定できる。さらにあらかじめ身長等を設定しておけば、自動認識され、乗るだけで個人データにしくれる。ついでにスマホアプリと連携されているという優れものだ。
 泉が買った時に、せっかくだからと私の分も体重計に登録させられていた。私は必要最低限の機能さえ使えていれば良かったので、ただの体重計としての機能だけを使っていた。まさか記録データが泉に見られているとは。
 手にしたスマートフォンを見ている泉は、おそらく私の記録を確認しているのだろう。
「最後に乗ったのは去年の十二月二十八日。それまでは最低でも三日に一回は乗ってたみたいだけど、今年に入ってからは一回も乗ってない」
「何が言いたいの」
「それはこっちのセリフ。測りたくない理由でもあるのぉ?」
「泉が私のデータを見るからだよ」
「さっきまで俺が見れること、気付いてなかったくせに」
 昨年を通して思い返せば、気にするほどの体重の増減はなかった。だから平気で体重計に乗れたし、見られたぐらいで何とも思わなかったかもしれない。だが、年末年始を過ぎた今は違う。
「別にいつもチェックしてるわけじゃないから。最近あんたが太ってきたから気になって確認しただけでしょ」
「太ってるって言った!」
「あーもう……どうでも良いから、さっさと測ってきな!」
「良いよ、測ってくるから!」
 泉に焚き付けられるようにして、私は一人で洗面所へと向かった。
 体重計を前にして、一呼吸おく。この家に戻ってくる前、実家で測った結果を思い返し、つい目の前の体重計を睨みつけてしまう。しかし仕事も始まって、ここしばらくは動いてきたわけで。正月前に比べれば増えていたとしても、あの時よりはマシになっているはず。悪あがきだと分かっていながら、勢いをつけないようにそっと体重計へと足を乗せた。
「ひっ!」
 喉の奥から音が漏れ出る。知りたくなかった現実を目にして、思わずそこから退こうとするが、いつの間にいた後ろの彼によって阻まれた。私を押さえつけるようにお腹の周りに腕を回し、肩越しに、下に映し出されるディスプレイを見ている。
「三キロ強ってとこねぇ……で、どうするの?」
 事実を突きつけられてしまえば、もう逃げられない。耳元で囁かれた問いかけに、私の答えはただ一つ。
「……ダイエットします」

 そんなわけで私のダイエット生活が始まった。今回の体重増加の原因は、考えるまでもなく年末年始の実家での生活。運動もせずに、豪勢かつ高カロリーな食事を取っていたのでは、脂肪が蓄積されるのは当たり前のこと。つまり正月太りというやつだった。
 この家の食生活は基本的にダイエット食に近い。もちろん泉が口にするからで、私も同じものを食べる。なので食事制限はとくに必要なく、今やるべきことは適度な運動。そのため泉とこうしてトレーニングをしているわけだが。
「……じゅうご……」
「はい、お疲れ。少し休んだらもう一セットねぇ」
 頭では分かっていても、しばらく使っていなかった筋肉が悲鳴をあげている。
「もう起き上がれない……」
「諦めるの?」
「モチベーションが保てません」
「何それ」
「私は何のためにダイエットしているのでしょうか」
「でた、屁理屈」
 痩せたいなんて簡単に言うことはできるけど、そのための努力を続けることは難しい。学生時代の「ダイエット中だから〜」なんて口癖、結局帰りにパフェでも食べに行ったりするだから行動は伴わない。太っているのは嫌。けれど苦労してまでダイエットはしたくない。そんな学生気分が、今の私の状態だった。
 正月に気を緩めて太った私、対して去年と寸分の違いもない彼を見る。
「泉はいつも家でトレーニングしてるけど、ジムにも行ったりするんだよね」
「まあ、仕事みたいなものだから。当たり前でしょ」
 簡単に当たり前なんて言うけれど、それは決して当たり前で片付けられない。それは近くで見ている私がよく分かっている。上半身を床に預けたまま、私の膝をおさえる泉を見上げた。
「泉は綺麗だね」
「はぁ?なんなの、いきなり」
「んーなんだろう」
 嫌味でもなんでもなく、素直にそう思った。泉が体型を維持できているのは彼の努力に他ならない。体型だけでなく、スキンケアや食生活、それこそダンスも歌も全部そう。常に自分を律し、気を抜かない姿は尊敬すべきところ。そしてその姿こそ彼の美しさだった。
 私の憧れ。私も彼みたいになれたら。そうは思っていても、いまいち自分を突き動かすことができない。
「あんたが何言いたいのかよく分からないけどさぁ」
「ん?」
 唐突に口にした私の賛美を照れもせず、どちらかと言えば呆れた顔を見せる。
「仕事のためなのはもちろんだし、綺麗な俺が綺麗であり続けることは当然のことだけど……」
 そんな言葉、泉にしか言えないだろうなと苦笑する。けれど彼の言いたいことはそれだけではなかったらしい。
「名前の前では、世界で一番綺麗な瀬名泉を見せ続けたいってのもあるんだからねぇ」
 思わず溜息が出る、綺麗な笑みだった。メイクも髪もセットしてなくて、華やかな衣装でなくいつもの部屋着に身を包んで。それでも世界で一番綺麗と言えた。
「……じゃあ、私も世界で一番を泉に見せなきゃだね」
「せいぜい頑張りな」
 彼の側で、自信をもって胸を張れるように。彼の目に映る私が、私にとって誇れる姿でいられるように。そう思えばどこまでも頑張れる気がした。
 確か体を起こす時は息を吐きながらと言っていたか。私は息を大きく吸ってから、再び上半身を起こし始めた。
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