可愛くなる魔法

 予定も何も入っていない完全オフの休日。日が落ちる前に入る風呂の格別さを噛み締めながら、部屋着を身に付け、タオルを首にかけて髪を拭く。そういえば、来週の会議は何曜日だっただろうか。忘れないうちに予定を確認しようと、仕事用のバックから手帳を取り出しスケジュール欄を開いた。
「ん?」
 会議の予定は水曜日。これは問題ない。それよりも真っ先に目に入ったのは、蛍光ピンクで太く強調するように書かれた“デート”の文字。一応断っておくが、これを書いたのは私ではない。もとは単に“ディナー”とだけ書いていたのをたまたま目にした友人に問いただされた結果、嫌がらせと言わんばかりにわざわざ目立つように上書きされたのだ。
 いや、そんなことはどうでも良い。問題はそれが書かれている日付。手帳を裏返しても、一度閉じて再び開いてもその事実は変わらない。そう、今日だ。ピンクの文字に被って少し見えづらくなっているが、小さく私の字で“17:00”と書いてある。
 時計を見る。針は無慈悲にも、その短針は5に差し掛かっており、長針は完全に左を向いていた。
“16:45”
 風呂あがりによって火照っていたはずの体が、一気に冷えていくのを感じる。血の気がひくとはまさにこういう時のことを言うのだろう。一瞬現実逃避をしかけるが、頭をふって意識を取り戻す。
 諦めるのはまだ早い。たった15分、されど15分。髪を乾かすのに5分。服を選んで着替えるのに5分。化粧に5…さすがに無理か…?でもマスクをすれば眉だけ整えておいて、向こうで化粧室に行った時に他を済ませてしまえばなんとか…。いや、それより連絡入れなければとスマートフォンに手を伸ばせば、ちょうど一件の通知が届く。
“今駐車場。借りたCD返したいから部屋寄る”
 駐車場からこの部屋までどんなにゆっくり歩いても5分。おそらく到着するのは16時50分。
 緊急事態。いきなりタイムリミットが大幅に縮小した。しかしたった5分、されど5分。髪を乾かすのに5…いや、さすがに無理。
 頭を抱えている間にも時間は残酷にも過ぎていく。私を現実に引き戻したのは、部屋に鳴り響くインターフォンの音。終わった。一つ溜め息を吐き、玄関へと向かった。

 黒のジャケットは彼の美しい髪を際立たせる。しかし堅苦しいようには見えず、白のスキニーとハイネックのニットを合わせることによってカジュアルに仕上げていた。一見シンプルに見えても、もとから造形が素晴らしい彼には無駄な装飾などいらない。貧相なアパートの玄関でも、ニューヨーク郊外の街中で撮られた、写真集のワンカットに変えてしまう。私の彼氏はかっこいい。本当に。しかし、それに対して私は。
「えっと…まだ準備出来てなくって」
「…準備してなかったの間違いじゃない?」
「…」
「まさか、忘れてたなんて言わないよねぇ」
「……」
「………」
「…っ大変申し訳ありません!すっかり忘れてました!今から始業30分前に起きた朝のごとく急いで準備しますので、お時間をいただけないでしょうか!」
 沈黙に耐えきれず、私は全力で上半身と地面が平行になるように頭を下げる。いわゆる最敬礼。今更足掻いてもどうしようもない。来る罵倒に心の準備をするだけだ。
 時間にすれば数分程度だろうか。私にとっては生きた心地のしない長い時間に感じているが。しかし、いつまで経っても予想した反応はなかなかやってこなかった。呆れて言葉も出ないとか?不安に思い頭をあげかけるが、その前に首に掛けてあったタオルを抜き取られる。そのまま下げている私の濡れた頭を包み込み、わしゃわしゃと拭き始めた。
「…泉、怒ってないの?」
「んー。怒ってるよぉ」
 そうは言うが言葉の意味とは反対に、耳に届く声色は機嫌が良いように感じる。口の悪い彼のこと、いつもなら「俺との約束忘れるとか良い身分してるよね?次からは忘れないように脳みそに直接刻んでおいてあげようか?」なんて言ってもおかしくないのに。彼が何を考えているか分からず、されるがままになってしまう。
「あんたさ、いつも俺といる時って気張ってない?なんていうか…悪い意味じゃないけど、常に完璧でいようとする感じ?泊まりの時もちょっとメイクしてるし」
「お気付きでしたか」
「俺が気付かないとでも思った?」
「……」
「だからこうやって、素のあんたっていうか、隙だらけの姿?が見れてなんか新鮮。すっぴんだと、ちょっと幼くなるんだ」
 美しい彼の側にいることは、それなりに覚悟が必要で。だからいつもデートの時は数日前から全身のコーディネートを考え、時間があればネイルサロンや美容院に行く。泊まりなら、塗ってるか塗ってないかのギリギリを攻めるナチュラルメイクを、気付かれぬよう手早くするのが恒例。
 その全ては、彼の隣に立つに相応しい姿でいたいからというのもある。けれど、何よりも彼に可愛いと言われたい。ただそれだけだった。なのに、こんな失態を犯すなんて。この状況の恥ずかしさと情けなさの負の感情から、視界が歪んでくる。
「…幻滅した?」
「は?何言ってんの」
「だって、すっぴんだし格好もだらしないし、そもそも約束忘れてたし…」
「まあ忘れられてたのには怒ってるけどぉ…」
 頭を拭いていたその手は、優しく撫でるような手付きへと変わる。
「いつも俺と会うときは頑張ってるんでしょ?」
「…うん」
「それって俺に可愛い姿見せたいからってことで、そんなの嬉しいに決まってんじゃん。それにその格好も…なんていうか、ギャップ萌えとかいうやつ?ああ、あと一応言っとくけど、あんたは完璧なつもりだろうけど結構抜けてるとこあるの知ってるから」
「え」
「この前着てた服、タグついてた」
「言ってよ!」
「あと、なんかよく分からないゆるキャラのキーホルダーこっそり買ってたのも見てたから」
「…可愛かったから」
「趣味悪いよねぇ」
 でも、と彼は続ける。
「努力する姿も、抜けてるところも、その幼く見えるすっぴんも…全部可愛いよ」
 思いがけない言葉に胸が熱くなって、気恥ずかしさの涙が、暖かい彼への愛おしさに変わっていく。
「ていうかさ…ふふ、なにそのTシャツ。だっさ」
「…高校の修学旅行で買った」
 いつも泊まりで着るのは、そこそこ有名なメーカーの肌触りの良いルームウェア。値段が値段なので使用して洗濯した後は、次の機会まで大切に保管している。対して今着ているのは背中に大きく“浅草”と毛筆で書かれたTシャツで、愛用歴5年だ。洗濯のし過ぎで、所々縮れているのに気付かれていないことを願う。
 ふと、頭に触れていた手の感触が遠退いたことに気付いた。泉の様子を伺いつつ少し顔をあげると、タオルごと顔を引き寄せられ、そのまま一瞬唇に柔らかく暖かい温度が触れる。
「ほら、冷えてきてる。風邪引くから髪乾かしてきな。可愛くなるまで待っててあげるから」
 ああ、きっと。彼には一生敵わない。
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