薄明の調べ

 音楽室に並べられている机の中で、先頭の右から三列目。そこが私の特等席。前に置いてあるグランドピアノを弾く人の手元は見えないけれど、音に関してはこの位置が一番綺麗に聴こえる。音楽科や声楽科が使用することもあって、夢ノ咲学院の音楽室のピアノは良いものを使っている。雑音がなくて、それぞれの音のバランスが均等で澄んだ音。しかしいくら良い楽器でも演奏する者がその価値に見合っていなければ意味がない。ただ一つ言えることとして、今現在この音楽室に広がる旋律を奏でている主は、このピアノの演奏者として相応しいに違いないと私は思う。自然に動いてしまっていた自分の指には気付かないふりをして、目をつぶり出来るだけ外部の情報を遮断する。耳に伝わる振動にだけ集中していれば、唐突にその波が途切れた。
「どうしたの?」
 ミスタッチがあったようには聴こえなかった。閉じていた目を開きそう問いかければ、先程まで音の波を操っていた人物がピアノの影から顔を覗かせる。窓からの逆光のせいで誰かを判別することは難しいが、確認しなくても私はその人物をよく知っていた。
 朔間凛月はこの音楽室で行われる二人だけのコンサートの演奏者。コンサートと言っても私が勝手に聴きに来ているだけで、彼はきっと人に聴かせるためには弾いてないだろうけれど。数ヵ月前、部活を終えてこの音楽室に向かって歩いていれば、着く前にキラキラとした音が風にのって私の耳に届いた。部屋には見慣れない学生が一人。それが彼、朔間凛月だった。彼は私が中に入っても演奏の手を止めず、席に座っても一瞥もしなかった。その日以降、彼が先なら音をたてないように中に入って、私が先なら席に座って待っていて。どちらにしろ邪険にされなかったので、気付けば居座るようになった。次第に曲と曲の間に会話を挟むようになって、友人とまではいかないが知人くらいにはなれたと思う。
 ちなみにアイドル科の彼は、本来こちら側の校舎には簡単に入ってこれないはずなのだが、どうやって侵入しているかは知らない。それにアイドル科にはアイドル科で音楽室があるらしいので、わざわざここに弾きにくる理由も分からない。謎だらけの奏者である。前に聞いてみれば、たまには気分を変えたいからなんて適当な返答をもらったので特別意味はないのかもしれない。
「朔間君?」
 部活動も終わっている時間だから、威勢の良い生徒達の声はない。だからピアノの音が止まればそこには静寂が訪れる。先程の問いかけが聞こえていなかったのか、彼の厭う名字で呼んでみた。これはわざとではなく、名前で呼ぶほどの関係ではないと思っているからで深い意味はない。彼はゆっくりとした動作で片手を上げ手招きをした。
「名前もなんか弾いてよ」
 いきなり何を言い出すのだろうか。私はただの観客、もっと言えば勝手にお邪魔しているだけのただの普通科の生徒。だから慌てて首をふった。
「私が?弾けない弾けない!頑張って猫踏んじゃったぐらいだよ」
「嘘」
 間髪入れずに言われたせいで、次に紡ぐはずだった言葉は音にならず、代わりに息だけが吐き出された。
「俺が来るようになる前、ここで弾いてたの知ってるから」
 ピアノが弾けることを知られてしまっている時点で否定など無意味。弾けないなんて嘘、つかなければ良かった。人が嘘をつく時は理由がある。彼はそれを聞いてくるような無神経さはないと思うが、この嘘で少なからず私がピアノに対して後ろめたさがあることは露呈した。
「ずっといつ弾いてくれるのかと思ってたんだけど……ねぇ、今弾いてよ」
「……嫌」
 ピアノを人前で弾くのは嫌い。
 物心ついた頃からピアノを習っていて、そのおかげか一芸になるぐらいには人並み以上に弾けた。それが嫌になってしまったのはいつ頃からだったか。昔は楽譜通り弾けていれば褒められたのに、段々とその要求が変わっていく。もっと感情的に。情景を思い浮かべて。そんな抽象的なことを言われたって、どう弾けば良いか分からない。強弱の付け方も、休符もリズムも全部楽譜通りに演奏しているはずなのに、惹き付ける演奏をする人達と何が違うのか。しかし自分でも気付いていた。鮮やかな音の色と褪せた音の色。
 あれは確か発表会の時。『上手な演奏だけど面白味がない』、きっとそれを発言した人はまさか本人に聞こえているとは思っていなかっただろう。私はピアノを辞めた。もとからプロになるつもりはなかったし、これ以上続けていれば自分の音だけでなく人の音まで嫌いになりそうで、だから。
「私は人に聴かせるような演奏は出来ないよ」
 もう一度、自分にも言い聞かせるように呟いた。人がいなくなった時間にこっそりこの音楽室で弾くのが、朔間凛月が来る前の私の日課だった。未練がましいその行為を、まさか誰かに聴かれていたなんて。
「いつもタダで聴いてるんだから、たまには俺のために弾いてよ」
「……なんか飲み物でも買ってこようか?料金代わりに」
「いらない。名前の演奏が聴きたい」
 彼にしては珍しくはっきりとした物言いに、これは私が弾くまではてこでも動かないのだろうと悟った。確かにタダで聴かせてもらっているのはぐうの音もでない事実。こうなれば仕方ない。適当に済ませてしまおう。これはただの遊び、聴かせるものではない。そう自分に言い聞かせて立ち上がった。
 ベンチ型の椅子に座っている朔間凛月は、左へ腰の位置を少しずらし一人分空ける。なぜ完全に譲らないのかは分からないが、私はその空いた場所に腰をおろした。
「猫踏んじゃったで良い?」
「え〜」
 ちょっとした演奏と言えば“猫踏んじゃった”が好まれるイメージだが、彼には不満足だったらしい。
「そんなに弾くのが嫌?」
「まあ……」
「なら連弾にしようか」
 連弾、つまり朔間君と一緒にこの一つのピアノを弾くということ。確かにそれならばいくらか気持ちが楽になるが、一つ問題がある。
「私、連弾の曲知らないんだけど」
「俺も」
 自ら提案をしておきながら弾けないとは、いよいよ彼の行動の意味が分からなくなってきた。音楽室に置いてある楽譜を漁れば何か出てくるだろうが、単なる遊びの一貫だからそこまでするのも違う気がする。
「じゃあ俺が左手やるから、右手弾いて」
 そう言って彼は鍵盤の上に左手だけを置いて、簡単な和音で手遊びを始めた。まあそれなら連弾と言って良いかはさだかでないが、一緒に弾くという行為は達成できる。
「曲はどうするの?」
「名前はどんな曲が好き?」
「……ショパンとかリストとか」
「うわ、ゴリゴリの技巧派。もっと可愛いやつにしてよ」
 曲に可愛いとか可愛くないとかあるのか。いきなり言われても、二人で弾くならある程度難易度の低いものに限られるし、パッとは思い付かない。
「なら朔間君が決めてよ」
 隣を見れば、ちょっとだけ見上げる位置に朔間凛月の頭があった。そういえばいつも彼はピアノ、私は机に着席しているわけだからこうして近い距離にいるのは珍しい。アイドル科故に整った目鼻立ち、けれど今は何故かその表情に少しのためらい。しばらくして彼はポツリとつぶやいた。
「……愛の挨拶」
「は?」
「知らないの?」
「いや、知ってるし弾いたこともあるけど…」
「なら良いじゃん。問題ないでしょ」
 “愛の挨拶”は作曲家エルガーが婚約者に捧げたと言われる有名な曲。確かに曲調からして可愛いに分類される曲かもしれない。ただ、それは今まで聴いていた彼が弾いていたものとは結び付かなかった。
「なんか朔間君っぽくないなって。ノクターンとかエチュードが好きかと思ってた。それこそショパンの……」
「ほら、弾くよ」
 私の言葉を遮るように、朔間凛月は左手を器用に鍵盤の上に滑らせ始めた。私も慌てて右手をのせる。彼の細くて綺麗な、けれど私よりも一回り大きくしっかりとした手が並ぶ。本来一人で弾くはずの曲を二人で分けあってるせいで、自然と体はくっついていた。
 懸命に彼の音を聴きながら合わせるが、裏泊のせいでだんだん遅くなり間延びしていく。自分の表情が険しくなっていくのが分かった。こんなので良いのだろうかと、横目で様子を見る。いつの間にか日は落ちて彼を照らすのは音楽室の人工的な灯りだけ。逆光があった時と違い色白で赤い瞳な彼の顔がよく見えた。そこで、普段あまり表情が変わらない彼がどこか微笑んでいることに気付く。
「なんか楽しそうだね」
「……そう見える?」
「なんとなく、かな」
「あんたは眉間に皺が寄ってるね」
 そんなの当たり前だった。いくら遊びと言ってもこんな演奏は私にとって許せるものではなかった。なのに。
「ねぇ、どうしてそんな……」
 綺麗な音が出せるの、と。メロディーと伴奏はバラバラ。狭くて自由に動かせない手。強弱をつける余裕もない。曲としては決して成り立っているはずもないのに、ピアノから流れ出る旋律は色彩を持っていた。私がずっと欲しかった音色。
 朔間凛月は眠たそうな目を少しだけ開いて私を見た後に、再びゆっくりとその目は鍵盤の上へと戻る。要領の得ない質問をしてしまったから、聞かなかったことにされたかもしれない。恥ずかしくなって私も自分の手元に視線を移す。たまに触れてしまいそうな手に注意をしながら続けていれば、隣で薄く息を吸う音がした。もう一度彼の方をチラッと隠れ見れば、先程よりもいっそう優しげな笑みが浮かべられていた。
「きっと、名前といるからかな」
 その気持ちが分かるようになれば、いつか私もこの鮮やかな調べを奏でることができるのだろうか。
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