romantic love

 瀬名さんの唇が手首に触れたあの日。私が口を開く前に、割って入るように着信音が鳴った。誰のものかも分からないそれは、場の空気を壊すには充分だった。彼への答えを持ち合わせていない私にとっては渡りに船。手の力が緩んだ一瞬の隙をつき、彼を振り払い自分のスマホを掴んで逃げだした。あの場にいたら、空気に呑まれて何を言ってしまうか分からなかったから。ただ、去り際に見た瀬名さんの顔は今でも脳裏に焼き付いて離れない。
 あれから連絡は取っていない。彼に謝ろうと何度かトーク画面を開いたが、途中まで打ったところで結局全て消して、画面を閉じるを繰り返す。今更何を伝えればいいのか。
 瀬名さんからも何も連絡は来なかった。あの話の前に、これからツアーが始まると言っていたから忙しいのかもしれない。いや、これは私のがそうであって欲しいと思っているだけ。本当はもう呆れられてしまったに違いない。あんなに優しくしてもらっておきながら中途半端に彼と関わって、怖くなったら逃げてしまう。そのくせ寂しいなんて救いようのない馬鹿だ。全部私が壊したのに。
 忘れてしまえれば楽になれる。けれどゴールデンの音楽番組、駅の大型ポスター、店の有線。画面の向こうで輝く彼を目にすることも耳にすることも避けられない。そんなこと言って、どうせそれも全部言い訳。わざわざ彼の出る番組を見なければ良い、ポスターに目を向けなければ良い、イヤホンで耳を塞げば良い。それをしないのは、出来ないのは。答えはもう分かっている。
 彼と私の繋がりはこの手にある小さな端末だけ。もう一度彼とのトーク画面を開くけれどやっぱり何も打てなくて、逃げるように電源を落とした。

 例のリップは、やはりモーヴピンクを買った。唇が彩られる度にあの日の彼を思い出して、心臓が締め付けられるような痛みを感じるのにそれを止めない自分に乾いた笑いをする毎日。
 リップの色に合わせて化粧の仕方を少し変え、髪色も暗くした。職場では大人っぽくなったなんて言われて、歳の近い男性何人かに声をかけられることもあった。モテ期なんて笑ってみたけれど、そんな気分になれるはずもない。どうせちょっと雰囲気が変わったからって面白がって声をかけてきただけだろう。丁重に断れば、ほとんどの男性はあっさりと引き下がった。所詮そんなもの。
 そんな中、隣の部署に勤める同期に告白された。前から好意を抱いてくれていたらしく、「雰囲気が変わったから、男が出来たかと思って焦った」なんて言われて、どう答えれば良いか分からなくて苦笑いをした。思ったことがすぐ口に出るところがたまに傷だけれど悪い人ではないし、むしろ素直で優しくて何より普通の人。
 “普通”とはなんなのだろう。少なくとも出掛けるのに人目を気にする必要はない。水族館や遊園地で手を繋いでデートして、友人に照れながら紹介なんかしたりして。それが私の知ってる“普通”の恋愛。彼のような人ならばきっとそんな当たり前で普通の恋が出来る。
 けれど私は同期の告白を断った。頭では分かっていても、感情は別だ。そんな気持ちのまま付き合うのは失礼にあたる。ただ元気がない私を心配して、同期は二人きりでなく何人かで集まって食事や飲みに誘ってくれた。一人でいれば考え込んでしまうから、その誘いはありがたいもので。本当に優しい。私になんてもったいない人。同期も、そしてあの人も。
 結局いつまで経っても忘れることはできないままで、この感情を紛らわすことが上手くなってきた頃。同期からライブに誘われた。それはアイドル、Trickstarのライブ。以前話をしている時に、私がTrickstarに反応したことを覚えていたらしい。反応した理由は言うまでもない。瀬名さんと話しているとき度々話題にあがっていた、彼の高校時代の後輩のグループなのだから。けれど同期がそんなことを知るわけもない。二枚のチケット。お姉さんから無理を言って譲ってもらったらしいそれを手に、どうしても嫌なら誰か他の人と行ってきても良いと言ってくれた。二人きりだ。どうしようかと悩んだが、とてお世話になったわけだし、ライブだけならばと行くことに決めた。
 それともう一つ。アイドルのライブというものを見てみたいと思ったから。瀬名さんと同じ、ステージに立つアイドルというものを。



 会場を出てみれば、今さっき終演したばかりのライブに興奮冷めやらぬファン達がごった返していた。どの曲が良かったとか、ファンサもらったとか。みんなが幸せそうな笑顔をしている。
「俺、アイドルのライブ初めてだったけど、なんかすごかったよな」
「そうだね。すごく楽しかった」
「男の俺が見てもドキドキするっていうか…あ、変な意味じゃなくて!」
「分かってるよ」
 素晴らしいものを見て語彙力が低下するのは仕方ないこと。私だってすごかったとしか言えない。キラキラ輝いていて、ただただ眩しかった。本当に。
「こんな大きな会場で、いっぱいのファンに囲まれたステージに立ってるってすごいよな。俺達とたいして歳変わらないのに」
「…うん」
「きっとあそこに立つ人達って俺達には考えられないような景色が見えてるんだろうな」
 同期に悪気がないことは分かっている。こちらの事情なんて知らないのだから。だからこそ彼の本心からの言葉に私はうつ向くことしか出来なかった。
 彼の歩みが止まる。それにつられて止まれば、ちょうど分かれ道のところだった。この会場は路線の違う二つの駅が最寄り。
「送ってくよ」
彼と私は別々の駅から来たはず。だから今日の待ち合わせだって会場の前だった。
「大丈夫、一人で帰れるから。電車の路線違うし、向こうの駅から乗っていった方が早いよね?」
「もうこんなに暗いから危ないし」
 申し出はありがたいけれど、今は早く一人になりたかった。
「私の家、駅に近いから大丈夫だよ」
「そうじゃなくてさ、それも口実っつうか…俺がもう少し名字と一緒にいたいってことなんだけど」
そう言った同期の手が私の指に一瞬触れる。しかしそれは突如として私の手を掴む人間によって阻まれた。
「え?」
 私も目の前の同期も、予想だにしない第三者の登場に思わずポカンとする。そして意識を取り戻す頃には、私はその手に引かれて走り出していた。ライブ終わり、多くの人で混み合う中、その間を器用に進む私達に同期はきっと追い付けないだろう。
 突然のことで頭の処理能力が上手く機能しない私は、とにかく足を動かすことを考えていた。だってこの手を振り払うことなんて出来るはずがない。その後ろ姿から分かるのはフードを被った細身の男性ということだけ。けれどあの一瞬絡んだ目と、この手の感触にはひどく胸が苦しくなる覚えがあったから。

「待って、あの、ちょっと」
 息が苦しい。こんなに走ったのは学生時代の長距離走以来ではないだろうか。呼吸の仕方とか足の運びだとか、何より体力が追い付かない私ではもう限界だった。
「待って、ください…瀬名さん!」
 そう呼べば目の前を先行していた彼、瀬名さんはすぐに立ち止まった。気付けば周囲に先程の賑わいはなく、閑散とした住宅街。会場から少し離れただけでこんな場所に出るなんて知らなかった。でも、今はそんなことなどどうでも良い。
 この状況は何なのか。どうして彼がここに。なぜ私を。言いたいこと、聞きたいことは溢れんばかりに湧いてくるのに、それを上手く収集することが出来ない。
 その時、ようやく手に持つバッグが微かに振動していたことに気付いた。誰からなんてすぐに予想がつく。瀬名さんを気にしてチラッと見るが、立ち止まってからずっと反応はない。私はあがる息を整えてから、中からスマートフォンを取り出した。
「もしもし?…うん、私」
 電話の相手はもちろん、先程まで一緒にいた同期。予想通り慌てた様子の彼に、私は出来るだけ落ち着いた声で話す。
「うん、知り合いだったの。送ってもらえることになって。そう…大丈夫だから。また明日、会社でね」
 心配する同期を適当な言葉で言いくるめ、通話を切った。それはそうだろう。いきなり自分の目の前で、フードを被った怪しい男に知り合いが連れ去られたら驚く。とにかく彼が大事にしていなかったことに安堵した。もし警察を呼ばれでもしていたら大変だったから。相手が相手。洒落にならない。
 問題が一つ片付いたところで、あと残る一つに目を向けた。怪しい男、瀬名さんは頭を下げていて、その表情はフードに隠れて見えない。ただ、繋がれた手は彼に握られた時からそのままで離されていなかった。電話中もその腕を振ったりしてみたが、込められる力が強くなったので止めた。
 通話を切ってしばらくしても、目の前の彼は無反応。まさか本当に知らない男だったりしないだろうか。
「瀬名さん?」
「ねぇ」
 自分の呼び掛けと重なるように聞こえたのは、よく知る人の声で安心する。でも、まだその顔は見えない。
「今の…さっきの男、誰?」
「同僚です。会社の」
「付き合ってるの?」
「…いえ」
「じゃあ…付き合うの?」
 その問いかけを否定することは易しい。しかしそれよりも、やっと顔をあげた瀬名さんの表情に気を取られて言うべき言葉を忘れてしまった。あまりにもつらそうで、今すぐにでも泣き出しそうで。あの日の別れ際の彼を思い出してしまう。
 繋いでいない方の手を頬に添えられ、それにつられるように少し顔をあげる。こんな近くで瀬名さんを見るのは久しぶりで、もうそれだけでいっぱいいっぱいだった。
「そのリップ、買ったんだ」
 なんで今その話を、なんて野暮なことは言えなかった。彼の親指が私の下唇をなぞる。
「アイシャドウも、リップの色に合わせた?髪色も暗くなったけど前より似合ってる…見つけた時、驚いたけどすぐ気付いた」
 そんなことを呟かれて。長く会ってなかったのに気付かれている。私の全部。
「可愛いよ」
 すごく嬉しいはずなのに、どうして胸が苦しくなるのか。
「それは全部、あいつのため?」
 貴方のためだと叫び出しそうになる。会いたくないのに会いたかった貴方のため。貴方を思うから変われるのに。
 意識しない日なんてあるはずがなかった。朝リップを塗る度に自覚してしまう。彼の唇が触れた手首はいつだって熱を帯びている。何度も貫かれた彼の瞳は、閉じていたって目蓋に焼き付いてしまっている。
 いつもはよく回る口も今日は駄目だ。あまりにも思い付くことが多過ぎてまとまらない。でもその全てを言ってしまえばもう戻れなくなる。
 ずっと握り続けられている手も、頬に触れる熱も、唇をなぞる指も、泣きそうな表情も。彼から伝えられる愛情を全身に浴びて、呼吸の仕方すら忘れそう。
「…なんであんたが泣くのぉ」
 言われてから気付く。目に映る瀬名さんは歪んでいて、私の頬には生暖かいものが伝っていた。きっと言葉が出ない代わりに出ているのだろう一滴。でも、もうそれでも足りなくて溢れ出てしまう。
「瀬名さんが好きです」
 自分の口から出たはずの言葉なのに、上手く理解出来なかった。
 少ししてから、ああ言ってしまったと後悔するがもう遅い。唇に触れている瀬名さんの指が硬直したのが分かる。意味が分からないだろう。何度も拒否しておきながら、今さらその口は好意を伝えている。涙で見えづらくなった視界でも、瀬名さんの見開いた目はきちんと捉えていた。
「……なら、どうして」
「怖い、です」
「何が」
「貴方を、好きなのが…怖いです」
 今日見たライブ。瀬名さんの後輩のライブだったけど、私はその向こう側に彼を見ていた。彼がいる世界はそこなのだと。平々凡々に生きてきた私にとって、彼はどうしたって眩しすぎる。
「だって遠いから…私、強くないんですよ。きっと苦しいって、つらいって。すぐ逃げたくなる。それで、瀬名さんも傷付けて。頭では分かってて。あきらめなきゃいけないから…だから距離、ずっと考えてて」
 私の途切れ途切れの、言葉の切れ端を瀬名さんは黙って聞いてくれている。上手く伝わってるだろうか。
「でも会えば、好きだって。会ってなくたって、あちこちで瀬名さん、感じて…泣きそうになる」
 貴方に、私の気持ちが。
「頭の中、全部瀬名さんになっちゃう」
 頬に触れていた手が頭に回り、そのまま彼の胸へと引き寄せられた。いつもの香水の中に微かに混じった汗の香りに心臓がざわつく。彼の息づかいを、鼓動の音をこんなに近くで感じるのは初めてで。そこでようやく彼が自分と同じ人間であることを認識する。
「俺だって怖いよ。あんたを見る度に全身であんたを求めてるのに、どう触れれば良いか分からなくていつも苦しくなる」
 背中に回る腕が強くなる。痛みを感じるけれど、それが彼の気持ちの強さからくる痛みだと気付けば拒むことなど出来ない。
「本当はあの日、すぐにでも連絡したかったけど、また拒否されたらどうしようって。メッセージを打っては消しての繰り返しで」
 ああ、なんだ。瀬名さんも同じことしてたんだ。
 自分と変わらないその行為を聞いて、彼に親近感が湧いてくる。手が届かない遠い存在だと、勝手に決めつけていたのは全部私だ。
「本当に名前のことを考えるなら、苦しませない恋をするなら、俺じゃない方が良いのは分かってる」
 苦しい。こんなに苦しい恋は初めてだ。それでも。
「でもどうしたって名前じゃなきゃ俺は駄目だから…どんなに拒否されても、傷つけられても良い」
 この綺麗な人を、私はもう。
「俺を諦めないでよ」
 諦められないほど愛してしまっている。

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