dolce log&take | ナノ



ごめんね、ありがとう



それはまるで、海の底に引きずられるような感覚。

片足が何かに引っ張られ、どんどん果てのない海底の奥深くへ引きずり込まれていくみたいにとても苦しい。どんなに足掻いても、どんなにもがいても、暗く冷たい不安定な闇が果てしなく広がるこの海から逃れる事はできない、と俺に対して圧倒的力を見せ付けているように。

そこに広がるのは冷たく塩辛い水と、死ぬことへの恐怖。

奥へ奥へと引きずられて、呼吸ができない為に苦しくて咳込んだ。咳込んだって逆効果なのに体は陸上に適応した反応をするからどんどん肺に水が入り込んできて、終いには肺などの呼吸器が海水で一杯になって俺は死ぬんだ。所謂溺死ってやつ。


そんな感覚に『陸上で』陥った俺は、気が遠退いて「あぁ俺は死ぬんだ」と激しく咳込みながら道端に倒れて気を失った。




次に気がついた時、目をうっすらと開くと前に一面白い壁らしきものが広がっていた。鼻を掠める消毒の匂いと、微かな花の香り。カーテンが僅かな風に揺れるばさばさとした音を聞いた辺りで意識が覚醒しだす。
周りを見やれば、目の前の壁らしいものは実は天井で、自分はベッドに寝かされている状態である事に気付く。


「…みどり、かわ…?」

不意に名前を呼ばれて顔を覗き込まれた。翠色の瞳と赤い髪が印象的の最近何かと世話になっているヒロトが、目の前でとても驚いた顔をしていた。

「ん…ヒロト…」

目を覚ましてすぐだからだろう少し掠れた声でその名前を呼んだ。そんな彼の、一瞬俯いて髪で表情が伺えなくなった顔が次の瞬間近付いてきて、俺はベッドに横たわった状態のまま抱きしめられる。

「緑川…っ…よかった…」

彼らしくない余裕のない震えた声が、彼が顔を埋めた自分の肩の方から聞こえてくる。

「ど、どうしたの…ヒロト?」

戸惑いを隠せず問えば、ほんとうに…よかった、と呟く首元の衣服が少し湿った感覚がして、初めて彼が泣いているのを知った。
今まで泣いている所なんて見た事がなく、これが俺に見せた初めての涙。

状況がまだあまり把握できずにいる俺でも何か申し訳ないことをしてしまったとぼんやり思って、その指通りの心地よい髪にそっと触れて、そっとぎゅっと抱き締め返した。



俺の身に起きた事をヒロトは全部説明してくれた。

強くなる為に俺が夜こっそり合宿所を抜け出してランニングやシュート練習をしていた事をヒロトは知っていたらしく、その日辛そうな俺を見て止めようと稲妻町内を探し回っていたそうだ。
だが俺は、自ら無理な練習を重ねる上に精神的な不安が募っていて、ランニング中に過呼吸に陥った。気を失った俺を見つけたのはたまたま通り掛かっただけの人で、その人の呼んだ救急車が到着する頃ヒロトは俺を見つけて今まで付き添ってくれた、らしい。

「本当に…心配したんだよ」

笑顔を向けてそう話すヒロトの目は、ほんの少しだけれど赤みを帯びていた。聞けば、俺は三日も昏睡状態にあったらしく、その間ずっとヒロトは世話を焼いてくれていたらしい。

「心配かけて…ごめん」

俺が謝れば、今は目覚めてくれただけで嬉しい、そう言って頬を撫でられた。その心地よさに目を細め微笑を浮かべる。

「でも、皆も心配してた」
「じゃあ、後で謝らなきゃな…」

本当に、申し訳ないことをしてしまった、と思う。もしかしたら俺は今、命がなかった可能性だってある。
こんなにも俺のことを想って、俺のことを心配してくれて、俺のことを叱ってくれる大切な人がいるというのに、それを今こうやって実感することなく命を落としていたとしたら……。それこそ背筋が凍るような感触だ。


「ヒロト、」

「…なんだい?」

でも正直に言えば、心配してくれてすごく嬉しかった。普段涙を見せないあのヒロトが、俺のために泣いてくれた。喜ぶべきところではなくて反省するべきところなんだけれど、それでもやっぱり嬉しかった。

だから、めいいっぱいの感謝の気持ちを言葉に添えて。



「ありがとう」

いつもしてもらっているように、今度は俺から、胸に飛び込むように抱きついた。










end









*****

携帯のメール下書きボックスから発掘されましたのを加筆修正して見ました。恐らくフリリクのボツだと思います。だってほら、似たようなシュチュエーションのがあるじゃないですか。多分にょたにし忘れてボツにしたんだと思います。
置く場所に困ったのでここに放置。


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