dolce text | ナノ



おひさま Sample



 今日は晴天に恵まれ、春先に桃色の花びらを散らしていた木々も、今はすっかり青々しい葉を生やして枝を天へと伸ばしている。半袖になるにはまだ少し肌寒いが、日の光は日を増すごとに確実に暖かみも増していた。
おひさま園の職員を辞し、国内でも名の知れる財閥の社長秘書となってからというもの、毎日がめまぐるしく忙しかった。覚えなければならないこともたくさんあるし、生活が一気に変わったため、まずは慣れるのに精一杯であった。

 あれから、二年が経つ。



「緑川、この資料もよろしく」

 水晶みたいな翡翠色が上半分だけレンズの周りを囲む黒縁の眼鏡の奥で微笑むと、紅葉みたいに綺麗な深紅の髪を揺らして再びパソコンの液晶へと向き直る。そして両手の指を軽快に動かし、キーボードを押す。
部屋に響くのは、そのリズミカルなキータッチの音と、自身が資料を揃え、纏める音だけであった。

 思い出すのは二年ほど前のこと。
 国内でも名前をよく耳にするような有数の大学へと進学し、多様な分野を勉強していた彼は、同時に養子として迎え入れられた財閥の次期社長になるべく、経験を重ねるために養父の仕事の手伝いもしていた。そして二年前の大学卒業後、すぐに社長の座を譲り受けた。
 一般的に財閥は様々な分野や業界に関わっており、それは吉良財閥も例外ではない。その中でも特に力を入れているのが、乳幼児や児童の健全な育成に関する分野で、財閥としての最初の取り組みが、俺たちの過ごした児童養護施設の『おひさま園』の設立であった。
 だから社長に就任することが決定したと同時期に、彼が自らオレを尋ねてきて、社長秘書になって欲しいと頼まれた。オレは高校卒業後、養成校である短期大学で乳幼児に関わる分野を学び、いち早く保育者として働いていた。
 
ちなみに、児童養護施設で育つ子どもの殆どは、高校卒業後すぐに就職するのが一般的である。それは、法律上の「児童」が十八歳の高校卒業までと定義されており、原則として高校卒業後は施設を追い出され、誰にも頼らず生活をしなければいけない。自立を迫られるからである。
 幸い、吉良財閥という国内でも有数の財閥の社長が、おひさま園を直接的に経営していた関係で、自分を含め多くの子どもが、夢を叶えるために進学をさせてもらった。

彼が自分を尋ねてきたときのことは忘れもしない。
「お前は二年も保育者として働いているだろ。経験で得た専門知識を俺に貸してくれると嬉しいんだ。俺には経験できないことだからね」
 決意を灯した翡翠色の目でそう微笑まれて、差し伸べられた手を握り返し頷いたことを、ふと思い出した。
自分の経験が少しでもヒロトのために生かせる。それがどんなに嬉しいことだろうか。あの日握った手の感触を今でも覚えている。




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試し行動は、先程も言ったように、虐待を経験している子は特に激しい。しかしマサキの場合は、ネグレクトを受けた経験があるためほぼ人間不信状態で、本当に手を焼いた。

一番大きな事件は、どこにでもあるようなスーパーで、食玩を万引きしようとし、見つかって警察にまでお世話になったことだった。
迎えに行ったら、とても不満そうな顔をして、大人しく椅子に座っていた。まだ小学四年生であったことと、初めての犯罪行為であったこと、それから身元引受人であるオレがいたことで厳重注意だけで済んだ。

 すっかり暗くなった空の下、夕飯の時間はとっくに過ぎているからマサキも腹が減っているだろう。まだ幼さの残る手を引いて帰りながら、二人で話をした・
 「なんで緑川さんは、オレを迎えに来たんだよ…」
 「お前は家族だろ。家族が家族を迎えに行かないなんて、有り得ないでしょ」
 「…オレ、悪いことしたんだよ。怒らねーのかよ」
 「マサキが自分で悪いことだって分かっているなら、オレが怒る必要ないよ」
 繋いでいる手が、ぎゅっと強く握られる。そして微かだけれど、震えているようにも感じた。
「なんで…なんでお前は、こんなオレに、そうやって何でもしてくれるんだよ…」

「マサキが嬉しかったらオレは一緒に喜ぶし、面白かったらオレも一緒に笑う。辛いことがあったら一緒に悩むし、悪いことしたら一緒に謝る。家族って言うのはそういうものなんだよ」

マサキは食玩が欲しくて盗んだわけじゃない。自分を見てほしい、受け止めてほしい目的でそんな行動に出たのだ。何でなんて理由は、そこには存在しない。本当の親が居たらそうするように、隣に寄り添って笑ったり泣いたりして、一緒に成長していくのだ。
そしてその事件を機に、徐々にマサキの試し行為は減っていき、少々口は悪くても、素直にいう事を聞いてくれるようになった。

それから、担当になってからマサキとよくサッカーをやった。施設に来たころのオレはサッカーなんて知らなかったが、流石に、円堂率いるオレたちの頃のイナズマジャパンが世界大会で優勝してからは、サッカーブームが続いていたため、マサキも何度かはやったことがあったらしい。
難関大学に通い、次期社長として経験を重ねるために週に一回は養父の仕事の手伝いをしにおひさま園にやってくるヒロトは、忙しいはずなのに、わざわざ帰りにオレの所へ寄って、マサキと三人でボールを蹴って遊ぶこともあった。
そしてマサキは次第にサッカーの面白さに気付いていったらしく、一人でもボールを蹴りに行くようになった。






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