dolce text | ナノ
しかけたのはそっち
30000〜90000! No.3
俺は今、きっとある意味での人生最大のピンチに立たされているのかも知れない。
目の前の可愛い後輩、兼、つい最近めでたく恋人となった立向居が、どういう訳か俺に手料理を作ってきてくれたらしい。 身長差の分だけきっと無意識に上目使いをする立向居のその笑顔と、両手で差し出されたその手料理はすごい嬉しいのだが、問題はその料理にあった。
「綱海さんがどうしたら人参を直に食べてくれるか、マネージャーの音無さんに相談してみたんです。そしたら俺が作ればきっと食べてくれると教えてくれて…木野さんにも手伝ってもらって、作ってみたんです」
少し恥じらいを見せつつも、食べてくれませんか、と皿を差し出される。
その少し深い皿に盛り付けられているのは、柔らかそうなじゃがいもによく煮込まれた牛肉がメインのどこにでもあるような一般的な肉じゃがだった。 そこにしんなりとした玉葱、少し小さくなったグリーンピース、そして俺の強敵であり宿敵である橙色のやつも入っている。
珍しく立向居に手を引かれて、やってきた消灯時間前の食堂。この時間皆は各々部屋で自由時間を満喫しているに違いない。 要するに、誰もここには立ち寄らないだろうから、逃げられないのだ。
そして立向居が俺の為にわざわざ作って、そして食べて欲しいという。裏を返せば人参を食べないと部屋には返してもらえない、という事だ。
完全に逃げ場を失った俺は、差し出されたその肉じゃがに箸をつけるしかなかった。
「綱海さん、人参がまだ残ってます」 「分かってるっての…」 「…食べて、くれないんですか…?」 「いや、食うけどよ…」 「でも、まだ1つも食べてません…」
はぁ…だめかぁ、なんて俺の向かいに座った立向居は、その皿を覗きながら溜め息を零す。 それも至極残念そうな顔で。
「これなら綱海さんも食べてくれると思ったんですが…」
こうなったら食ってやる、と覚悟を決めて箸を掴んだものの、どうしてもそれを口に運ぶ踏ん切りがつかずで、結局皿に残ってしまったのは3つの小さめに切られた人参。
食ってやりたいのは山々だが、一度だけ食べた事のあるあの特有の味が脳裏を過ぎってしまってはやはり握ったままの箸を動かす事は容易くなかった。 立向居にそんな顔をさせてしまった俺は本当に情けねぇ。
するとそいつはいきなり立ち上がり、そして俺の隣の席へ移動してきた。
なんだ、どうした、なんて疑問ばかり浮かぶ俺を他所に、立向居は覚悟を決めたような目で、俺の右手の箸をするりと抜き取り、少し俯いて言った。
「できればやりたくなかったんですが…奥の手です。俺、綱海さんの為に頑張りますから…」
だんだんと尻すぼみになっていく声量と、ほんのりと鮮やかに染まる頬にますます訳が分からなくなった。 そうしているうちに、そいつは皿を左手で持ち、右で掴んだ箸でひとつの人参を取り、口に入れた。
そしてかたん、と音を立ててテーブルに置かれた箸と皿を思わず目で追いかけていると、何かが頬に触れて急にぐっと引き寄せられる。
そいつの方に視線を戻せば、既にとても近くにある綺麗な海の色をした、ガラス玉のような瞳があって。 そして唇に、柔らかい何かが触れて。
自分からした事はあっても、されたことのなかったキス。あまりの驚きで何も出来ずにいる俺の歯列をなぞった立向居の舌をもあっさりと受け入れる。 それと共に、一緒に何か異物が流れ込んでくると思えば、それこそまさに人参だった。
気づいた時には既に遅く、舌を引っ込めた立向居はそのまま俺の口を塞いでいる。
何とか噛み切ってごくりと飲み込んで、やっと唇が離れた時は二人で荒い呼吸をするばかり。漸く整ってきたという頃には、立向居は恥ずかしさのあまり俺に背中を向けていた。
耳を真っ赤に染めいる姿が、可愛い事この上ない。
「……勇気、」 「…怒ってますか…?いきなりこんな事して…」 「いいからこっち向け、」
耳許でそっと囁き、恐る恐るといったように振り向いた真っ赤な頬に触れるだけなキスを落として、こちらに向けたままの背中をぎゅううっと抱き締めてやった。
しかけたのはそっち
「つ、綱海さん……」
驚いた様子で名前を呼ばれ、腕の中でそいつを体ごとこっちを向かせる。一度目が合って、すぐさま泳いで再びちらりと合った視線がとても初々しい。 羞恥で俯いてしまった立向居の額にこつんと優しく額をあわせた。
「ありがとな、勇気…お陰でとりあえずは人参食えたぜ」
額にちゅ、と音を立てて唇を落とせば、さっきより真っ赤になった目の前の恋人がぎゅううっと目を瞑っていて。
たまらなく可愛いそいつの、たまらなく嬉しい行動に、どうやら俺が理性を抑える事は難しそうだ。
(まだ、残ってますよ…にんじん) (食わせてくれるのか?) (…もう絶対やりません!)
(…後は自分で食べて下さい)
end
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