朝、玄関を出たら門扉の向こうに照美くんがいることは、だんだん日常になりつつある光景なのに、今日はなんだかそれが怖くて、パンプスをはいたまま立ち上がることができない。目の前の扉を出ればきっと、照美くんはそこにいるはずだ。だけど、 どうしても昨日の夜のことを思い出して、気分が重い。照美くん、怒ってないかな。あきれてないかな。簡単にうそをつくやつだって軽蔑してないかな。照美くんにきらわれてしまったら、わたしは、きっとかなしくてさびしくてしんでしまうだろう。 沈んだ気持ちで、携帯電話のサイドキーを押した。サブディスプレイにあらわれる数字。08:58。待ち合わせの2分前。あのまじめで誠実な照美くんが、来てないわけがない。待たせたくはないけど、……でももし今日でさよならみたいなことになったら?そんなの、いやだ、ぜったいいやだ。

「照美くん……」

わたし、まだ、すきだって言ってないよ。大会の日、照美くんに止められて、僕に言わせてって言われて、ちょっぴり、いやかなり期待してしまったけど、結局照美くんはそれらしいことはなにも言ってくれなかったし、わたしの気持ちは保留のまま。想いを伝えることもできないままさよならなんて、つらすぎるよ。 チカッ、と、サブディスプレイが点灯した。メール型のマークが浮かび上がる。メルマガかなにかかな、と思い気休め程度に開いたら、差出人は"亜風炉照美"。……あ、今日やっぱり行けない、行きたくない、とか、そういうメールか、と思ったら、本文はたったの1行。 『会いたいよ』 カバンをひっつかんで玄関を飛び出した。

「て……てる、み、くん」

門扉の前にいた照美くんはぱたんと携帯電話を閉じて、いつもみたいにやさしくわらって、 「おはよう、リサさん」 わたしはせっかくちょっと背伸びしておけしょうしてみたっていうのに、ぽろぽろ涙をこぼしてしまった。 「照美く、ごめっ、わたし、」 「……んーん、わるいのは僕。リサさんは謝らないで」 門扉を開けて近づいたら、照美くんのあったかい手が、あのときみたいにわたしの涙をぬぐったから、思わず目をぎゅっとつむった。次の瞬間鼻をかすめたいい匂いに、頭をよぎるのはあの大会の日、わたしのくちびるにふれた照美くんのくちびるのやわらかさ。 ちゅっ、とかわいらしいリップ音を鳴らし、照美くんはすこし困ったような顔をしてわらう。 「仲直りのキス、ってことで、いいかな」 わたしはだまってこくこくとうなずいた。

「……じゃ、行こうか。乗って、リサさん」
「うん」

いつもみたいに彼のうしろにまたがって、服の裾をつかもうとして、照美くんが私服だということに気がついた。わ、わわわわわわ。 「……リサさん?だいじょうぶ?」 「あっ、はい!」 「ちゃんとつかまっててね」 おそるおそる、照美くんの上着のはしっこを握った。 「え、えははは、は」 「ん?どうかした?」 わたしと照美くんを乗せた自転車がゆっくり進みはじめる。 「て、照美くん、私服かっこいいね」 1、2、3秒後。 「……ばか」 ……あれ、照美くん、もしかして照れてる?





*





たたん、たたんと一定のリズムを刻みながら、電車は線路をたどる。普段あんまり電車を利用しないわたしはなんだか落ち着かなくてまわりをきょろきょろと見まわしていた。わたしと照美くんのほかにおんなじ車両にいるのは、ちいさな男の子のいる家族連れと、背のひくいおばあちゃんと、気難しい顔してねむってるおじさんがひとり。稲妻町のとなりのとなりの町にある水族館は、いまの時期はあんまり客足がないみたいで、こっちの車線の電車は混まないのだ。うじゃうじゃしたひとごみはそんなにすきじゃないし、そのほうがわたし的にはうれしかった。ただ、気になることがひとつ。

「照美くん、あの」
「うん?なに、リサさん」
「え……えっと」

わたしと照美くんはとなりどうしで座っていて、まあそれはふつうなんだけど(いや肩があたるとうわあああってなるけど)、それよりも。わたしの左手をつつみこむようなあったかくておおきい手のひらは、何度たしかめたって照美くんにつながるもので、 「て……」 「手?」 それはわたしがホームへのびる階段ですっころびそうになったとき助けてくれてからずっとこうして重ねられたまんま。尋常じゃないくらいどきどきして、照美くんの顔をまともに見れないくらいだった。 「手がどうかした?」 「ど……どうかしたっていうか」 え、照美くんもしかして、無意識なの?わたしの手を握ってる感覚なんてないのかな?いいいいやでもでもあのときわたしの手をしっかりとつかんだのはまぎれもなく照美くんで、それは照美くんの意思で、……あっじゃあ離すタイミング失っちゃったとか?いまさら離したらへんに思われるって、思ったのかな。 「て、照美くん、だいじょうぶだよ?」 わたしべつにへんに思ったりなんかしないから離していいんだよ、という念をこめて照美くんを見つめていたら、その念が届いたのか照美くんは右手をもぞもぞ動かした。あっ離れちゃうのはちょっぴり名残惜しいかも、 「これってさあ」 照美くんがわたしの方を見ずに呟いた。 「ほかのひとには恋人どうしに見えるのかな」 わたしはぽかんとして照美くんの横顔をただながめていた。するとやっと視線に気づいたみたいに照美くんがちらりとわたしを見て、 「ほんとにそうだったらいいのに」 と付け足した。するり、指の間に入ってきた指はほんのり熱くて、でもわたしのほっぺたのほうが何十倍も熱くて。 照美くんにさっきの言葉の意味を聞こうと口を開いたとき、次の駅が近いことを知らせるアナウンスが入って、わたしはなにも言えなくなった。





*





「わあ……!」

おおきなおおきな水槽の前でこぼれるのは喚声とためいきばかり。となりに立って水槽をながめている照美くんにはしゃいだ声ですごいね、ほんとすごいねと馬鹿みたいに繰り返していたら、そうだね、となんだかおとなっぽい笑顔が返ってきて、わたしは自分のがきくささがちょっと恥ずかしくなった。なにやってんだわたし。これじゃまるで小学生みたいじゃないか。まあでも水族館なんて小学2年生のときお父さんとお母さんと来たっきりなんだけども。 すぐ目の前を優雅に泳いでいくいろんな種類の魚たちはほんとにきもちよさそうで、見つめていたらわたしも水に入りたくなってきた。いまだにクロールで25メートル泳ぐの必死なくせに。

「リサさん、次どっち行く?」

水槽から目をはなして振り返ったら、今度は人魚がいた。水からの光を反射してきらきらとかがやく金色の長い髪。ふわり、やさしくてきれいな笑顔。その人魚は2本のすらりとした脚を持った、れっきとしたにんげんであることはもちろんわかっていたけれど、でも目を疑わずにはいられなかった。 「照美くん、きれい……」 ぽろり、わたしの口からこぼれた率直な感想に、照美くんはちょっと首を傾げて、それから、なに言ってるの、と苦笑い。水槽のなかのたくさんの魚より、わたしはこのひとを見ていたいなあと思ってしまった。

「ね、あっちでヒトデさわれるんだって」
「ほんと?ヒトデってさわってもだいじょうぶなのかな」
「うーん、だいじょうぶなんじゃない?……あ、もしかしてリサさん、こわいの?ヒトデ」
「い、いやこわくはないけど!だってあのヒトデでしょ?」
「じつはすごく凶暴かもしれないよ?さわったらかみついてきたりとか」
「えっ、かみついてくるの!?」
「じょうだんだよ」
「な……なんだ、おどかさないでよ」
「ふふ、じゃ、行く?」
「うん!よーし、レッツヒトデ!」
「あ、なんかそれいいかも」
「え、まじでですか!」
「うん。レッツヒトデ」
「おう!レッツヒトデ!!」

わたしがおおきくガッツポーズをしたら、照美くんが急にふきだしてわらって、恥ずかしくて真っ赤になってしまったけど、柄にもなくおなかをかかえておおわらいする照美くんを見ていたらなんだかわたしもおかしくなってきて、ふたりで気のすむまでわらった。通路のとちゅうでわらいつづけているわたしたちを見て水族館のスタッフのひとがびっくりしていたけど、 「はは、れ、れっつひとでって」 「さあヒトデ!みたいな!」 「さあヒトデ、ふふっ、おかしい」 「さあ照美くん!レッツヒトデ!」 「うん、レッツヒトデ!リサさん」 なんて照美くんと言いあいっこしながら、わたしはほんとにいましあわせだなあと、思った。


6:/メビウスの輪






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