「はい、これ」

ぽとり、わたしの手のひらに落とされたのは、なんの変哲もない500mlのペットボトル。中はきれいに透き通った水で満たされている。一見、ただのミネラルウォーター、または水道水にも見える。わたしはすこし戸惑って、照美くんを見上げた。 「約束どおり、持ってきたよ」 照美くんはやっぱりやさしくわらってくれたけれど、なんだかそれはいつものとは違って見えた。わたしのこころはどうしようもなくざわつきはじめる。

「あり……がとう」
「あれ、あんまりうれしくない?」
「ううん、ちょっとびっくりして」

……これが、その神のアクアなの? なんというか、思っていたより、……ふつう、だ。もっとこう、それっぽいものかと思ってた。風丸が言ってたみたいに、ほんとにただの水に見える。これで、わたしは今日、……記録を、出す。

「せっかく持ってきたんだから、がんばってね」
「う、うん。ぜったいいい記録残すよ」

それに、意外だったんだ。かなりだめもとで、照美くんに神のアクアをゆずって欲しいって言ったのに、こうも簡単に持って来てくれるなんて。……もちろん、ドーピングは反則だ。ばれたらすごく怒られるだろうし、副部長なんてやめさせられるだろう。退部……にはならないにしても、他の部員たちになにを言われるか想像しただけでも胃がよじれるような気分になる。わたしはてっきり、照美くんは断るだろうと思ってた。ドーピングなんでだめだよ、正々堂々たたかわなきゃだめだよ、って、言ってくれると思ってた。こころのどこかで、そう言ってくれることを望んでいた。わたしだってわかってはいるのだ。これが反則で、いけないことだってことは、わかってはいる、のだ。けど。

「1種目めは短距離だよね?だったらほんとにちょっと飲めば効果は出ると思うよ。あ、別に変な味とかはしないから安心して」
「うん……」

なんでだろう、なんでわたしはいまこんなにがっかりしてるんだろう。照美くん、照美くん、わたし、こわいよ、とめてほしいよ、ほんとはこんなことしたくないよ。やめときなよ、って言ってほしいよ。だめだよって怒ってほしいよ。 照美くんは、わたしがずるしようとしてても、なんとも思ってくれないの、……なんて、照美くんにこれをねだったのはわたしなのに身勝手すぎるよね。でもまさかほんとに手に入るなんてこれっぽっちも思ってなかったから、……どうしよう、どうしたらいいの?

「開催場所って、フロンティアスタジアム?」
「そ、そう」
「リサさんはクラブのみんなとバスでいくんだよね」
「うん」
「じゃあ僕は先に向かっておくね。向こうで会おう」
「き、来てくれるの?」
「もちろん」

照美くんは肩をすくめて見せたあと、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。すこしだけ伏せられたまつげがすらりと長くて見とれてしまう。照美くん、なんでかな、ちかくにいるのに、いまはちょっととおくに感じる。……たぶん、このうしろめたい気持ちのせいなんだろうけど。

「それじゃ、またあとでね」
「うん、あとで」

照美くんがきびすをかえしてどんどんはなれていって、次第に見えなくなって。どくんどくんと脈打つ心臓は大会にたいする緊張のせいではでないことを、わかってはいながら、考えないことにした。わたしは照美くんに、きらわれたくない。





*





「もしかして、リサちゃん!?」

明るい声で名前を呼ばれ、わたしは振り返る。そこにいたのは、前の大会で知り合った他校の女の子だった。 「あ、久しぶり……」 前の大会にはあんまりいい記憶がない。前日から熱を出していたわたしはふらふらになりながら走ったせいでぶっ倒れてしまったからだ。それをもちろん、この子も見ていたわけで。 「今回は体調だいじょうぶ?」 ぐさり、その言葉が胸にささる。わたしは曖昧にほほえんで、スパイクのヒモを結ぶために視線を落とした。選手控え室はこみ合っている。わたしはちらりと、スパイクを入れていたふくろのとなりに置いた神のアクアのペットボトルを見た。なんらおかしいところは、ない。きっとだれもこれを変だなんて思ってないだろう。 数分後、控え室の扉が開いた。

「短距離走に出場するかたは移動してください」

係員に言われ、扉に近かったひとたちが動きはじめる。わたしに話しかけてくれたあの子も扉に向かって足を進めた。わたしは立ち上がって、ペットボトルをぎゅうとつかんだ。走らなきゃ。わたしは、……わたしのちからを認めてもらわなきゃ。今回かぎり、だから。いい結果が出たら自信が持てるから。そうしたらつぎの大会ではちゃんと自分の走りができる、から。言い訳に言い訳を重ね、わたしはペットボトルのキャップをひねった。





*





照りつけてくる太陽はすごく元気だった。 4人1組で、わたしは6番目に走る。今のところ、身体に特に変化はなかった。ほんとに、効くのかな。不安になって観客席を見回したけど、照美くんのかがやく髪のいろは見つからなかった。まだ来ていないのかもしれない。でもそれならそれでよかった。 パァン!と火薬がはじける音がした。1走めがスタートした。 ……これを走りきったあと、どんな結果が出たにしろ、つぎの中距離走は神のアクアを飲まずに走るつもりだ。やっぱり、こんなの、だめだ。 パァン、2走め。あ、あの子が走ってる。みんな、はやいなあ。わたしもはやいつもりなんだけどなあ。だけど今までまともに走れたことないから、みんな知らないんだろうな――パァン!――、もう3走めか。

「ふう……」

だいじょうぶ、落ち着いて。照美くんが渡してくれたあれはほんものなのだ。ぜったいはやく走れる。だいたいわたしはもともとはやいほうなのだ。だいじょうぶ、だいじょうぶ、ぜったいだいじょうぶ。 はじけた火薬のにおいが鼻をかすめた。みんな驚くはずだ。あの子こんなにはやく走れたの?って。 「6走目、前に」 わたしはゆっくり、だけどしっかり立ち上がった。踏み込み台に足をかける。旗が上がる。腰をおとす。火薬が――パァン!――はじけた。





*





控え室に向かう前に顔を洗おうと、一旦外に出て備え付けられた水道の蛇口をひねった。ぱさり、急になにかが頭に降ってきた。 「――っ?」 まっさらでふんわりとしたタオルからはわたしのすきなにおいがした。照美くんのにおい。

「照美、くん」
「おつかれさま。すごかったね、リサさん」
「あ……、ん、神のアクア飲んだから、だよ。すごいのは神のアクア、だ。……わたしは――」
「へえ、あれ飲んだの」

照美くんが、さも楽しそうににこにことわらっている。わたしは自分が情けなくて、照美くんの顔をちゃんと見れなかった。……まさか、あんなに効果があるなんて。あれじゃ、完璧にドーピングだってばれちゃう……。わたしの陸上人生は終わりを告げるんだ。 「飲んだのなら、すごいのはやっぱりリサさんだね」 照美くんが笑顔のままそう言って、わたしは一瞬かたまってしまった。……照美くん、わたしのはなし聞いてたのかな?わたしは神のアクアを飲んであんなタイムを出したのだから、すごいのはわたしじゃなくて神のア 「ただのミネラルウォーターで大会新出せるなんて、きみはすごいよ」 ……、え?

「み、……ミネラルウォーター……?」
「そう。今朝きみに会う前に自販機で買ったミネラルウォーターのラベルはがして渡したんだ」
「う、うそ、でもわたしほんとに……足はやくなって……」
「何言ってるの、あれがきみのほんとの力だよ。まあ、神のアクア飲んだからだいじょうぶっていう自己暗示の効果もあると思うけどね」
「……うそ、あれ、わたし、わたしの……ちから……」

頬がひんやりしたのでなにかと思ったら、なみだで濡れていた。 「わ、わた、し」 照美くんが今まで見たことない笑顔を浮かべて、わたしを見つめる。いつものふわっとしたわらいかたじゃなくて、なんだかおとこのこっぽい、からりとしたえがおだった。わたしはどうしてこのひとを最初おんなのこと間違えたんだろうと考えた。照美くんはこんなにかっこいい男の子なのに。 「よくがんばったね」 照美くんの骨ばったてのひらがわたしの頬のなみだをすうっとぬぐった。そしてすこしかがんだ照美くんは砂糖菓子みたいにあまい声で 「……目、とじて……」 と言って、催眠かなにかにかかったみたいに素直に目をとじたわたしに、魔法をかけるみたいにキスをした。そのままぎゅうとつよくだきしめられて、気温が3度くらい増したみたいに感じた。それでも照美くんの体温をたしかめたくて、おそるおそる背中に手を回す。息が、くるしくなってくる。

「……て、るみ、……く」
「ごめ、っ……も、すこし、だけ……」

わたしが照美くんのむねを押した直後はなれかけたくちびるは、もう1度かさねあわせられて、酸素がたりなくて、だけどはなれてほしくなくて。 ……へん、なの。くるしいのに、くるしくていいって思う。息ができないのに、それでもいいって、思う。照美くんにぜんぶ奪われてるのに、ねえ、もっと、もっと、って、思う。

「……は、ぁ」
「……、ごめん、ね、苦しかったでしょ」
「ん、……だいじょぶ……」

からだじゅうがぞわぞわしていた。照美くんに見られないようにうつむいて、くちびるをゆびでなぞってみた。なんなんだろう、これ。はじめての感覚。そりゃまあはじめてキスしたんだからあたりまえか。ふうん、キスって、こんなかんじなんだ……。 「リサさん」 「は、い?」 「中距離も、がんばれる?」 「……うん」 「つぎは神のアクアなしだよ?」 「うん」 「……大会新出せる?」 「……、だせる」 「そっか」 じゃあ、終わったらごほうびあげようかな。 照美くんが優しくそう言って、わたしはちょっぴり期待してしまう。 「ごほうびって、なに?」 「うーん、なにがいい?」 「えっ、と……」 もう1回キスしてほしいな、なんて、恥ずかしくてさすがに言えない。えっと、だったら、……そうだ。 「デ、デート、しよう、照美くん」 「デート?」 照美くんは一瞬きょとんとして、それからほほえんで、「うんわかった、デートしよっか」と言って、わたしはぱあっと顔を輝かせた。

「わたし、がんばるよ!」
「うん、がんばって」
「あ、じゃあそろそろ控え室行くね。えっと、あとで、また」
「ん。いってらっしゃい」

照美くんが手をふってくれたのを確認してから、わたしは控え室にむかって走り出した。……、すごい、すごい!さっきよりからだが軽い。大会新どころか日本新だせそうな気がする。だって、あの照美くんが、照美くんがわたしに、キスしてくれた。ゆめ、みたいだ。ほっぺたをつねってみた。いたい。ゆめじゃない。ゆめじゃあ、ない。





*





「照美くん」
「んー?」

カラカラ、車輪が、回る。夕焼けの空がとってもきれいで、空気も澄んでいて、なんだかすごくいい気分だ。照美くんのうしろで見る世界はほんとにいつもうつくしくて、わたしはいっそ写真家になって毎日写真を撮るべきなのかもしれないと思った。

「照美くん、さ、どうしてあのとき、キ――キス、した、の」

あとあと考えてみたら疑問がうまれた。照美くんはどうして、わたしにキスしたんだろう。わたしたちはもちろん付き合ってないし(付き合えたらいいなとは思うけど)、からだだけとかいう仲ではぜったいないし。かといって、照美くんがわたしのことをすきだから、っていうのは、たぶんいちばん可能性がひくいと思う、んだけど。

「……さあ、どうしてだろうね。衝動的にかな」
「……すきでもない子にキスできるの?」
「そんなことないよ。リサさんだから、したんだ」
「わたし、だから」
「そう。きみだから」

照美くん、それはいったいどういう意味なの?わたしは、期待してもいいの?照美くんがわたしを好いてくれてるって、自惚れてもいいの。すきだからキスしてくれたって思っても、いいの? 「いやだった?」 照美くんが唐突に言った、 「ううん」 いやなわけなかった。わたし――わたし、いつのまにか照美くんのこと、こんなに好きになってたんだ。 「でも苦しかったんでしょ」 「そ、そりゃ、ちょっとは」 「……ごめん」 謝らなくていいのに。 「ほんとにいやじゃなかった、よ?」 「そう?……じゃあ、もう1回する?」 わたしがびっくりして、なにも答えられないでいたら、突然照美くんが声をあげてわらいはじめた。 「――じょうだん、だよ」 自転車が止まったので、何事かと思えば、わたしの家の前だった。照美くんのうしろからおりて、 「今日はほんとにありがとう」 と言って、門扉を開けようと取っ手に手をかけた、そのとき。 もう片方の手首をやさしいのにつよいちからでつかまれて、ひきよせられた。見開いた目にうつるのは照美くん、だけ。 ふわりといいにおいがして、わたしは静かに目をとじた。わたしのくちびるをついばむみたいに、照美くんがちゅう、ちゅうと口付けてくる。 「っん」 じょうだんって、言ったくせに。薄く目を開いたら、わたしの思ってることなんてお見通しみたいで、照美くんはちょっと申し訳なさそうな顔をして、 「ごめん」 ……だから、謝らなくていいのに。

「……じょうだんのつもりだったんだけどなあ」

苦笑いした照美くんはわたしをつつみこむみたいに抱き寄せて、 「おさえられなかったよ」 と呟いた。心臓が、走りきったあとみたいにばくばくばくばくしている。寿命が縮んでく。照美くんに、ころされてしまいそうだ。

「て、るみ、くん、あのね、わたし」
「待って」

照美くんのほそくてながい人差し指が、わたしのくちびるに触れた。 「それは、僕に言わせて?」 3度目のキスはあまくてあまくて、からだの芯までしびれるようで、息さえさせてもらえない。





4:/ロメオと聖戦






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