どきどきしすぎてめまいがした。まわりの声がまったく耳に入らない。お母さんがわたしの服の袖を引っ張ってなにか言っていたけれど、照美くんのいなくなったテレビ画面を見つめたまま動けないでいた。サッカーの試合が行われていたフロンティアスタジアムは、この空港からそんなに遠くない。陸上部のわたしに追いつくくらい足のはやい照美くんなら、搭乗時間までに――いや、まだそうと決まったわけじゃないんだけど、……でも。
ポケットに入れていた指輪を取り出す。きらり、輝いてみせたそれがわたしに信じて、と言っているような気がした。指輪の内側に彫られたわたしと照美くんのなまえは変わらず寄り添っている。信じたい、――ううん、信じてる。

「リサ!リサ聞いてるの?そろそろ行かなくちゃ。アフロディくんの試合も最後まで見れたことだし」
「お、お母さん、あのね、わたし」
「つべこべ言わないで、行くわよ!乗り遅れたら大変なんだから」
「待っ、」

どこにそんな力があるのか、お母さんは大量のお土産がつまった自分のかばんを軽々と抱えわたしの腕をぐんと引っ張った。変な方向につかまれてしまったため、ろくな抵抗もできず引きずられるようにして休憩スペースから離れていく。いま乗ったエスカレーターで上の階へのぼったら、金属探知機とかボディチェックとか、もろもろを抜けて、その先はもう乗客以外は立ち入れないスペースで。わたしはどうしてもまだ、そこを通るわけにはいかない。

「やだ、お母さん、まだ10分くらいあるじゃない!」
「ギリギリに行くのなんていやよ、みっともない」
「い、いや、わたしまだ行かない!」
「今さら何を言ってるの、リサ!」
「だって、きっと来てくれるはずなの……!」
「来てくれるって、いったい誰が!お父さんなら見送りには来ないわよ!」
「ちがう、お父さんじゃな、――あっ、」

わたしの手のひらからこぼれ落ちた指輪は床にあたって、キン、と高い音を立てた。そのまま跳ねて、コロコロといま進んできた方向へと転がっていってしまう。 「ま、待って、」 「ちょっと、リサ!」 お母さんの制止を振りほどいて、わたしはかけだした。だめ、だめ!このままいったら、エスカレーターに挟まれるか、もしくは階下に落ちるか。どちらにしろ無事じゃすまないはず。そんなわけにはいかない、だってあれは照美くんがくれた指輪なんだから。 コロコロ、コロコロ、わたしの願いもむなしく、指輪は転がり続ける。はやくはやく、走ってるはずなのに、足がもつれて追いつくことができない。 「やだ、」 こんなときに、どうして走れないの。わたしはいままでなんのために走ってきたの、誰のおかげで走れるようになったの? エスカレーターは無情にもガラガラと音を立てて指輪を待っていた。もう、だめだ。足のちからが抜けて、床にへたりこんだ。 「て、るみく、っ」 ――こつん。 衝撃でくるくる回ったわっかはぱたんと倒れて、動くのをやめた。スパイクにぶつかった指輪を拾い上げる細くてながい指。背を起こした照美くんは珍しく息を乱していたけれど、それでもかわらないえがお。

「呼んだ?リサさん」
「――照美く、」

目にたまっていたなみだがぼたぼたと勢いよく落ちた。照美くん、照美くん、……照美くん、だ。ほんとに、ほんとの照美くんだ。 「て、てる、っ、うぅ」 近づいてきた照美くんはふわりとわたしを抱えて立たせてくれた。 「はい、落とし物」 左手の薬指にはめられた指輪は得意げな顔をしていた。まるで、引き合わせてあげたとでも言いたげに、きらりとひかる。 「間に合ってよかった。でも時間がないから言いたいことだけ言わせてくれる?」 わたしをぎゅうと抱きしめる照美くんの身体は、全力疾走のあとらしく熱くて、その体温すらいとしくて、しがみつくみたいに手を背中に回した。

「僕、きみにきらいだなんて言ったけど、あれ嘘なんだ。ほんとはだいすき」
「……うん」
「それに、東京から出ていってほしくないし、引き止めたくて仕方がなかった。きみと離ればなれになるなんて、もちろんいやだし、もしそうなったら僕はしんじゃうんじゃないかなって思った」

わたしと照美くんの近くを通りすぎていくひとたちの目線を感じたけれど、そんなのどうだってよかった。照美くんは、来てくれた。来てくれたんだ。

「でもさ、きみはお母さんを支えてあげなくちゃいけないんだと思ったから、僕のことは放ってでも行かせないとだめだって、考えて、それで」
「きらいって、うそついたの?」
「うん、……でもすごくつらかった。うそでもきみにきらいだなんて言いたくなかった。こんなにこんなにすきなのに、なんで逆のこと言わなきゃならないんだろうって思った。きみのためだったはずなのに、きみを傷つけて、自分も傷つけて、こころがずたずたになった。やっぱり、僕、うそはきらいだ。だから、ほんとうのことを言いに来た」
「……照美くんがうそついてるのなんか、すぐわかったよ、わたし。つらくて、かなしかったけど、でもわたしのことを考えて言ってくれたんだろうなって思った」

ていうか照美くん、うそつくのへただったね。 わたしがちゃかすみたいに言ったら、照美くんは小さくわらって、それから、わたしを抱きしめるちからを緩めた。久しぶりに、照美くんを正面からしっかり見たような気がした。

「いますぐにでもきみをさらってしまいたいくらいなんだけどね」
「あ、わたしもさっき照美くんにさらわれたいって考えてた」
「ほんと?――ん、そうしたいけど、でも、きみのお母さんを悲しませるわけにはいかないし。どうせ何年か後にはお母さんからきみをうばいとって、ぜんぶ僕のものにしちゃうんだからね」

いまは我慢しておくよ、と冗談めかしたように言われて、わたしはふふ、とわらいかえした。照美くんはいつだって本気だから、たぶんそれもいつかは現実にしてくれるんだろうなあと思った。

「リサさん」
「うん」
「かっこつけるみたいでいやなんだけど、……僕、きみを迎えに行くよ」
「むかえ、に?」
「うん。高校卒業したら、かならず。と言ってもまだまだ子どもだし、経済力もないし、はっきりしたことは言えないけど、でもこれだけは誓うよ。きみをしあわせにする」
「もうじゅうぶんしあわせだよ、わたし」
「じゃあもっともっとしあわせにする。約束だよ」
「――うん、約束」

照美くんの手のひらがやさしくほっぺたの涙を拭ってくれた。ここが空港で、ひとが見てて、うしろにお母さんもいて、そんなことはわかっていたけどぜんぶ知らなかったことにして、どっちからともなくキスをした。触れるだけの、短い短いキスだったけど、こめられた気持ちはいつもより大きかった。 「じゃあ、わたし行くね」 照美くんの服をつかんでいた手をはなして、言った。 「うん、――またね」 照美くんはにっこり、わらう。わたしもわらう。小さく手を振って、わたしは照美くんに背を向けてお母さんのもとへ走りだした。 「ごめんお母さん」 お母さんは首を振っただけで、怒ったりはしなかった。 「行こうか」 「うん!」 係の人が渡してくれた小さいカゴに、手提げかばんを入れる。動くベルトの上に乗せたら、かばんはひとりでに進んでいく。わたし自身も四角い囲いの中をくぐろうと一歩ふみだした、とき。 「リサ」 決して大きくはない声、だけどたしかに聞こえた。わたしは足をとめて振り返る。

「行ってらっしゃい」

照美くんが、言って、とまっていた涙がぶわっとあふれだした。

「行って、きま、す、っ」

涙をそででぬぐいながら、とぎれとぎれに返した。照美くん、……照美くん。もうことばにできないくらいのこの想い。こんなにひとをすきになれることを、照美くんと出会うまでわたしは知らなかった。 「てるみく、っう、だい、すき……」 離ればなれになるのは、やっぱりまだいやだ。つらいし、たえられるか不安だ。でも照美くんが迎えに来てくれるって言うから、わたしは待つことにする。照美くんのことばはいつだってほんとで、ぜったいだから、信じられる。

照美くんが大きく手を振ってくれるのを見たあとで、わたしは踵をかえして四角い囲いをくぐった。……さようなら、――でもきっとまた会える。わたしのだいすきなひと。いちばんたいせつなひと。

かばんといっしょにカゴに入れていた指輪を左手の薬指にはめて、わたしはちからづよく歩きだした。




20:/さよならかみさま


Fin








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