くるくる、真っ白い包帯が巻かれていく自分の脚を見ていても、不思議なことに怒りや悲しみは感じなかった。……わたし、おかしいや。治るまでだいすきな陸上ができないっていうのに、あの子のことをちっとも恨んでいない。そりゃ、もし、もう二度と走れないとか言われていたら、さすがにちょっとは憎んでたかもしれないけど。あの子があんまりきれいで、やさしかったから、どうしても悪く思えないでいた。

「はい、いいわよ。完全に治るまではクラブ行っちゃだめだからね、萱島さん」
「わかってますってばそんなの」
「あなたは毎度毎度信用できないの!前だって完治しないまま無理矢理大会に出てたくせに」
「だって2年最後の大会ですよ先生!このわたしが出なくて誰が出るんですか」
「悪化して2週間ろくに歩けなかったのは誰だったかしら」
「萱島リサさんです先生」
「あら、教えてくれてありがとう萱島リサさん」
「先生ってそんなんだから結婚できないんだと思うよ」
「余計なお世話です!」

ぺし、と膝を叩かれて思わず小さくうめいた。 ……う、けっこういたいぞこれ……。 それにしても、またまた大会の前にこんな怪我しちゃって、わたしってつくづく本番に弱いよなあ。ほんとはもっともっと早く走れるのに、大会前になるといつもコンディションが悪くて、いい成績が出せない。練習のときみたいに自由にすきなように走れたら全国大会だって夢じゃないぞ、ってコーチも言ってくれてるのに。わたしは1年のころからずっと期待にこたえることができていない。陸上馬鹿なわたしをみんな応援してくれてるのに、すごく、悔しい。

「ありがとう、先生」
「これにこりたら自転車のよそ見運転はやめなさいよ、あなたそれでなくてもそそっかしいんだから」
「ははは、治ったらチャリ通やめて疾走通学にするよわたし」
「今度は車にひかれたりしそうで先生こわいわ」

はあぁ、と深くため息をつく先生に手を振って、保健室の扉を閉めた。捻挫した脚をかばいながらひょこひょこと廊下を歩く。目の前に立ちふさがる階段はいつもなら楽しい練習場所なのに、今日はなんだか難攻不落のでっかい壁みたいに見える。3年生の教室は2階にあるから、それがせめてもの救いだった。 ……あの子は、大丈夫かな? てすりにつかまりつつ一段ずつ地道にのぼりながら、今朝ぶつかった女の子のことを考える。すこし前から、通学中たまに見かけていた子だ。たぶん、世宇子中の生徒だと思う。清楚なあそこの制服をさらりと着こなす美人さんだ。わたしの脚なんかより、あの子の方が大丈夫かどうか気になる。モデルをやっててもおかしくないくらい細くてスタイルもよくて、ほんとの美人だった。もし怪我でもさせてしまってたら、わたし、どうしよう?
教室の扉をがらりと開けたら、先生をふくめてほとんどのひとの目線がわたしに飛んできた。

「遅いぞ、萱島!……なんだ、おまえまた脚やったのか?」
「はあ…、ちょっとしくじりまして」
「おまえなー、雷門の陸上部の副部長がそんなんじゃなっさけないぞ?」

……あーもう、そんなの、わたしがいちばんよくわかってることだってのに。 わたしだって、変わりたいよ。もうこんなしょうもないヘマしたくない。最高のコンディションで大会にのぞみたい。すっごい記録を打ち立てたい。日本一にだってなりたい。オリンピックにも代表として出てみたい……。 きゅ、とくちびるを噛みしめて、自分の席についた。 あーあ、どうしてわたしって、こんなんなのかな。このまま、だいすきな陸上やっててたら、いつかは誰かに認められるんだろうか。故障ばかりのエースなんて、エースじゃないや。変わりたい、変わる力が欲しい。……なんて。ごめんね部長、役立たずな副部長で。今回ばかりはさすがにあきれられちゃうかもしれないなあ。



*



今まで毎日のようにクラブがあったから、こんな時間に家に帰るのは久しぶりだ。見学だけでもしようと練習場所に行ったら部長に追い返された。そんなことしてる暇あったらさっさと治せ、って。

「ふー……」

右足は、授業中もたまに痛んだ。病院に行って松葉杖でも借りてこようかと思ったけど、たぶんわたしはろくに使いこなせないで逆に転ぶだろうから、やめた。 ……お母さんはなんて言うかな。またやったの、とか、そんなのですむかな?無理言ってクラブ入らせてもらったのにちっともいい報告できてないし、怒られても仕方ないって思う。まあ今回はわたしがひとりで電柱につっこんだとか、そういう馬鹿なのじゃないから、許してくれるかもしれない。ただ、あの子のことが気がかりだった。彼女がどうしてあんなに急いでいたのかはわからないけど、歩行者と自転車なら悪いのはこっちだ。もし慰謝料とか、そんなはなしになったら……、わたしの家は破産するんじゃないだろうか。
自転車置き場でカゴの曲がった自転車を見つけひっぱり出して、おそるおそるまたがってみた。意外といけそうかもしれないと思ってひとこぎしてみたら、右膝に激痛が走った。 「いっ……!」 思わずうめき声を上げる。尋常じゃない痛さだ。こりゃ、明日からチャリ通は無理だなあ。 仕方がないので、ふらふらしながら門まで自転車を押して歩いた――、ら、さらさらの長い金髪が風にふわりと揺らぐのが見えた。

「あ」

今朝の。
わたしに気づいたらしい彼女はたたっとかけよってきて、勢いよく頭を下げて、 「朝はごめん!」 と叫んだ。わたしは突然のことに思考回路が一旦停止。……まさか、雷門中まで謝りにくるなんて。

「えっ、と、あの、わたし別に大丈夫だから、気にしないで」
「嘘、……脚痛そう」

顔を上げた彼女はやっぱりとびっきりの美人で、なんだか謝られているわたしの方が悪人みたいだと思った。 「そんな顔しないで」 今にも卒倒しそうに見える彼女にそう言ったら、 「送っていくから」 と返ってきた。 ……ん?送っていく? 頭の上にクエスチョンマークを飛ばしまくっていたら、わたしから自転車のハンドルを奪った彼女が力強く微笑んだ。 「家までの道、教えてくれるかな」 彼女の緋色の瞳にわたしが映っているのはそれはそれは不思議なことだった。だって、ただ朝にすれ違うだけの彼女がこんなにそばにいるなんて。



*



重くない? という質問をもう何度くりかえしただろう。そのたびに彼女は大丈夫だよ、と返してきた。華奢なのに意外と力があるみたいで、車体はぜんぜん揺れない。だれかとふたりのりするときはいつも前だったわたしにとって、後ろに座るのはなんだか落ち着かなかった。前を向けば彼女の背中が見える。脚を動かさなくても景色が動いていく。 (なんか、へんな感じ……) はじめての体験に、わたしの心臓はどくどくと脈打っている。 ああ、そういえば。 「ねえ、きみ名前なんていうの?」 彼女の金髪が時折わたしの頬を撫でて、すこしくすぐったい。 「名前?照美だけど……」 「てるみちゃんかあ」 「きみは?」 「萱島リサ!」 かわいい子は名前もかわいいからいいよなあ、なんて思いながら、彼女の背中を見つめる。糸くずひとつついていないクリーム色のブレザーから気品があふれでている。世宇子中の子たちってみんな育ちがいいってきいたけど、この子はまた格別なんだろうなあ。わたしみたいな庶民が後ろに乗せてもらったりなんかしちゃって、おこがましいというかなんというか。

「てるみちゃん、世宇子って楽しい?」
「最近はまあまあ楽しいよ」
「そうなんだ」
「雷門はどう?」
「すごい楽しいけど、受験生になってからは授業が嫌かな……てるみちゃんは何年生なの?」
「3年だよ」
「あ、一緒」

お互い大変だよね、と言おうとしたけど、世宇子ってたしかエリートだったような……。だとしたら勉強に困ることなんてないか。てるみちゃん賢そうだし、きっといいとこの高校受けるんだろうなあ。わたしなんかがんばってがんばって偏差値50だというのに。

「……ねえ、脚、ほんとに大丈夫?」
「うん、これくらいへっちゃらだよ。わたしよく転ぶから慣れてるしさ!」
「いや、今日は……突然飛び出したりしてごめん」
「いやいやいいってば!てるみちゃんに怪我がなくてよかったよ」
「よくないよ」
「え、なんで」
「だってきみは、女の子なんだから」
「へ」

すごく、びっくりした。……そうだ、わたしって女の子なんだ……。ふだんあんまりだれにも女扱いしてもらえないから、わたしってもしや男の子なんじゃなかろうか……と疑うこともたまーにあったくらいで。いやでもてるみちゃんほどの美人さんに女の子って言われるとなんだかなあ。きみの方がずっとずっと女の子だよてるみちゃん……。などと考えているとてるみちゃんが 「次の角どっち」 と聞いてきたのでひだり、と答えた。 ふんわり、春の風はこんなわたしにもやさしくてあたたかくて、あ、なんかてるみちゃんみたいだなあと思った。 なんだそれ。 萱島リサ心の詩か。

「萱島さん」
「かたくるしいなあ、リサでいいよリサで」
「……リサさん」
「はいよなんだいてるみちゃん」
「きみ、知らないの?」
「なにを?」
「僕のこと」
「……てるみちゃんのこと?」

えっと、だから、通学中すれ違う世宇子中の美人さん……、でしょ? ていうかてるみちゃん、一人称僕なんだ。女の子が僕って言うの、漫画やアニメとかでしか聞いたことなかったけど、てるみちゃんが使うとなんだかかわいいなあ。意外としっくりくるっていうか。いいなあほんとかわいくて……。わたしなんかが使ったらきもいだけだもんな。 僕、萱島リサ! うん、きもいきもい。保健の先生もびっくりのきもさだよ。

「あ、もしかしてここ?」

キキ、とブレーキ音がして、自転車が止まったのはたしかにわたしの家の前。わたしはうん、ありがとうとお礼を言って、右足に負担がかからないように気を付けながら降りた。 「朝は何時くらいに家出るの?」 カゴの中に入れてたカバンをわたしに手渡しながら、てるみちゃんが言った。 「うーん、いつもは8時くらいかな。明日から歩きだからもっと早く出なきゃだけど」 「脚治るまで、迎えにくるよ」 「……え?い、いやいいよそんなの」 「だめ。僕が悪いんだから」 「いいってば、そんなの!めんどくさいでしょ?わたし別にてるみちゃん恨んだり怒ったりしてないからさ、気使わないで」 「気なんか使ってないよ、迎えにきたいからくるだけ」 頬になにかが触れたので、思わずびくりと身体がはねた。絹みたいになめらかなそれが、てるみちゃんの手のひらだと気づくまで約3秒。緋色があまりに近くにあって、獣ににらまれたみたいにわたしの脚は動けなくなった(いや元々捻挫でそんなに動かないけれども)。 「て、てるみちゃん?」 前髪をすくいあげる手のひらはひんやり冷たくてきもちいい。どきどきどきどきして、心臓のあたりがいたいくらいだ。 額にふにゃりとてるみちゃんのくちびるが触れて、わたしはお風呂でのぼせたときのような感覚に陥る。 「約束だよ」 てるみちゃんの笑顔は女神さまみたいだと思った。ずるいくらいにやさしくって、とびっきりきれい。馬鹿なわたしは彼女から目が離せなくなってしまう。

(……お、女の子にでこちゅうされてしまった……)



1:/眼球泥棒








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