乾いた布を手に、土で汚れたスパイクを磨いていく。穏やかなのに、どこか寂しい時間だった。ところどころ生地が破れかけたこのお気に入りのスパイクとも、もうすこしでおわかれ。わたしたち3年は高校受験にむけて勉強するため、部活を引退する時期なのだ。
「気合い入ってるな」
あたまの上からそんな声。 「風丸」 わたしが名前を呼んだら、風丸はなんだかうれしそうにわらった。 「いま休憩時間なんだ」 「そっか」 「萱島もか?」 「うん」 わたしのとなりに腰を下ろした風丸は、長い髪をかき上げて、あついな、とつぶやいた。あついね、と返しながら、わたしはスパイクを磨きつづける。そういえば、すこし前にもいまとおなじようなことあったなあ。
「萱島、最近がんばってるみたいだな」
「あ、大会のこと?」
「新記録を出しつづけてるんだろ」
「うん!やっとちゃんとちからを出せるようになったんだ」
「そっか!よかったな、俺もうれしいよ。……おまえがどんどん有名になってくのはちょっとさびしいけど」
「え、いやいや、わたしなんてまだまだだよ?全国レベルのひとたちにはぜんぜんかなわないし」
「……おまえのいいところはさ、限界やあきらめを知らないところだよな」
「そっ……そうかな?わからないけど、風丸がいうならそうなのかも」
「うん。俺おまえのそういうところ、すきだよ」
ふいに風丸がそう言って、わたしの心臓はびっくりしてとびはねた。かかか、風丸、なんなんだ、急に。ふいうちというか、予想外というか。どきどきどきどき、心臓の動きはやまなくて、わたしはひとりで勝手にあわてだす。もう恋心はないと思っていたけど、そんなことを言われるとなんだか変に意識してしまう。だめだめ、わたしには照美くんというすてきな彼氏がいるんだから。風丸ももちろんすてきだしいいこだけど、いまわたしは照美くんがすきなわけだし。
「萱島?」
「あっ、えっと、……ごめん、ぼーっとしてた」
「いや、いいけど。……なあ、萱島、俺さ」
「うん?なに、風丸」
「俺、萱島のこと、すきだった」
わたしの手から、スパイクがぽろりと転がり落ちた。
「……、えっ?」
「おまえ、いま、アフロディと付き合ってるんだろ」
「う、うん、」
「……突然ごめん。言っておこうと思っただけだから、あんまり気にしないでくれ」
「あ……えっと、うん」
あたまがうまく働かない。か、風丸が、わたしのことをすきだった?うそ、いつから?わたしそんなのぜんぜん知らなかったよ、っていうか、わたしと照美くんが付き合ってること、どこで聞いたんだろう?ああもう、いろいろいきなりすぎて、なにがなんだかわからない。
「さて、と。俺、そろそろ戻るよ。お互い、引退まで頑張ろうな」
「あっ、待って、風丸っ」
立ち上がった風丸の手をきゅうとつかんだら風丸は驚いたみたいで目をまんまるくしてわたしを見た。 「あのね、」 舌がおもいどおりに回らない。 「わた、わたし、わたしも」 風丸が不思議そうにちょっと首をかしげる。
「わたしも、風丸が、すきだった」
そういや風丸も過去形だったなあ、といまさらおもいながら、風丸のきれいなえがおを見つめた。 「ありがとう」 ぽたぽた、涙があふれだした。わたしはなんだか最近泣き虫になった気がするなあ。そう、ちょうど照美くんに出会った日くらいから。
「泣くなよ」
風丸が困ったような顔して言うけど、わたしだって自分がいまなんで泣いてるのかわかってない。かなしいのか、うれしいのか、もしかしたら後悔してるのか。もっとはやく言ってれば、風丸と付き合えたりしたのかな?なんて考えたところで、もうなにも変わらないんだけど。
「ちょっとだけ、こうさせて」
そう言って風丸がわたしを抱きしめて、わたしは涙の止めかたなんて思い出せなくなってしまった。かぜまる、かぜまる。すきだ、すきだった。いまもすきだ。ともだち、なかまとして。 「かぜまる」 「うん」 「練習着にシミつくっちゃったよ」 「いいよ」 「ごめんね」 「……ん」 風丸の肩に顔をうずめて、泣けるだけ、泣いた。しつれんしたときみたいに、胸がきゅううっとなって、苦しかった。
「しあわせになれよ」
「風丸も」
このひとをすきだったことを、わたしは後悔しないと思う。
10:/いつかのユートピア