夏がちかづくにつれて、だんだんと空気が熱を帯びてくるようになった。わたしはぱたぱたと手で首もとをあおぎながら、雲がひとつだけぽっかり浮かんでいる空を眺めていた。カラカラ、カラカラ、車輪は今日も軽快なリズムを刻んでいる。ああそういえばもうすぐ中間テストだな、なんて考えてすこし気分が落ち込みかけたとき、前にいる照美くんが言った。

「最近元気ないね」
「え、そう?」

たしかにいまちょっとテストのこととか考えたけど、けっして元気がないわけじゃないんだけどなあ。クラブも、あれからずっと調子いいし、この前の大会でもいい成績だせたし、特に元気がなくなるようなことは、なにもない。

「そんなことないと思うけどなあ」
「……ならいいけど」

照美くんの背中におでこをくっつけて、目を閉じる。自転車がコンクリートの地面をつかむ音と、最近変わった照美くんのシャンプーのにおいだけが、わたしのちっぽけな世界を支配する。この瞬間が、わたしはとてもすきだった。……照美くんとずっといっしょにいられたらいいなあ、とおもう。いまはまだ無理だけど、大人になったら、照美くんとおんなじ家に住んで、わたしはごはんを作って、照美くんに食べてもらって、おいしいよって言ってもらえたら、しあわせだなあ。ねえ照美くんはそう思いませんか 「リサさん」 「はい?」 「夏休みになったら、どこか遠くに遊びにいこうか」 「遠く?……うん、いく!」 「……できれば、泊まりで」 「と、泊まりで?」 「いや?」 「いやじゃない、です」 泊まり、かあ。うん、いいなあそれ。

家が近づいてくると、わたしはいつもちょっとさびしくなる。照美くんとはなれたくなくって、この前、近所をもう1周してくれないかな、とお願いしたこともある。照美くんはわらって、いいよ、と言ってくれたけど、そのあとにはやっぱり、 「じゃあまた明日」 という言葉が待っていた。明日また会えるのはもちろんうれしいけど、すごくうれしいけれど。でも今日をもっともっと長く、できるなら明日も長くながく、って考えるのは、ぜいたくなのかな。照美くんがすきで、ただそれだけなんだけど、なんだかここのところ、わたしはどんどんよくばりでわがままになっていて、いけない。このままじゃいつか見放されてしまう。

「リサさん、やっぱり元気ないよ」
「えっ?……あ、うん……。ちょっと考えごとしてて」
「へえ、どんな」
「言ったら嫌われちゃうかも」
「それはないね」
「い、言いきるの」
「言いきるよ。……言ってごらん」
「……えっと、ね。照美くんと、もっとずっといっしょにいられたらいいのになあって、思って」

そんなの迷惑だよね、照美くんも忙しいんだし、と付け足したら、照美くんはなにも言わないまま黙っているので、わたしはああやっぱり迷惑なんだと思って、言ったことを後悔した。めんどくさいおんなだって思われてたら、どうしよう。

「ぐうぜんだね」

照美くんがふわり、そよ風みたいな声でつぶやいた。え、なにが、と問おうとしたとき自転車がギッと音をたてて止まって、わたしは反射的にうしろからおりた――ら、照美くんの腕が伸びてきて、わたしの手をつかんでそのまま抱き寄せた。 シトラスみたいな、照美くんの髪のにおい。前のあまい香りもすきだったけど、わたしはこのにおいもけっこうすきだ。

「僕も、帰り道はいつもそう思うよ」
「……ほんと?」
「うん。家なんか素通りしてさらっていってしまいたいくらいだ」
「さらってくれてもいいよ」
「まあ、そのうちね」

そのうちって、照美くんそれ、もしかして本気なの? わたしが聞いたら、照美くんはくすくすわらって、さあどうだろう、って言ってごまかした。抱きしめる腕のちからが弱まったので、わたしは照美くんをすう、と見上げた。

「ご近所さんに見られたらどうしよう」
「きみ、家の前でキスしようとするといつもそう言うよね」
「だって」
「見られたらだめなの?」
「だ、だめっていうか、は、はずかしいよ。みんなわたしのことむかしから知ってるひとたちなんだよ?」
「ふうん、じゃあ1軒ずつごあいさつにまわろうかな。萱島リサの彼氏ですって」
「ええええ、えええ!?ててて照美くん冗談はいけないよ」
「冗談じゃないよ」
「えええええええ」
「もう、リサさん、そんな大きい声だしたらほんとに見られちゃうでしょ」
「あっごめっ、」

ぺろり、わたしのくちびるをなめた舌はびっくりするくらい熱くて、わたしはなんとなく、照美くんが前言ってたことを思い出した。 僕は嘘は嫌いなんだ、って。 ということは、照美くんのいうことはぜんぶほんとで、冗談なんかじゃないってことだ。 ご近所さんにあいさつにまわるっていうのも本気で、それで、わたしとずっといっしょにいたいって思ってくれてるっていうのも、ほんとのことなんだ。 「っ、んぅ」 まだこういうキスに慣れないわたしは、息が上手にできなくて、すきまからそんな声をもらしてしまう。そのたびに照美くんがなんだかうれしそうにわらうからはずかしかった。 「は、ぁ」 朦朧とする思考回路では、照美くんのこと以外なんにも考えられない。こういうのを依存というのかな。わたしから照美くんを取り上げたら、たぶんなんにも残らないだろう。 「……すごく、かわいい」 照美くんがわたしのほっぺたを撫でながらつぶやいた。 「てるみく、」 そのとき、がちゃん!と背後で音がした。案の定わたしは飛び上がる。

「……リサ……」
「おっ……お母さん」

振り返ったわたしの目にうつったのは玄関の扉を開けたお母さんで、なにがやばいやらよくわからないけどやばいと思って、 「あああああのちがうのあのねお母さんえっとねこのひとはあああのえっとえっと」 えっとえっととばかり繰り返すわたしにお母さんはたったひとこと、 「おかえり」 と言った。……お、おかえりって……!!

「お、お母さん」
「なあに?」
「えっ、えっと……このひと……わたしの、えっとあのかかかかか、か、かかか」
「はじめましてお母さま、リサさんとお付き合いさせていただいています、亜風炉照美と申します」

ええええええ照美くん!!なんてひとなんだあなたは!!ほんとなにさせてもパーフェクトだから困る、いや困るというか心臓にわるいので困る! とわたしが照美くんのかっこよさにきゅんきゅん通り越してずきゅんずきゅんしていたらお母さんが淡々とした声で 「ああ、きみがあのアフロディくんね」 と言ったのでまたびっくりして 「えええええ」 と今度は口にだしてしまった。

「お、お母さん、照美くんのこと知ってたの!?」
「知ってるもなにも、彼有名人じゃない。……あ、アフロディくん、いつも娘がお世話になってます。送り迎えなんてしてもらってごめんなさいね。こんな娘ですがどうかよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ、僕なんかでよければ、よろしくお願いします」
「あああああの、あのあの」
「リサ、ちょっと晩ごはんの支度手伝って欲しいんだけど」
「あっ、は、はい」
「それじゃあね、アフロディくん」
「はい、では失礼します」
「ば、ばいばい照美くん!」
「……ん、また明日」





*





「リサにもすきな人がいたのね」
「えっと……うん。ごめんね、言ってなかったよね」
「ううん、いいのよ」

ぐつぐつ、鍋のなかでカレーがおいしそうな音をたてている。お母さん、晩ごはんの支度手伝ってなんて言ったくせに、カレーもうできてるじゃない。 言おうかと思ったけど、お母さんの様子がなんだかおかしいことは数日前から気づいていたから、黙っていることにした。

「ねえ、リサ。お母さんのすきな人はだれだと思う?」
「お父さん、……でしょ?」
「うん、あたり」
「そんなのわかるよ」
「そう?……じゃあ、お父さんのすきな人はだれだと思う?」

心が無意識に照美くんのなまえを呼んだ。

「……おかあさんじゃ、……ない、の?」

振り返ったお母さんは曖昧にほほえんで、うんともいいえとも、言ってくれない。





9:/一握の藍






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