すごくすごく、どきどきしていた。学校に行くのにこんなに緊張するなんて、はじめてだ。手が震えて、ロッカーで何冊もボロボロと教科書を落とした。わたしの来る時間にはまだ他の生徒はあんまり来てないから、特に誰にも見られてはいないのに、恥ずかしくってひとりで赤面した。……ほんとに、基山くんのとなりの席なんだ……。ああ、どうしよう。彼のファンクラブの女の子たちに妬まれやしないかなあ。わたしなんかがとなりの席だなんておこがましいから。
期待と不安でめまいを起こしそうになりながら、教室の扉を開けた。

「…あ、おはよう倉田さん」

ばさばさばさ。
わたしの手の中から教科書がこぼれた。 うそ、でしょ。 カチャリ、鍵の落ちる音がやけに響く。わたしは入り口で突っ立ったまま動けなかった。そのうちに、窓を全部開けおわった基山くんがわたしのとなりの、自分の席まで帰っていく。

「……座らないの?」

不思議そうに基山くんがたずねて、わたしはかろうじて残っていた最後の一冊も床に落としてしまった。



*



シャーペンを持つ右手は満足に文字を書いてくれない。長いながい証明問題の解がチョークで次々と書かれてはすぐ消されていって、もう黒板うつしが間に合わない。それに今日は、朝変な気をはりつめすぎたせいでなんと数学の教科書をロッカーに忘れてしまっていた。だいぶ不便だったけれどまああとでなんとかすればいいや、と思ってたのだけど、先生が突然、練習34をやれ、当てたやつは前に出て書け、と言ったので絶望した。今、ちゃんと起きて授業を聞いている生徒は半分にも満たない。みんな、午後のプール疲れでお休み中なのだ。これはまずい。かなりの確率でわたしは当てられる。問題がどんなのなのかも知らないのに、答えろだなんて無理な話だ。途方にくれて教室の中を見回した。ええっと、起きてるひとは……、あああ、10人もいない。おそるおそる基山くんを見ると、彼は起きてはいるものの下を向いてケータイをさわっていた。……テスト前なのに余裕だなあ……。まあ賢いもんな、こんなのどうってことないか。 基山くんから目を逸らすと、彼の左どなり、窓ぎわいちばんうしろの席の女子生徒が目に入った。ええと、名前なんだったっ
け…。いっつもテストで学年トップをキープしてる子で、美人だしスタイルもいい。ただあんまりしゃべらなくて気取らないから、女子の間ではクールビューティと言われて憧れられている。わたしとは正反対の女の子……、基山くんのとなりでも、わたしみたいに舞い上がっておかしくなったりしないもんなあ。どんな顔をしてるのかわからないけど、彼女は窓の外ばかり見ている。基山くんや彼女みたいな成績優秀なひとはわたしみたいにあたふたしてなくてうらやましいなあ。

「倉田さん」
「へっ……、え?……あ、ななななに基山くん」

あんまり小さな声だったからはじめは耳を疑った。彼女から目をそらすと基山くんがわたしを見ていた。心臓が口から出かけた。あとメガネが鼻からずりおちそうになった。ななななななんですか基山くん……!

「教科書。いっしょに見よう?」

なんて、小首をかしげていうもんだから、わたしはなんだかもう。もうなんだか、もう。もうもうもうな感じで。このひとどうしてこんなにかっこいいんだ犯罪だろう。わたしみないな地味でだっさくておしゃれのおの字も知らなくて制服のスカートなんかひざ下で常備メガネなわたしなんかにも、他の女の子とおんなじようにやさしくしてくれるだなんて、なんて出来た人間なんだろう。

「あ、嫌ならいいけど」
「いっ…!?いや、うれしい!うれしいです、ありがとう基山くん」
「……はは、どういたしまして」

基山くんが明るくわらって、がたがたと自分の机を動かしてわたしの机にくっつけた。そしてふたつの机の間の溝に基山くんの教科書がひろげて置かれた。心臓が暴れまわっている。基山くんが、こんなに近くにいる。クラスのみんなが寝ていてくれてよかった。数学の時間がもっともっと長くてもいい、なんて思ったのは生まれてはじめてだ。ずっと続いちゃえばいいのに。そしたらずっとこうしていられる。

「……倉田さんてさ」
「は、はい?」
「メガネ、外さないの?」
「え、あ……わたし、メガネないと黒板見えないから……」
「コンタクトにしたらいいのに」
「だって、高いし……お母さんに悪いよ」
「ふーん……」

基山くんはそう呟いたあともわたしの顔をしばらくじーっと見つめていた。わたしはだんだん照れくさくなってきて、ひとりでしゃべり続けている先生の方に目をやるけど、やっぱり集中なんてできっこない。当たったらどうしよう、さっぱりわかんないや、この問題。頭の中は基山くんでいっぱいだ。

「代入したあとが間違ってるよ」
「……えっ?」

言われて、自分のノートの文字を見る。逆算して確かめたところ、基山くんの言うとおり代入したあとでケアレスミスをしていた。

「あ、ありがとう基山くん」
「どういたしまして。……あ、ねえ、ちょっと」
「うん?なに――」

基山くんの細い指がわたしの顎をくい、と持ち上げた。びっくりする暇さえなくて、気づいたときには視界がぼやけていた。メガネをとられたのだ。

「き、基山くん?何するの、返して」
「やっぱり、思ったとおりだ」

あんまり下手にばたばたと手を動かしたりすれば基山くんに当たるかもしれないと思い、最小限の動きでメガネを探す。 ほ、ほんとになんにも見えない……!基山くんの髪の毛の赤さがやっとわかる程度だ。表情なんてぜんぜんわからないから、どうして急にメガネを奪われたのか想像もつかない。

「基山くん、お願い、わたしそれがないと……」
「倉田さん、メガネ外してたほうがずっとかわいいよ」
「え、」

はいこれ、もったいないけど返すね。 基山くんがそう言った直後、視界がぱっとはっきりして、なんだか嬉しそうに微笑んでいる彼が見えた。

「き……基山くん?」
「ほら、早く解かないと。当てられたらどうするの」
「あ、うん」

促されてノートに目を戻したはいいものの、ついさっきまでどういうふうに考えて解いていたのか全く思い出せなかった。基山くんの言葉が何度も頭をよぎる。 メガネ外してたほうがかわいい、って。彼は優しいひとだから、ただのお世辞かもしれないけど、でも……。 ほっぺたが熱いのがどうか基山くんにばれませんように、そう祈りながら、教科書の例題を目で追った。1日目からこんなんじゃあ、わたし、1ヶ月ももたないんじゃないかなあ。




(閉じたこころと開いた教科書)











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