照美×暗所恐怖症


雨が降りだして早20分。とてもじゃないけど練習の出来る状態ではなかったので開始早々切り上げた。今部室にいるのは僕とマネージャーのふたりだけ。他のメンバーはもう帰ってしまった。…本当のところ、練習場として使っているスタジアムのドームを閉じれば練習を続行することも可能だったのだけど、あいにく操作室の鍵をどこかに置き忘れてきてしまったため、仕方なく中断することにしたのだ。

他校との練習試合が近いのに、とぼやきながら帰って行ったメンバーたちとは裏腹に、今までの試合のスコア表を整理している彼女はいくらか楽しそうだった。不思議に思った思った僕はテーブルをはさんで彼女の正面に座ってその作業を眺めている。何故だか上機嫌の彼女は小さく鼻歌を歌っていた。

「かるぴすさん」
「はい」

顔を上げた彼女はふわりと微笑み、何ですかと聞いた。まわりに花が飛んでいてもおかしくないくらいやさしくてあたたかい笑顔で、僕は思わず目を細める。

「どうしてそんなにうれしそうなの?」

聞くと、彼女は迷うように視線を泳がせたあと、まっすぐに僕を見つめて、言った。

「…皆さんが…わたしの思い通り、練習を切り上げてくれたからです」

僕は耳を疑った。
…彼女の思い通りに?
困惑する僕の前で、彼女はスカートのポケットに手をつっこみ、じゃらりと音を立てる鍵束を取り出した。くすんだ銀色の小さな鍵がその中にひとつ。操作室のものだ。

「――君が?」
「はい」
「…試合前だっていうのに、」
「だからこそです」
「…どういうこと?」

勝手なことをした彼女を、返答次第では叱らなければならないと思ったのだけど。

「皆さん、最近がんばりすぎですよ。このままじゃ大きな事故や怪我につながりかねません。だから今日はゆっくり休んでもらおうと思ったんです。万全の状態で試合にのぞんでほしいですから」

彼女がマネージャーになってから、度々違和感を感じることがあった。練習の予定表がいつの間にか一部変わっていたり、土日はたくさん申し込んでいたはずの試合が何校かキャンセルされていたり。たぶん、僕らメンバーの身体をいたわって、彼女がこっそりそうしていたんだろう。

「…チームのためとはいえ、そんな勝手なことをしていいと思ってるのかい?」
「いいえ。ですから、だれかにやめろと言われたらすぐにやめるつもりでした。…でもだれも今まで言ってこなかったので…すいません、キャプテン。これからはこんなことしません」
「僕はなにも、やめてくれとは言ってないよ?」
「……え」

彼女は大きな目をさらに見開いて僕を見つめる。

「じゃあこれからもわた」

突然部室内がまばゆく光った。「あ」直後、ドオォンという落雷音。どうやら本格的に降りだしたらしい雨が窓ガラスをうつ。「帰れないや」彼女がぽつりと呟いた。僕と違って彼女は徒歩通学だ。この雷雨のなか傘をさして歩くなんてほぼ無理に近い。「送って帰ろうか」「え、でも」また雷の落ちる音がとどろく。彼女はその音にたいしてはほとんど恐怖していないようだった。「迷惑じゃないですか」「いや、いいよそれくらい」「じゃあお言葉に甘えようかな」そのとき、フッと視界が暗くなった。雷の影響でブレーカーが落ちたらしい。少しやっかいなことになった、と思った僕は彼女に鍵を渡すように声をかけた。が、しばらく待っても返事がない。

「かるぴすさん?」

耳をすませると、ずいぶんと小刻みな息遣いの音が聞こえた。…もしかして。僕は立ち上がりテーブルの向こう側の彼女の横へ、窓からのほんの少しの明るさを頼りに向かった。「かるぴすさん」彼女の肩(だと思われるところ)に手を置けば、びくりと身体がはねた。「暗いのがこわいの?」なるべく優しい声できいてみた。彼女は答えない。代わりにすすり泣くような声がした。「大丈夫だよ、僕がいるから」細くてつめたくて、指どおりのいい髪をさらりと撫でると、ふと彼女の頭が持ち上がった。「かるぴすさ――」呼び終わるまえに腕の中に飛び込んできた彼女をぎゅうと抱きしめる。なんだか、ちいさなこどもみたいだ。ふるえる背中をそっと撫で、大丈夫、大丈夫とくり返す。

「…キャ、プテ…、すいません、わたし…、暗いの、だめ、で…」
「うん、わかった。落ち着くまでこうしててあげるから」
「ありがとう、ございます…」

こんな状況で、馬鹿みたいかもしれないけど、すごくかわいいなと思った。華奢な身体はあまり力を入れすぎると壊れてしまいそうだ。僕より低い位置にある頭に擦り寄ったらシャンプーのいい匂いがした。役得だなあと考えていると、か細い声でキャプテン、と呼ばれた。

「どうかしたの」
「キャプテンの髪、きれい…」
「髪?」

彼女はゆっくりと顔を上げて、僕の髪を一筋手に取る。色素の薄いそれを心なしかうっとりとした目で見つめる彼女の身体はもうふるえがおさまっていた。す、と自分の口元に僕の髪を近づけるその仕草に、今度は僕が見とれてしまう。

「キャプテンの傍、明るいから、怖くないや」

窓からさすかすかな光を反射して、キラリと輝く僕の髪。明るいなんていうのは目の錯覚だと思うけど、それで彼女が安心してくれるならば、こんな色の髪でよかったと思う。

「キャプテン、もう少しこうしていてくれますか」
「……うん」

いつもハキハキしていて、マネージャーの仕事はちゃんとこなすしよくわらうし、強くて気丈な子だと思っていた。それがまさか、こんな一面があったなんて。意外だったけれど、何でもひとりでこなしてしまう彼女に頼ってもらえるのは、なかなか珍しくて嬉しいことだった。

しばらくして、管理人がブレーカーを戻したのだろう、部室が再び明るくなったとき、僕と彼女のくちびるはふわりと重なっていた。長いまつげをじいっと見つめていたら、ゆっくり目を開けた彼女が幸せそうににこりとわらうから、一生傍にいてあげたいと思った。



とエデンと甘い果実



(手を伸ばしても追放されないだろうか?)










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