左手の薬指できらりと光るシルバーを、なんだかとっても愛しく思って、わたしは足取りも軽く照美くんのアパートへ向かっていた。気持ちの整理が出来なくなってから、あまりはめることのなかったこの指輪だけど、今改めてはめてみるとすごくすごく感慨深い。4年前空港で、照美くんのもとにいざなうみたいに転がった指輪。離ればなれだったとき、嫌なことがあったり寂しくなったりして、照美くんにどうしても会いたくなると、これをひたすら眺めて自分を抑えてた。照美くんはがんばってる、わたしも頑張らなきゃって。わたしひとり泣き言いってられない、って、そう思っていた。

ゴロゴロ、キャリーケースの車輪が転がる。だんだんとアパートに近づいてくると、やっぱりどきどきした。もしかしたらもう、前までのわたしたちには戻れないかもしれない。でも、気持ちも伝えないままなんて、そんなのだめだ。当たって砕けろってやつだ。いやまあ砕けたらいけないんだけども。

こうして稲妻町を歩いていると、中学のころのことをいろいろと思い出した。入学式の日、買ったばかりの制服はまだぱりぱりで、わたしはどぎまぎしていて、新しい友だちできるかな、できなかったらどうしよう、ってそんなことばっかり考えてた。むろん彼氏なんて欲しいと思ったこともなかった。足を踏み入れた次の世界の、まだ見えないところに期待を抱いていた。ほどなくして陸上部に入部したわたしはいろんなひとと知り合って、ふれあって、やっと中学にも馴染んできて。1年間はあっという間だったから、これといってはっきり覚えてることがらはないんだけど、しいて言うなら初めて恋をしたことくらい。相手は同じ陸上部の男の子。風丸一郎太。優しくて、かっこよくて、わたしの憧れだったひと。

あ、そういえば、なんかかっこつけて出てきちゃったけど、もしほんとに照美くんとちゃんと仲直りできなかったら、わたしはそのあとどうしたらいいんだろう?風丸が、照美くんが待ってる、なんて言うから、ハッとなって飛び出したものの、後先なんてこれっぽっちも考えてない。風丸はたぶん、なんらかの確信をもってああ言ったのだろうけど、彼の怪我の理由も、わかりやすい嘘で隠した真実も何も知らないわたしはそう簡単に安心ができないのだ。

「……えーと、四面楚歌?絶体絶命……?疑心暗鬼、油断大敵……」

どれもしっくりこなくて、わたしはうーんと唸りながら道を歩く。照美くんのアパートはそう遠くないから、そのうちついてしまうだろう。すっかり自信を喪失したわたしは、公園に段ボールで囲いを作って生活している自分を思い浮かべてしまいゾッとした。だめだめ、それはなんとしても避けたい。

「……リサ?」

なんだかとても懐かしい声に名前を呼ばれて、わたしは立ち止まる。声の主に心当たりはあった、でもそんな、まさか。おそるおそる振り返るわたしとは対照的に、お父さんはぱあっと顔を輝かせて、 「やっぱり!リサだな!」 とまるで少年のように元気に言った。わたしが思いっきり嫌な顔をしたのは言うまでもない。



*



「へー、雑誌のライターねえ。我が子ながら随分オサレな職についたもんだ」

わたしがしぶしぶ差し出した最新号をぱらぱらとめくりながら、お父さんはよくわからない笑みを浮かべている。自分ひとりじゃあまり入らないような、変わった雰囲気の喫茶店に引っ張りこまれて、居心地が悪かった。Yシャツの胸ポケットには、ひしゃげたタバコの箱が入っていて、やっぱり禁煙は成功しなかったんだなと思った。

「で、何?何でそんなでかい荷物持ってさ迷ってたわけお前さんは」
「さ迷ってない。帰る所だったの、家に」
「ほう、ほうほう……」

家に、ねえ? と冗談ぽく聞いてくる目の前の中年に少なからず苛つきながら、 「そう、家」 と強い口調で返した。それを聞いたお父さんはへらりと笑う。

「あの、何だっけ?てる……照美くんとかいう男の家か?まだ付き合ってんのか」
「ちょっと待って何でそんなこと知ってるの?わたし話したことないよね」
「娘の彼氏くらい知ってますーお父さんを舐めないでくださいー」

ガキくさく口を尖らせてみせるお父さんは放っておいて、わたしは考える。あの頃お父さんはあんまり家にいなかったし、いたとしてもわたしは元よりお父さんとはまったくと言っていいほど話さなかったし、お母さんはわたしが照美くんと付き合ってることなんてわざわざ言わないだろうし。

「ねえ何で知ってるの」
「勘です」
「嘘つかないでよ」

わたしが言うと、お父さんは曖昧に笑って首を傾げて見せる。昔から真理の掴めないひとだったけれど、さらにエスカレートしている気がする。こんなに長くお父さんと話したことなんてこれまでなかったというのに、嬉しいとか楽しいとかをまったく感じないから不思議なくらいだ。……そう、だって、お父さんは浮気したんだもの。お母さんとわたしを裏切って、わたしたちの知らない女の人と、……あの家に住んでるのかな。かつてわたしの帰る場所だった、あの家に、その浮気相手と住んでる、のかな。そう考えたら無性に腹が立ってきた。わたしはなんでこんな男と喫茶店なんかにいるんだろう。この人はもうわたしのお父さんでも何でもないのだ。振り切って照美くんのアパートに向かうべきだった。

「もういいや、わたし帰る。別に話したいこととかないし」
「冷たいやつだなお前……4年ぶりだっていうのに」
「何が4年ぶり、だか。お母さんを捨てたくせに、今さら父親面しないで」
「はあ?何言ってるんだお前、父さんが母さんを捨てたりするわけないだろう。それに父さんは今でも母さんが大好きだぞ」
「…………はっ?」

イスから腰を浮かせかけていたわたしはぴたりと動きを止めた。……今でも母さんが大好き……? 浮気して、離婚してからはなんの連絡もなかったのに、そんなことを言う? わたしは怒るというよりは半ば呆れて、 「最悪だね」 と呟くように言った。そしたら何故だか、お父さんはまたへらへらと笑って言う。

「そーだな、父さんは最悪さ。家族より仕事を優先しちまった」
「仕事?ま、待ってよ、お父さん浮気したんじゃなかったの?他の女の人と関係もってたんじゃ」
「馬鹿野郎リサお前今まで父さんの何を見てきたんだよ?父さんは母さん以外の女性に興味ございません」

顔の前で手を交差させビッと×印を作るお父さんは、ふざけた口調ではあるものの真摯な目をしていた。わたしは昔の記憶を手繰り寄せ、そして思い出す。仕事が忙しいお父さんは、たまに帰ってくるなりお母さんにべたべたして、その日の夜お母さんはわたしと寝てくれなくて、お父さんの部屋で……。あれ、19歳の今改めて考えたらもしかして、夫婦の営みというものをしてたんだろうか。久しぶりに帰ってきたから、って、そう、確かにお父さんは、見てるこっちが恥ずかしいくらいお母さんのことがすきなように見えてた。子供心に、お母さんがとられると思って不安になったものだ。

「浮気じゃなかったんなら、どうしてあんなに長い間帰って来なかったの?お母さん寂しがってたのに」
「……今だから言うけどな、父さんは母さんに内緒で出張に行ってたんだ。どうしても、母さんに買ってやりたいものがあって、本人にはばらしたくなくてな。浮気相手は仕事だったさ。母さんのためだったはずが、逆に傷つけちまった」

ポケットからタバコの箱を取り出すお父さんは、昔より小さく見えた。あの頃はもっと頼りがいのある父親だった。仕事ばかりであまり帰って来なくても、わたしはお父さんがすきだったし、わたしたちのためにがんばって働いてくれているんだと、誇りに思ったりもしていた。お母さんもお父さんがだいすきだったはずなのに、歯車はどこで狂ってしまったんだろう。 お母さんとお父さんに、自分と照美くんが重なった。どうしてすれ違ってしまうんだろう、すきなだけではだめなんだろう。すきで、すきですきで、でも不安で寂しくて、いつだって愛されていたくて。離れるのが怖いから、小さなことでも過剰反応してしまうのだ、きっと。

「お母さんのために買いたかったものって、何なの?」
「…………お前の薬指にもついてんだろ」

カチッと音がして、ライターに火がともる。お父さんがタバコをそれに近づけたとき、わたしは黙ったまま、自分の薬指で光る指輪を見つめていた。……あの夜の大騒ぎを、わたしはまだ覚えている。うっかり者のお母さんが、掃除中に結婚指輪を排水口に落としてしまって、お父さんに合わせる顔がないと大泣きして。そうか、お父さんは、代わりの指輪を買うために。仕事をしすぎて家族をないがしろにするくらいに、働いていたんだ。

「……仲直りしないの?お母さんと」
「バーカ、今さら本当のことなんか言えねえだろ」
「どうして?言わなきゃ絶対後悔するよ、お父さん今もお母さんがすきでたまらないんでしょう?なら言ったらいいじゃない!」

自分でもびっくりするくらい大きな声が出て、まわりのお客さんの視線がわたしにぐさぐさとささるのを感じた。だけどわたしは落ち着いていられなくて、胸がかあっと熱くて汗をかきそうなほどだった。

「後悔ならもうとっくの昔にしてるっつうの。手離したくなんかなかったのに、何でお前たちを止められなかったんだろうってな。でも一応、お前たちが東京を発つ日、仕事切り上げて空港行ったんだぜ。電車が延着して、時間に間に合わなかったんだけどよ」

わたしが馬鹿なのはこのひとの遺伝子のせいだなと、漠然とそう思った。わたしたちは、本当に大切なものを忘れてたのだ。そして今こそそれを取り戻さなければならない、のだ。だいすきなひとにはちゃんとだいすきだと伝えなくちゃいけない。変わらない気持ちをぶつけなければならない。もう一度あなたと生きたいと、言わなければならない。

「お父さん、今すぐお母さんに電話して」
「あのな、だから父さんは」
「お母さんはきっと待ってる。だから、ねえ、お父さんの気持ちを打ち明けて。本当のこと言ってあげてよ」

……照美くんも、待ってくれてるはず。わたしは信じてる。もうすぐわたしも彼に気持ちを伝えに行く。でもまずはお父さんの番。お父さんはしばらくぼおっとしていたけど、急にタバコをぐしゃりと灰皿に押し付けた。

「……母さんの携帯の番号、変わってねえな?」

いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべお父さんがそう言って、わたしも笑顔で うん、と返した。



*



すっかり日の昇りきった空の下、キャリーケースを引きずりながらわたしは歩く。足取りは随分軽い、軽すぎて浮いてしまいそうなくらい。今しがたの出来事の余韻が消えないうちにわたしも照美くんに会わないと。曲がり角を曲がると、桜の木のあるボロいアパートが見えた。照美くん、照美くんごめんね、わたしやっぱり帰ってきたよ。

照美くんにもらった合鍵を手に、わたしはどきどきばくばくと激しく脈打つ心臓をがんばって抑えようと深呼吸をした。チャイムを鳴らすか迷ったけれど、それじゃあまるで他人みたい。わたしは鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。カチャリ、ロックの外れる音がした。もしかしたら照美くんに聞こえたかもしれないと思った。震える手でノブを掴み、回しながら手前に引く。あっさりと開くドアはわたしを受け入れてくれるけれど、問題は部屋のなかのひとがわたしを受け入れてくれるかどうか。 後ろ手でドアを閉めたとき、久しぶりに照美くんの匂いがして、懐かしくて愛しくて泣き出しそうになった。照美くん、照美くん、照美くん。 「照美くん」 抑えきれなくて口からも溢れた。キャリーケースもほったらかし、靴を無造作に脱ぎ捨て、わたしは居間にかけ込み、見えた背中に思いきり強く抱きついた。途端わたしを満たす想い。照美くんがすきで、このひとしかいない、いらない、だいすきでだいすきでたまらない。こんなにも頭のなかは彼でいっぱいなのにどうして離れたりしたんだろう。 「すき、だいすき」 背中に顔をうずめて、わたしは震える唇で言う。

「あいしてる」

お父さんがお母さんにたった一言言った愛してるは、あんなにかっこよく聞こえたっていうのに、わたしの言う愛してるはなんだかよわっちくて、ちっとも綺麗に響かなくて、悔しかった。ちゃんと伝わるかな、こんなのでわたしの想いは届くかな。わたしのからだ全部が照美くんをすきだすきだとうるさい。照美くんの腰に回した手のひらに、温かいものが触れてきて、わたしはゆっくり顔を上げる。肩越しに振り返った照美くんと目が合うまであと、0.2秒。



13:/マイフェア






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