目を開けて数秒、わたしは冴えない頭で自分のおかれた状況について考えた。見慣れない天井、知らない部屋。大音量でアラームがなり続ける携帯電話に手を伸ばしたけれど、つかむ前にわたしは思い出した。ここは風丸の家、わたしは照美くんのアパートを出てきたんだ。
「仕事…………」
辺見さんとの仕事には、わたしの都合なんて関係ない。それはつまり、今日も世宇子大学に行かなければいけないということ。あの広いキャンパス内で照美くんに遭遇するのを避けるのは難しくはないけど、万一見つかったりしたら。――――見つかったりしたら?
べつにわたしは、照美くんから逃げたいわけじゃない。だけど、今会うのは気がひける。昨日帰らなかった理由を問い詰められるかもしれない。照美くんに聞かれたらわたしはきっと答えてしまう。もし照美くんが浮気を認めるようなことがあったら、それでこそわたしたちは終わりだ。わたしがアパートを飛び出した意味もない。
…………あれ、……わたし、なんで飛び出したんだったっけ。浮気されてると思って、苦しくなったから?でもこのまま風丸の家に居座ったって、なんにも変わらない。それどころか、照美くんはわたしなんか忘れて、あのことちゃんと付き合うのかも。
結局は、おわかれがちょっと先延ばしになっただけ?いつかはちゃんと話をしなきゃいけなくなって、そこでわたしは――――ふられるのかな。
そうこうしているうちにスヌーズ機能が働き、携帯電話がまたアラーム音を鳴らした。そうだ、仕事。せっかく本社入りできたのに、こんな個人的な理由で休んでクビにでもなったらたまらない。照美くんの次は職まで失いかねない。
アラームをとめるため携帯電話を開いたら、着信が3件と、メールが1件来ていた。差出人が誰かはわかるけれど、どちらも内容までたしかめないまま、画面を閉じた。わたしが彼から距離を置いたのは、心のどこかで、あのこよりわたしを見て、追いかけてきて欲しかったからかもしれない。
照美くんに好かれている自信が欲しい。中学のころみたいに、ただただ楽しかったあの日々に、帰りたい。
「――――萱島?起きてるのか?」
ドア越しに風丸の声がして、わたしは顔を上げた。……くよくよするのは、やめよう。照美くんがすきだった萱島リサに戻ろう。こんな暗いおんな、照美くんはきっとすきじゃない。
*
「またぶっさいくな顔してんなおまえは」
辺見さんの一言がぐさりと胸に突き刺さった。
「目ぇパンパンじゃねーか。泣き寝入りでもしたのか?」
「ちが……なんでもないです」
「ははーん図星だな?」
ニヤリと笑う辺見さんはいつもの調子なのに、なんだか今日はうまくかわせない。わたしは世宇子大学に取材に行く準備を整えつつ、はあとため息をついた。
「なんだよ、元気ねえな。いつものオーラはどうしたよ?」
「な、なんでもないですってば」
「なんでもねーって顔してねえぞ」
「ほっといてください……べつに大丈夫ですから!」
「んー……」
よく気がつくひとだとは思っていたけど、今回ばかりは正直ほんとに放っておいてほしい。辺見さんにはまったく関係のない話だし、相談するのもなにかちがうし。
「ま、いいけど。バス乗り遅れるからもう行くぜ」
「は、はい……」
……世宇子大学、かあ。照美くん、今日もちゃんと行ってるんだろうなあ。会いたくないなあ。……はは、照美くんに会いたくないなんて思うの、はじめてだ。
*
取材は今までどおり順調だった。辺見さんが学生さんたちを捕まえて一通り質問をして、わたしがメモをとる。照美くんに出くわすこともなく無事に終わるかと思った矢先、わたしは驚くべき事実を知った。
「今日、すっごい教授たち焦ってるみたいで。なんかよくわからないんスけど、課題めちゃくちゃいっぱい出されて、今から取りかからないと終わらないんで」
「待ってください、どうして先生方は焦っていらっしゃるんですか?なにかトラブルですか?」
辺見さんの質問に、法学部の生徒は顔をしかめた。
「あいつが来てないんスよ」
「あいつとは?」
「……法学部2年の特別待遇生で、教授たちのお気に入りです」
「お気に入り……」
「あちこちの掲示板にあいつの論文がどうたらって書いてますよ。オレはあいつ、なに考えてるかわからなくて嫌いなんスけど」
「名前。名前はなんていうんですか」
「あいつのっすか?これまた変わった名前で……亜風炉っていうんです。亜風炉照美。金髪の優男ですよ」
からん、と床にわたしのシャープペンシルが落ちた。辺見さんが振り返ってわたしを一瞥し、それからその生徒にお礼を言った。
「忙しいところ引き留めてしまってすいません。ありがとうございました」
わたしはシャーペンを拾おうとしゃがみこんだまま、動けなくなってしまった。……照美くんが、大学に来てない……あの照美くんが、サボり? ううん、体調崩したとか……でも照美くん、中学のとき、わたしをうしろに乗っけて学校サボって遊んだっけ。あのときはわたしのためだった。じゃあ今日は?
「アフロディかー……なつかしいな。あいつこの大学だったんだな。まあおかしくはないけど」
辺見さんがぽつりと呟いて、わたしは顔を上げる。なつかしい……って、どういうことだろう?
「……辺見さん、照美くんのこと、知ってるんですか?」
「あー?俺前に話さなかったか?中学のとき俺らの宿敵だったさ、あいつは」
宿敵? 照美くんが、辺見さんの宿敵……? そういえば前辺見さんがなにか話してくれたような。わたしはそのとき、照美くんとあのこの方に気をとられて、ほとんど聞いていなかった気がするけど。
「なにしてんだよおまえは?早く立てよ」
「あ、はい。ごめんなさい……」
照美くんの、こと。わたしはまだまだ知らないことがたくさんある。照美くんがあんまり話したがらないから、わたしも照美くんの過去のことを聞いたりはしない。むしろ知らなくてもいいと思っていた。照美くんが言いたくなったときだけ、聞いたらいいと思ってた。
――――あのこは、わたしの知らない照美くんを、たくさん知ってるんだろうな。
「おい?……は、なに、おまえ、もしかしてまた泣いてんの」
「泣いて、な……」
目尻からあふれでた涙を袖で拭いたら、辺見さんがすっとハンカチを差し出してくれた。男のひとなのにハンカチ常備ってすごいなあ。それに比べて、なにも持ってないわたしって。こんなだから照美くんが浮気しちゃうんだ。
「ふ、ぅえ、照美、く」
会いたくないなんてうそだ。会いたくて死にそうだ。一晩会わなかっただけでわたしは心身ともにこんなにズタボロになる。きっと照美くんはわたしのすべてなのだ。照美くん、照美くん照美くん照美くん。すきだ、どうしよう、すきすぎる。
「……とりあえず、あんま人目のないとこ行こうぜ」
辺見さんはほんとはずっと優しくていいひとだ。ぶきっちょだから荒っぽいと思われがちだけど、いいひとだから、若くしてこんな地位についているんだ。今さら気づくなんて、わたしってほんと、なにを見てるんだろ。
「泣くな。あとで思いっきり泣かせてやるから、今は泣くな」
「は、い」
取材先に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。わたしはごしごしと目をこすって、唇をかみしめた。……どうしてわたしはこんなによわっちいのだろう。照美くんや辺見さんみたいに、強くなりたい、……大人になりたい。
8:/アレキサンドライト