「……何見てんだお前」

思いっきり訝しげな声が飛んできたので振り返ると、案の定顔をしかめた明王がいた。どうやら学校から帰ってきたばかりらしいから、明るく 「おかえり!」 と言ったのだけどまるっきりスルーされた。ひでーな明王。泣くぞ明王。

「プロレスなんか興味あんのかよ……」

女の癖に、とでも言いたげに明王が呟いた。明らかに異質なものに向けられた視線はわたしに対してである。……なんだよなんだよ、女の子がプロレスすきだといけないのかよ!だいたいそれ以前にわたしプロレスすきなんて言ってないっていうのに。

「違いますー他に何にもやってないから仕方なく見てるんですー」
「のワリにはさっきから スゲー! だの カッケー! だの叫ぶ声が聞こえてたがありゃ俺の幻聴か?」
「明王おまえぜったい女子にもてないだろその性格」
「うっせえ」
「はっはーん図星かね」

にやりと笑うと明王はふんと鼻をならしわたしから顔を背けた。……まったく歪んでるなあこの男子中学生め。将来が不安でおねーさんは心が痛いわ。 よいしょ、とソファから立ち上がり、台所へ向かう。明王が帰ってきたから、晩ごはんのしたくの続きをしなきゃね。ちなみに今日のメニューは唐揚げである。わたし、自分はぜったいいいお嫁さんになれる気がする。

「ねー、明王、冷蔵庫から野菜出してくれない?」

フライパンに油を注ぎながら、近くにいるはずの明王に声をかけた――が、返事がなかった。2階の空き部屋――今は明王が使ってる和室に行ったのかと思って、後ろを振りかえったら、明王はいたって普通に、リビングの端に置かれた小さな棚の前にいた。食い入るように何かを見つめている明王はわたしの方なんて気にしちゃいない。

「……ちょっと明王、聞いてる?わざとシカトしてんの?」
「なあ、」

明王の声は驚くほどに、密度の薄い部屋のなかを通った。

「これ、お前のおふくろか?」

明王が何を見ているのかわかったわたしは一瞬ためらってから、 「そうだけど」 と返した。

「そんなことより、野菜。わたしが揚げてる間にレタスちぎってくんない」
「……――ん……」

わたしの言葉を明王は珍しく素直に聞き入れて、冷蔵庫の方へ足を運んだ。とくん、とくんと、心臓はこころなしか、少しだけ動揺していた。お母さんのことを誰かに聞かれたのは久しぶりだ。べつに隠してるわけじゃあないけど、わざわざ言うまでもないこと。久しぶりに開かれた傷はまだやっぱり、痛い。




*




お母さんが家を出ていったのは、もう何年も前のことだ。仕事ばかりでお父さんはなかなか帰ってこなかったけれど、大した喧嘩もなかったし、夫婦仲は決して悪くないように見えた。お母さんがわたしをひとり家に置いて姿を消した夜のことは、正直覚えていない。ただ、朝起きて、となりに誰もいなくて、温もりすらなくて、すごく不安になったことくらいしか思い出せない。家でいい子にして待っていたらいつかお母さんが帰ってきてくれるって信じて、がんばってご飯を作ったり掃除したり洗濯をしたり。昼間にお母さんが帰ってきたら出迎えられないからと思ったから、学校もちょくちょく休むようになって――でもいつまで待ってもお母さんは帰ってこなくて、いつの間にかわたしは高校生になっていて、そしてはじめて、お母さんは蒸発したんだって思った。お母さんはわたしを捨てたんだ。
なんとなくしまいこめない写真立てには、ずっと前、家族3人で撮った写真が、いまもそのまま入っている。

「だから何でんな番組見てんだよお前は。プロレスやったことでもあんのか」
「もーうるさいなあ、ほっといてよ」

あ、すごいすごい、いまの技。相手のやつすっごい痛そう……!あんなんかけられたらわたしなんてきっと失神しちゃうんじゃなかろうか 「つくづく可愛くねえ女だな」 …………はいぃ? ピシィ、とわたしの寛大なこころにヒビが入った。可愛くない女、だと? そんなの、可愛くない中学生代表の明王に言われる筋合いないんですけど。 わたしだって年ごろの女の子なわけだから、やっぱり可愛くないという言葉はひどく胸につきささった。ない胸にそりゃもうグッサリと。

「オイ明王。おめーちょっとこっち来いコラァ」
「はあ?なんだよ急に。何気取りだよ」
「うるっせえいいから来いおまえ」
「へいへい」

いかにもだるそうにイスから立ち上がった明王は、テレビの前で仁王立ちするわたしの前で挑発するような笑みをもらし 「来てやったけどなんだっつーんだ」 と、言う、その前に、わたしにきつく羽交い締めにされた。

「いっ……!?っだだだだだだだ!!ばっ、てめ、なにす――――いだだだだっ、折れる!背骨折れる!!」
「うっせえだまれー!!乙女のこころを踏みにじった罰じゃ!!くらえ!見よう見まねのプロレス技!!」
「まっ、ぅえぐっ、やめっ、ギブ!ギブギブギブギブ!離せっ!離せよ!ちょっ……離してくれマジで!離してくださいお願いします!!」

――――どさり。
わたしの束縛から解放された明王は荒い息を吐きながらカーペットの上に落ちた。ふ、ふふ、勝った……!あの明王に、離してくださいお願いします、だなんて言わせてやったわ!

「ざまあねえな明王!ブァカ!フハハ!」
「こっ、の、クソ女、調子に乗りやがって……!」
「か弱い女子に負けといてそれか!?なっさけないなあ明王!ださっ!明王ださっ!へたれ!へたれの明王!へたあき――――っわぎゃっ!?」

足首に何かが触れた次の瞬間、わたしもカーペットの上に沈んでいた。どうやら明王にひっくり返されたらしい。おのれこしゃくな! わたしは自分と同様カーペットの上に横たわる明王に蹴りやらパンチやらを繰り出す。明王も負けじとやり返してくるので、リビングでの攻防はなかなか終わりが来ない。横になったままの戦いなのでお互い髪の毛はぐしゃぐしゃになり、服もしわくちゃになり、なにやってんだろうわたしたちはという考えが頭をよぎったとき、一瞬の隙につけこまれ、明王にマウントポジションをとられてしまった。勝ち誇ったようににやりと笑う明王を見て、さあっと血の気がひいていくのを感じた。 「――――いやおいおまえ女子にまたがるかふつう!?どんな神経してんだ!このむっつり中学生!ハレンチ中学生!」 「っおまっ、ばか暴れんなっ」 じたばたじたばたと激しく手足を動かしもがいたら、体勢を崩した明王がぐらりと傾いてわたしの上に倒れ込んできて、―――――ばさ、と明王の髪の毛がわたしの頬に触れた。

「―――――っ!?」

目を見開いたのはわたしも明王も同じ。
瞬きすら出来ないまま、永遠みたいな時間が流れる。 「ん、っ」 言葉をつむごうとしたら、そんな音しか出なかった。それもそのはずだ。わたしの唇は、明王の唇によってふさがれているのだから。……ん?……ふさがれている?……明王の唇によって?

「―――――」

どれくらいそのまんまだったかはわからない。一瞬だったかもしれないし、1分くらいは経っていたのかもしれない。 やっとお互いが状況を理解したとき、明王はなにかへんな生き物みたいに後ろむきにずるずると勢いよく後ずさって、うまく止まれなかったのか、あの写真立ての置いてある棚に激突した。そのはずみで、棚の上から光る丸いものが転がり落ちた。

「…………あ……」

わたしはゆっくり背をおこし、指輪に手を伸ばす。内側に刻まれたお父さんとお母さんのイニシャルを穴のあくほど見つめながら、自分のじゃないもので湿った唇を無意識に指でなぞった。 顔を上げたら、明王も手の甲で口のあたりを押さえていた。と、とんでもないことに、なってしまった……!!




プロレスとリングと3日目








人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -