ありえん。
わたしの脳内を支配するのはその4文字だった。……ありえん。なぜないんだ。あんなに真剣に取り組んだリサーチの集計データが、まるごと、消えている。おかしい、これは絶対におかしい。 サーッと血の気が引いて、冷や汗が流れた。たださえわたしは昨日、大事な書類を床にぶちまけたまま帰宅するというなんとも恐ろしい行為をしてしまって(まあわたしが直接悪いわけではないのだけど)、そのあとどうなったかわからないことを課長に言い出す勇気がないまま今に至る。その上データの紛失なんかがバレたらほんとにクビになってしまう。昨日はこんな会社やめてやる!なんて言ったけど今の不景気な世の中じゃ次の仕事場なんてそうすぐに見つからないだろう。実家からの仕送りは断ってしまったし、若い女としては路頭に迷いたくなんかない。……仕方がない、とりあえず集計のときに使った書類をかき集めてもう1度まとめなおそう。提出期限はたしか昼休みまでだったから、ダッシュでやればわたしの力量ならなんとかなるかもしれない。さっそくとりかかろうと制服のそでを捲ったとき、 「おい」 背後からの低い声にわたしは飛び上がった。おそるおそる振り向くと、上司である南雲晴矢さんがいらっしゃった。かぎりなく生命の危機である。

「わ、わたしに、なにか、ご用でも?」

変に上ずった声に、南雲さんは嘲笑うかの如く口角をつりあげた。こ、怖い、だけど南雲さんに屈するわけにはいかない。だってこの人は昨日、わたしにすきだなんて言って迫ってきて、無理矢理キスして、それから――いや思い出したくもない。

「今ちょっと時間あるか」
「なっ、ない!です!」
「ふーん、つれねえな」

実際、集計のやり直しで手一杯だったし、なによりこの人とこれ以上関わりを持ちたくなかった。すきだって言われたときは、そりゃあどきどきしたけれど、あんなの信じられない。ただ女の子に飢えてただけのようにも思えるし。

「まあいいんだけどな、さらってくから」
「は?――え、ちょ、なにす」

ぐい、と腕を引っ張られ無理矢理イスから立たされて、わたしはわけがわからず精一杯引っ張りかえした。 「や、やめてくださいちょっと、わたし仕事がっ」 「うるせえな、また口塞がれてえか?」 「なっ、」 わたしが昨日のことを思い出して赤面すると、南雲さんはにやり、さも楽しそうに笑って、 「まわりにバレたくなかったら大人しくしてな」 と呟いた。わたしはこの会社が社内恋愛禁止だったと気付いた。疑われたりはしたくない、しかもこんな人と。

「ど、どこに行くんですか」

同伴というよりは連行されながら、わたしは彼に聞いた。振り返った彼の笑顔は10代のいたずらっこのようだった。 「イイとこ」 ぞわり、鳥肌が立った。




*




「きゃあっ!?」

どん、と壁にぶつけた背中が鈍く痛んだ。なんてことをするんだこの男!と思いキッと睨み付けたら、南雲さんはわたしの髪の毛に手を伸ばしてきて 「悪かったな」 とぼそりと言った。……はい?

「悪かった、って、なにが……」
「昨日だよ。無理矢理あんなことして嫌な思いさせて、悪かったって」
「え、」

あ、謝られた? あまりの衝撃にわたしは何も言えなくて、ただ口をぱくぱくさせた。な、なんだ、悪いと思ってたんだ。……いやでもさっきだってわたしの言葉なんてまるで無視してこんなところに押し込んで、到底謝るやつの態度じゃない。わたしをからかって遊んで、楽しんでるんだろう。酷い、女の敵、許せない!

「でも、な、マジなんだぜ」
「ちょ、っ近、いです」
「俺ほんとに、お前がすきなんだ」

南雲さんの顔がすぐ傍にあって、心臓がばくばくばくばくした。ち、ちくしょう、顔はかっこいい……!!お、おまけに仕事できるし部下からの信頼も厚いし女子社員からの人気は高いし、南雲さんって、……南雲さんってなんでこんな凡人のわたしに言い寄ってきてるんだろ?

「う、嘘でしょう、そんなの。騙されませんから!」
「嘘じゃねえ、すきだ、なまえ」
「なっ……」

真剣な目だった。嘘をついているようには見えない。この人、ほんとにわたしのことすきなの……? 今までろくに話したこともないのに、どうしてわたしなの?彼ほどの人ならもっと他にいくらでもいい子はいるというか、探さなくても向こうから寄ってくるだろうに。 「なあ、キスしていいか?」 「はっ!?い、いや、いやあの南雲さん、ここ、会社、」 「資料室なんざだれもこねえよ」 「ち、ちが、社内恋愛、禁止――」 「それがなんだ」 「だから、だ、だめ、です」 「……会社じゃなかったらいいのか?」 「え、えっ」 わけがわからない。わたしのような一般社員ではとても処理しきれない一大事だ。頭の中はぐるぐるぐるぐる、まともな答えを導きだせない。どうしよう、どうしよう、どれが正解なの?

「焦らすなよ、なまえ」
「へっ、えっ、あ……あの、わたし、」
「もう待てねえ」
「なぐ――、んん……ッ」

熱くて、激しいキス。たぶん南雲さんはほんとにほんとにわたしのことがすきなんだ。なぜだかはわからないけど。 わたしはかすかな隙間を見つけ必死に息をしながら彼のキスに応えた。昨日も思ったけれど、彼のキスは桁違いだ。酸素どころか思考まで絡めとられて、わたしはそろそろ限界。南雲さんの胸をどんどん叩いたら、恍惚に息を吐き出して唇が離れた。上気した頬をあたたかい手のひらが撫でる。 「南雲さ、」 「可愛すぎんだよ馬鹿野郎」 「な、なん」 「あー今すぐ食っちまいたい」 その言葉にぎょっとして一瞬で身を硬くすると、南雲さんは明るく笑って、冗談だよと呟いた。うそつけ、目が本気だったぞ今。

「さて、仕事に戻るか」
「え……えと……、はい」
「ん。……あ、でも真剣に考えといてくれよな」
「へっ?な、なにを」
「俺と付き合うこと」

思考回路がショートする音がした。




(その後課長に呼び出され、昨日ばらまいて放置した書類とリサーチの集計についてものすごく誉められたのでなんでかと思えば、南雲さんが昨日しっかりかき集めて番号も揃え、間に挟まっていたリサーチの集計データの入ったCD-ROMを提出しておいてくれていたみたいです)(ちょっとときめいたとかそんなことは断じてない、つもり、です)(だってここは社内恋愛禁止の会社です!)





希望があったらまだ続きます





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