サインを、と。差し出された紙にペンの先を這わせ、もう書きなれてしまった名前を整える。確かに受け取りました、几帳面に笑んだそのひとはオレを見て小首を傾げて、ひとこと。

「緑間さんは相変わらず、変なものを頼みますね」
「あー、まあ、趣味?でー。あっはは」

 軽口を叩き合えるほどに打ち解けてしまった青年にひらりと手を振って、じゃ、簡単な挨拶と共に玄関に引っ込んだ。ドアを閉める一瞬の間、帽子のつばを持ち上げて軽く腰を折っていた青年と目が合ってひとつ、おれも笑う。有難う御座いました。
 青年、つまり宅配便のお兄ちゃんから受け取ったこぶりの段ボール箱は相変わらず分厚い本だかはたまた骨董品まがいの意味わかんねえものとかが詰まっているに違いない。馬鹿みたいに重い。ずしりと腕に掛かる重みを噛み締めながら若干よろけつつリビングに運ぶ。畜生真ちゃんめ、そろそろだろうし帰って来たら散々に文句言ってやろう。

「に、しても。緑間ねえ」

 そう言えば先ほどドアベルの音に驚いた拍子にスナック菓子をばらまいたことを思い出して、ガムテープを引っ張り出してテーブルの下に沈みこむ。段ボール箱は適当にソファにぶん投げたので今の腕は軽いものだ。
 菓子くずの上にテープを貼り付けて剥がして、を繰り返して掃除をしながら合間に首を傾ければ、予想以上にばきりと大きな音がなってひとり勝手に吹き出してしまった。

 にしてもで。緑間だ。
 どうやらさきほどの青年はオレのことを緑間なんたらだと勘違いしているらしいがそんなことはなく、オレは産まれた時から今までずうっと高尾和成を貫き通している。
 そんなオレが緑間なんて言うへんてこな呼び名で呼ばれる理由としては恐らく、荷物が届けられる昼間から夕方に居るのはいつもオレで、真ちゃんもオレの居る時間帯に合わせて発送の時間を決めているような節がある。だからいつも玄関先で宅配便のお兄ちゃんの相手をするのはオレばかり。これじゃあオレが緑間サンだと勘違いされていたって何ら不思議はないだろう。

 ばり。音を立てるたびうにガムテープが床から剥がれていく。うん、まるで呆気ない。

「ん、ん・・・」

 バスケは高校までなのだよ――・・・・なんて言うと思ったか馬鹿尾阿呆成。と、不敵に笑いながら悠々スリーを決めていたいつかの真ちゃんをふと思い出した。テレビで流れていたCMのバッシュの宣伝で小奇麗な連中がくるくるボールを操っていたからだろうか、それともフローリングがふと体育館の床に見えたからだろうか。

 兎に角、突然に、息でも吹き返すかのように鮮やかに思い出したのだ。体育館だということしか覚えていないような二年前のことを、声音とまなざしばかりを鮮明に。
 嬉しい。そればかりが溢れた腹のまんなかの暖かさとか、も。

 キセキの世代と呼ばれる連中は、形はどうあれ二十になった今でもバスケットと言うスポーツに関わっているらしい。

 OBとしてたまに指導に当るだけのやつも居ればがっつり大学でやりこんでいるやつが居たり、仕事の合間に身体を叩き直すために走り回るやつが居ればひたすらストイックに今でも鍛え上げているやつも居て、それすべてにランダムに顔を出すやつまで様々だったけれど、とりあえず全員、バスケットは続けていると聞いた。
 なんだよやっぱり勝ち負け以前にすきなんじゃねえかよと思ったけれど、誰にも伝えたことはない。きっと誰もそれを認めないだろうから。

 真ちゃんもそのなかのひとりだった。よく秀徳に顔を出しては不器用ながらも指導して居て、オレもよくそれにくっついて行く。たどたどしく教えるのには向いていない高圧的な口調のまま、真摯に教え込む様子は可笑しくてたまらない。

 そんで、スリーは未だに衰えては居なかった。

 やっぱり奇麗なばっかりの馬鹿みたいに高い軌道を描いて、小気味良い音を立てながらネットに吸い込まれていく真ん丸いボール。見慣れたものだ。

「さすがは、エース」

 くく、笑みを殺しながら菓子くずをすべて剥ぎ取ったガムテープを丸めてゴミ箱に突っ込んだ。百発百中なんてありえないから一歩一歩確実に歩み寄って、近距離で落とす。この距離がオレにはお似合い。
 ぐるりと見渡した部屋は真ちゃんの部屋は入居当時は全体的にシンプルな印象だったけれど、オレがことあるごとに上がりこんで半分一緒に住んでいるような状況に持ち込んでやった今、ちょこちょこと増やした小物や雑貨類、はにわの置物や食い倒れ人形グッズの乗っかった棚、紐に何かは知らない奇妙な物体がカラフルにぶら下がる良く解らないそれの張り付いた壁、やらのせいで今は見事に乱雑で雑多な印象を受ける。生活感に満ち溢れた冷蔵庫のオプション付でもあるし。ナイス嫁、オレ。

「晩飯、は。さっき作ったしー、あー、ドラマ。・・・は録画したな。やっべ、やることなくなったな。うえーい絶賛ひとりごと!さっみっし!」

 誰がいつ、辞めると言ったのだよ。
 なんて不敵に、傲慢に、キセキの世代そのものの驕りと才能に満ち溢れた笑顔を浮かべていた十八歳真ちゃん。大事そうにボールを抱えこんで、惜しむように指先から剥がれ落ちたボールはそれでもネットへ吸い込まれていた。
 初めて、初めて高校で同じチームになって、初めての試合のときにも同じようなゴールが決まった。音を立てて落ちたボールを見た。

 思い出の割れる音を聞いたのだ。敗北感や、妬み。すべてを羽織った思い出がしまわれる音を聞いた。
 そうしてその瞬間、いっそ焦がれるように切望した。覚えている。思い出したよ。
 この馬鹿みたいなシュートを補佐できたら。この馬鹿みたいな天才と、並ぶことは出来なくてもいいから無様でも何でも追いかけ続けたいと。高校三年間、短い期間の間それくらいはしてみたいと。
 安心しか生まない、絶対のシュート。緑間真太郎。才能の差のむごさをオレに焼き付けてきたいつかの誰かと同一人物に対して、そんな情景を。

 高校三年間。それだけしか望まなかった。

「ったく、いつ帰って来るんだよ緑間ご本人はよお」

 ぺったり、ひとり。床に座り込んで窓の外を眺める。最近、日の落ちる時間が早くなったせいか五時半の癖に外はもうかなり暗くなっていた。
 にしても、真ちゃんってば全身真っ黒かお父さんコーディネートしか出来ないやつだから、もしかしたら帰って来る頃にはめがねと髪色しか夜道に浮かばない事件が巻き起こるんじゃないだろうか。何それ愉快笑っちゃいそう。

 そんな愉快な真ちゃんに、一度だけ。劣等感やら焦燥感やら、つまりオレのどうしようもできないごたごたをぶつけたことがある。
 相変わらずのスリーポイントが、自主練習で決まって。オレの出したパスの先でそれは行われて、嬉しいと同時にオレはあそこには、つまり決める側には立てないのだろ思ってしまって、そうしたら消せなくなった。羨ましいと、妬ましいと、凡人全開で思った。

 痛いよ。

 思ったままにことばにできなくてそれだけを。笑みながら伝えた。そうしたら愉快人間は、愚鈍なままに眉を寄せて訝しげな顔をして。

 絆創膏はいるか。

「あ、はは。思い出したわー、ああ、おっかしい」

 結局洗いざらい喋らされたのだけれど、その絆創膏のくだりのせいでどうにも笑いを抑え切れなかったオレは真ちゃんに散々に罵倒された気がする。と言うか、話している最中にはもうどうでもよくなっていた。何だよ、何この変なやつ、そればっかりを思ってた、確か。こんなとんちんかんなことこの上ないやつと三年間一緒かよ、いっそうんざりしながら思ったものだ。
 劣等感なんて、流されて。

 その後シュートが決まるたびに太股の横でちいさくひとさし指を立てるようになったそのひとの、ちいさなお茶目さを余計に気に入った。うん、そうだった。ひとさし指で、――――多分だけれど、絆創膏でも示していたんだろう。

「・・・・・・で、お前は何をしているのだよ。そんなところに座り込んで」
「うわお、真ちゃん!?わ、うえ、おかえり!?」
「ただいま。それで何をして」
「あーごはん、飯食おう飯ー。んとなあ、肉じゃがとサラダとひじき入りの卵焼きと味噌汁作った、あっ・・・手抜きって言うなよ」
「否、関心している。相変わらずよく作るな、食事なんて」

 部屋に引っ込もうとした真ちゃんに先ほどの段ボール箱を押し付けて、礼を言おうとしたそいつの背中を蹴ってどうせ着替えるんだろうから部屋にぶちこみ、オレはひとりキッチンに向かう。とりあえず飯、空腹を告げる胃袋は心もとない。
 おかえりに、ただいま。
 それにしてもそんなことばを交し合うほどに長く付き合いが続くなんて、思いもしなかったし望めるわけがなかったのに。人生、おかしなことに溢れている。

「はいはい、席ついて、はやくはやくしろって」
「あまり急かすな、たく、どうした。今日はいやに元気だな」
「んー?や、逆に感傷に浸っていたのだよー?」

 片方の眉をつりあげた真ちゃんは信じていないらしく、特に何を言うでもなく席に着く。真正面、するりと伸びた長身は今でも羨ましいものだ。

「それじゃっ、いただきまーす」
「頂きます」

 ふたり、手を合わせて。同時に伸ばした箸の軌道にふたりで笑った。



ヒーロー、滞空時間は三年



「それにしたって零しすぎだろう」
「あ?うあ?そうか?」

 くちびるの端に絡みついたソースを舐めとりながら首を傾げれば、露骨に嫌そうな顔をして真ちゃんが眉を寄せる。奇麗ずきめ。毒づけば、そう言う問題じゃあないだろうと軽い拳骨が振ってきた。
 大袈裟に痛いと騒ぎながらふたつめの平手からのけぞって逃れて、真ちゃんが浮かせていた腰をきっちり下ろすまで見届けてからオレも席に着く。
 瞬間突きが額あたりに繰り出された。結構な力加減で眉間を突いた衝撃に目を回して低く唸れば、全くたちの悪い、真ちゃんはこんなときばかり珍しく声を上げて笑いやがる。せいで、何にも言えなくなってしまう。

 仕方ないからばさばさ睫の長い目を睨みつけてみたけれど、真ちゃんってば全くもってどこ吹く風といった風な様子でしらりとして居やがる何だこの元エース。

「真ちゃんはきれー、に食べるよなあ。すっげえわ」
「・・・・味噌汁ごときで大惨事を引き起こすお前は何なんだ」
「あれ、ねぎとかさ。邪魔じゃね?食い辛いって言うか」
「・・・・・・料理は上手いのにな」
「イエーイ、主夫じゃんね。あ、主婦でも可よう」
「誰がお前なんぞ娶るか」

 おどけた仕草でダブルピースを作ってみたけれどやっぱりしらりとしたままの真ちゃんはオレを少しだけ上目で見て、その後深い深い溜息を漏らした。

 使用済みの小皿でこめかみを殴ってやりたい衝動に駆られたけれどさすがにキレられそうなので机の下でむこうずねを蹴るだけに留めておく良心的設計。

「あ、でもオレ今日宅配便のお兄ちゃんに緑間って呼ばれたぜ?ありゃあ絶対、オレのこの家の住人だと思ってやがる。っはは、厳密には住んでねえのに」
「何で否定しなかったのだよ、馬鹿尾が」
「えー、じゃあこう?・・・・違うんですう通い妻なんですうっ!」
「夫婦ネタを引きずるな」

 身をくねらせて裏声を作れば、今度こそ脱力しきって椅子の背もたれにしなだれかかった真ちゃんがうめくようにそう言った。あまりにも、あまりにもな。仕草が可笑しくって湧き出る愉快さのままげらげら笑えば、お返しとばかりに膝を蹴られた。足なっげえなあ、むかつくことに。
 ちいさく痛みを叫ぶ膝をさすりながら、痛いよ、呟いて笑った。瞬間軽く目を細めた真ちゃんのせいで深まる笑みを抑えられない。

 痛いよ、真ちゃん。いつかのエスオーエス、覚えてたんだ、こいつ。

「――――何か、」
「なあんにも」
「は」

 椅子の上に足を引き上げて抱え込む。飛んで来る非難気な視線には気がつかないふりをして肉じゃがを口に運んだけれど、届く前にかなりのじゃがいもがぼろぼろこぼれて顎にしみこんでいた汁が伝う。
 それに比べて真ちゃんったら、何かのお手本みたいに奇麗に奇麗に食べているんだから。生卵をレンジでチンしてパニックに陥っていたいつかの真ちゃんとは全く別人である。

 でも、どちらも知らなかったことだ。二年前までは食べる、と言う行為をここまで美しく行うひとだなんて知りもしなかった。作法がちゃんとしているな、くらいだけだった。宅配便のお世話になりまくっていることだって、料理がどへたなことだって、もそう。
 すべて、オレが区切った三年間の先に知ったこと。

「ねえ、真ちゃん。オレたちまだこうやってつるんでんな。笑っちゃうぜ」

 ことば通りにちいさく笑えば、小皿にたどり着く前に力尽きてしまったサラダのドレッシングが机の上に落ちて丸をつくる。几帳面な円は真ちゃんみたいだったけれど、ドレッシングと言う点で言うとやっぱりオレで。

「未だ?確かに、そうなのだよ」

 オレの言葉に訳が解っていないらしい真ちゃんのことばは、どっちが馬鹿だよと言いたくなるような返答だ。
 思わず泣きそうになって。噛んだ唇からはソースの味。乱暴に拭いながら前髪で表情を隠してやろうと目論んで、深く、深く俯いた。

 笑うなよ、真ちゃん。

「まだ大学生だ」

 オレが望んだ以上の先をまるで自然に眺めながら、そうやって笑うのはやめてくれよ。
 だって、なあ緑間、お前はオレとどこまでの先を見ているのかオレ自身が知らない。




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