夜の静寂と言うものを何と呼ぼう。
 ふとした会話の隙間の穴でもなく、授業中の子守唄のように響く教師の声と校庭から上がる歓声を含んだたおやかな空気でもなく、ぎすりと刺々しい毒をばらまくようなだんまりでもない、それこそ夜の静寂。冷たく何も無い暗さを彩るのは腕時計の音で、ち、ち、規則正しく世界を割る。

 この硝子に、針を収めた丸のなかに、夜を閉じ込めることが出来たらどれだけ美しいだろうか、だなんてそんなことを考えた。濃紺の円。針には隕石を。文字盤は星でつくろう。そんなことを。ただの夢で、すこしばかり眠気に浮かされた頭で考えたぼんやりと頼りないだけの思考だったけれど。
 それを語ってみれば、となり、同じようにぼんやりと遠くの星のほむらを眺めていた赤司くんは猫みたいに縦長のひとみをぱちりと瞬かせ、わるくないねとちいさくわらった。

 玄関ホールを一歩入ったところ、深夜をぶっちぎる塔みたいな時計を指差して。中に夜が入っていたら素敵だねと。そんなことを思って見た何の変哲も無い時計塔もどきもどうしてだろう、知らぬ間にカラフルで、本当に夜を閉じ込めてしまったような気になってくる。
 ふたりの夜を時計に詰める。何とまあ、少女漫画ティックにゆめみがちなんだろうか。

「明日になってしまったね」
「・・・・・なんだそれ。もう、今日じゃん」
「それもそうか」

 昼間こどもの居る場所と言うものは、黒を色の基調とすればなかなかどうして迫力がある。別世界めいているとでも言おうか、太陽の下わらいごえが消えるだけでここまで印象を変えるのか、と、驚いてしまう。今のこの、夜の学校にだってそれは言えたことだ。
 夜は怖いものだとちいさいころに教わった。今も、それは変わらない。

「そう言えば、ブルームーンと言うものがあった」

 語りかける風ではなく、むしろ独白めいた口調で彼は呟いて、体育館のつるりとした床をなぞる。胡乱げな指先で白や黄やらのカラフルな線を辿って、だけれども目だけは窓の外をみつめたまま控えめにかがやく星をとらえている。
 彼はその奇麗に整ったくちびるをぴたりと閉じたままひとみの球体のなか、閉じこんで大事に仕舞うようにして星々のかがやきを、うつす。

 おんなっぽい訳ではなく、むしろおとこくさいところの意外と多いひとだと言うのに、印象はどうしてか中性的だ。性別の曖昧な佇まい。顔や体躯ではなく、佇まい。
 夜のなか、彼の赤はいっそぎらぎらと暴力的によく映えた。

「ブルームーン?」
「流れ星気取りの月だとでも思えばいいさ。・・・・・言っておくが、青くはないぞ」

 ぐるん。流れた視線がおれをみる。どことなくからかいを含んだひとみの色を少しばかりいごこちわるく思いながら身をよじり、訳もなくスウェットの皺を伸ばしてみたりして。

 くす。

 笑みの音ばかりが耳を突いた。

「あっ、いや、知ってるし」
「ふ、降旗くん、おまえ青いと思ったろうブルームーン。ただのドッペルだと言うのに、ばあか」
「思ってまーせーんー。あとそのドッペル、てえの、嘘だろ」
「嘘吐き、い」
「・・・ったく。何だよもお」

 赤司くんが上げた軽いわらいごえが、体育館のなかわんわんといやに大きく反響した。飛んでって、跳ね返ってこだま。
 やっぱりいごこちの悪さを覚えて、誤魔化すように携帯を開いた。スマートフォンとか言う薄くて平たい板は所持していないおれのてのひらの中では、俗に言うガラケーが爛々と液晶を光らせて一秒後ごとに数字を変える。デフォルメされた数字は愛想のない黒のまま、午前二時を示していた。
 本当に本当の、夜。こどもが眠る前よりももっともっとふかい夜。そりゃあ静かだろうし、学校に誰も居なくて当然だ。液晶が光を失うだけでこんなにも暗くなる。

 何と呼ぶべきだろう。おれと赤司くんだけで埋めて繋いで縫うような、こんな夜の静寂は。

「宇宙は広がって縮んでを繰り返していて、星のひかりはずっとずうっと、僕が産まれる前に発せられたひかりなんだろう?そう考えると今はもうないのかもしれないんだね、あそこに、あの星は。ひかりに騙されているだけで」

 星のはなしをしているんでしょう。揺すりながら、そう問い詰めそうになって舌を噛んだ。ぎりぎりで飲み込んだ声が声帯に絡み付いて粘着質な音を立てる。それでも赤司くんはおれを見ず、ただただ星を、ないかもしれない星をみつめ続けている。ないのかもしれない、って解っているくせに、だ。
 馬鹿はどっちだよ。それだけをちいさく呟きに混ぜた。赤司くんは奇麗に、わらう。
 ああ畜生。

「本当なんてどこにあるんだろうね。僕らのこの身体だって、ちいさなちいさな粒の集まりで、そんなものいつ霧散したっておかしくはない。存在なんて曖昧だね、はは、それが本当なのかな」

 おれは時たま、赤司くんでさえ何と呼べばいいのか解らなくなる。

「赤司くん」
「、何だい降旗くん」

 奇麗な姿で、奇麗な声で、奇麗に織り交ぜられた自虐にこのひとは気がついているんだろうか。ゆっくりと確かめるような動作でまばたきをして、暗いなかだからだろう、目を凝らすように細めておれのほうに顔を寄せてくる。
 こんな夜。星が降ったっておかしくはないのに、あるのかないのか解んないそいつらは我が物顔で今日も闇にはめ込まれてた。

「おれが今日どうして、夜中に赤司くんをこんなところに連れて来たんだと思う?」
「連れ込んだ、と言うべきじゃないのか」
「人聞き、わっるいなあ。違いますー。連れて来たの」

 手を伸ばす。君に触れる。ねえ、それだけでさ、震えて震えて仕方ないおれってなんだろうね。絵の具でもそのまま溶かし込んだみたいなつるつる色鮮やかな君のひとみに射られるだけで何もできなくなるってんだから、背骨を抜き取られたみたいに平衡感覚を失うってんだから。
 おれにそれだけの衝撃で突っ込んでくる赤司くんと言う存在を、彼自身がいぶかしんでしまったのならおれはどうすればいいの。
 訳も解らないのに、時間も夜も巡るのだから。

「時計の話を、しただろ」

 夢の話だ。君とおれと、それから夜。それだけを詰めた硝子の円を大事に仕舞っておきたいんだとそう言う話。

「あんたは馬鹿だねって、そのときは言わなかったけど、おれは思ったよ。馬鹿みたいだって思った。無理だって解ってるし」
「・・・・・・夢だろう?」

 だからいいじゃないかとでも言い出しそうな、ひとみ。整ったくちびるは薄く開き、覗く舌は今にもことばを吐きそうに揺らいでいた。わずかに持ち上がった目頭は、彼自身がどうしようもないと自嘲しているときの癖だと知ったのは最近のことだ。
 それだけの毎日を積み重ねた。閉じ込めてしまってぐるぐる回してしまったら、どうやって重ねるのだろうか。

 恐ろしいくらいにすべてが静かだった。学校も、夜も、赤司くんも。闇に犯されてしまったように。

「うん。でも夢は覚めるだろ」
「そうだね。うん、そう」
「ねえ赤司くん。宇宙は広がるんでしょう。星があるかないかなんて解らないんだろ。そんで、本当がねえってんなら」

 息を吸う。夜を吸い込む。
 不思議と、辛かった。

「本当がないなら、信じてみてよ。夢が覚めないこと」

 今度こそ、彼に、触、れた。指先から染み込んでくる体温の柔らかさだとか、骨格の解ってしまいそうな肩だとか、触覚を刺激するパーカーの少しだけざらりとした質感だとか、そう言うどうでもいいようで居て魔法みたいなすべてがおれの全身を支配する。
 この瞬間、今だけかもしれないけれど、おれは赤司くんのものだった。嘘じゃない。夜よりも、彼を閉じ込めた。針の音に規則正しく彼を包んだ。・・・・鼓動かも、しれなかった。

「しぬまで見る夢なら。夢を夢のままで終わらせたのなら。本当になるって、赤司くん」

 だだっ広い体育館の、丁度真ん中。ひとりおいていかれたような顔をして星を眺めていた人形めいた彼の顔が、久しく歪んだ。
 うろうろと空間を漂う視線をすくいたくて顔を覗き込み、逃げるようにすくめられた首裏に肩を押さえ込んでいるみぎてとは逆のひだりてを這わせる。赤司くんは怒らなかった。ただ、困ったように眉を寄せただけだ。
 薄く開いたくちびるでただ、息をして。赤司くんはそんな、何てことのない人間だった。

 赤司くんが飼っているものを、おれは知らない。星と共に吐き出した自虐的なことばの意味だって何も解っちゃいない。ひかりに騙されているのが誰かなんて知らないし、どうでもよかった。

 赤司くんがここに居る。おれの隣に、ふたりきりで。夜の中にさらっても何も言わない。だからもうそれでいい。

「だから。それを教えてあげるから。おれが教えられる全部を、あんたに、あげるから。おれごと赤司くんに押し付けるから」

 遠慮がちに腰に置かれた赤司くんの、ボールを巧みに操るごつごつしたおとこの手。それが、なのに、なんでかな、折れそうだって思う。ついさっきまでの出来事が全部昨日に流されてしまった午前二時、誰も居ない真っ暗な体育館、おとこふたりで抱き合って。滑稽だと常のおれと赤司くんなら笑うだろうに、今日はおれも彼もだまったままだ。
 そんな、夜の静寂を。おれは赤司征十郎と呼ぶのだろう。

「おれの全部と、赤司くんの夜をとっかえてよ」

 赤司くん、おれは君を夜から洗い出したい。
 なんて言う、少女漫画ティックな夢を見ている。



えら呼吸の夜




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