薬品のにおいは濃い。驚くほど白い部屋に漂う雰囲気は独特で、この空間だけが別世界になっているのではないかと毎度思うほどだ。いやに静かな癖、わざとらしいほどに空気は重いのだ。
逃げ出したい、思った瞬間私の手首に絡んだ指先に力が篭るのだから、こいつは。
「・・・・もう、大丈夫だ。悪いな、落ち着いたよ」
返答に困っているのか、口腔内でことばを持て余しているかのようにぼそぼそと何事かを呟いて、敦は最後には困ったようにちいさく笑った。
何を聞くでも無いようでいてその実、言わせる気でいるのだろうまなざしはきりきりと鋭い。引き結ばれた唇は真っ白で、噛み締められているのだと知った。
敦は、敦を含めた彼らは優しいから。だから気取られたくは無かったと言うのに。
けれども薬品のにおいを奇麗に織り交ぜた部屋の空気に当てられた脳内は鈍く膿み、先ほどまで消化しきれていなかった胃の中身を吐き出していたからか身体が怠い。本来逆流すべきでない箇所を胃液と共にせりあがってきたそれらのせいで食道もじりじりと痛み、未だに下の付け根が苦く味を乗せている。
「よかった」
どうしたのも。何があったのも。恐らく全部を飲み込んで、敦は解けるようにゆるりと笑った。似合わない微笑みは少し歪んで、できそこないの笑顔になってしまっている。私がさせている表情だった。
だと言うのに敦はそれこそ微笑むだけで、怪我しちゃうよ、と握りこまれた私のてのひらに自分のそれを重ねてくるのだから。
接触にどうしても慣れない私はそれだけで、泣きたくなるほどに安心してしまう。何ともまあ扱いやすい女なのだろうか。
「敦」
それだけ。
けれども彼は、いいよ、ともう一度笑った。
そうして力の込められるてのひらはやはり私のそれよりも何倍も大きく、ことば通りの意味で包み込まれているように思える。末端からあたためられてゆく身体がぽかぽかとぬくもって来て、ひだまりに全身を投げ出しているかのような感覚にくるりと覆われて行く。
手の甲を撫でる敦の体温は、たまらなく、優しい。
「・・・・少し前から、なんだ」
「、ううん?」
ほどけたように柔らかく間延びした音は、馬鹿みたいに怯える私を安心させようとしてのことなのだろうか。だとしたら過ぎる感情の色。
失笑がこぼれる。薬品の匂いが脳髄に直接突き刺さっているかのよう、几帳面な匂いばかりが立ち込めて、どうにも曖昧に思考がまとまらない。本当に、いつからこうも弱くなってしまったのだろう。あれのこどもとやらを身篭ってからだろうか――――揶揄するように。
真っ白い部屋のなか、敦の髪の深い紫がかった色は良く映えた。白と紫はこうにも奇麗な色を模るのかと、網膜を直接刺激する美しさを初めて知る。
「変なものが、送られてくる」
少年の愛はいつもどろりと深かった。足首から這い上がってきて、確実に喉元を締め上げてくる嫌がらせじみた、けれど愛情としか表現することの出来ないなまぬるさ。粘着質に絡み付いてくる想いは不快なことこの上なく、食道のなかすべてに詰め込まれているようにも感じる。
蛇のように無の視線の、蛇の鱗。例えばそんな所か。
ぞぞ、ぞろり、視線が這う。どう、
「変なもの?」
鼓膜を揺らす静かな声に顔を上げた。その先にあるのは声と同じ静かな瞳で、音を立てない瞳孔はただ涙に塗らされてぬらりと揺れる。髪よりも少しだけ深く濃い紫は確実に私を捉えて、けれど、ゆると細まる。笑んでいる。
やはりいびつな笑顔は、思い上がりでも何でもなく、私がさせてしまっている顔なのだろう。
ひたすらに優しいばかりに隠された棘が声に混ぜ込まれて居ること。逸らされない瞳は静かではあるが穏やかではないこと。笑みのかたちを取っているだけで笑んではいない、敦。
らしくもない。と私が言うことは出来なかったけれど。
だって私が一番らしくない。ひとり勝手に、取り残されたような気になってどろどろどろどろ沈んで行く。
そのまま沈んで、消えられたのなら。愛情に巻かれるままに消えてしまえたのなら。私は誰にも迷惑をかけることもなく、敦はただいつものように無気力に薄く笑うままの日常だったのだろうか。
だったら、良い。しかし遅い。一度回りだした私の舌は、ことばを乗せては優しいひとのてのひらに吐き出して行く。
「いろいろな、・・・・それこそいろいろな、ものを。最初は、多分あれは」
「言わなくていーよ」
顔半分と、もう少し。目の下までを覆い隠したてのひらに、やはり大きいな、とぼやり思った。
「いいよ、ごめんね」
叫びだしたいほどの、衝動。口元を覆うてのひらさえなければむしろ叫んでいただろう。どうして、とかなんとか金切り声でヒステリックに、嫌になるほど女らしく。
ことばになりきらなかった音が喉元に絡みついて鈍い塊だけを残した。息がしづらいのはきっと、敦のせいなんかじゃあない。
保険医はどこに行ったのだろう。五時間目、授業中、未だ居座る生徒ふたりを咎めもしなかったあのひとは。思うけれど、やっぱりどうでも良いのかもしれない。
すべてが、もう私ごと、どうでも良い。
「、ん。まー、おけおっけ、理解した。怖かったよねえ」
イイコ、茶化すような響きを持って声が降って来て、同時に口元を覆っていたてのひらが後頭部までするりと上り、そのまま掻き混ぜられる。
粗野に動くゆびさきは髪と髪の間に滑り込んでは引き抜かれ、何度も無遠慮に、一応は毎朝整えている髪を乱した。
頭の形でも確かめているかのような掴み方にいっそ身体ごと揺すぶられる。何と言うことも出来ず、ただぶれる視界をぐらりぐらりと平衡感覚さえ失いそうになるほどに揺られながら眺めた。白と、紫と、跳ね上がる私の赤い毛先、それだけの色はひとみのなかをくるくる泳ぐ。
酷いくらい。混ざる。
「お疲れ様ー」
さらりと、赤はこぼされて。彼の指の間を落ちて行く。
いつの間にだろう、腹を蹴っていた赤子も共に流れ落ちてしまったようだ。私の子宮はどうやらからっぽで。
「うん」
目を閉じる。暗くはなく、まなうらを軽く突くのは窓から差し込んだ日の光だろうか。単調なばかりの真っ白をもっと鮮やかにしているのは太陽だったっけ。
ぐら、ぐらりと揺すぶられながら、そのたびに何かが剥がれていくようなそれにひとり静かに酔う。甘美だった。大輝と逢って、敦に――――酷く申し訳ないけれど、断片でも吐き出せて。今日部活で皆と逢って話でもすれば、それこそすべてがどうでも良くなるに違いない。消えてしまいたいと思いながらも幸せだよな、なんて。
柔らかなまどろみに包まれるのはいつ以来だろう。今自分は何かを話しているのか、それとも黙ってされるがままになっているのか、それさえも解らない。日差しと体温が、ああぬるいな、そう思って。
「・・・あは、おやすみ」
鼓膜を揺らすのは柔らかくて優しくて、暖かいばかりの敦の声だ。
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