※WC後/すべてが捏造




 舌先に嘘だけ引っ掛けて笑っていたようなひとだった、と、今になって思ったのだけれど、その嘘吐きはやはりと言うか嘘ばかりを残して消えてしまったので、距離ばかりが近いだけで何も知らなかったのだと最近知った。
 嘘にも種類があるのだと知ったのもそのひとのせいだ。

 おれの知る彼は嘘吐きだったし、誰に聞いても一言目には良くも悪くも裏表の無い良い奴だと言い、そして誰しもが他人をからかうことがだいすきな嘘吐きなんだと苦笑気味に彼のことをそう評した。そんなひとだった。
 おれ自身そのことばに疑問を抱くこともなく、ひとり、ふたり、数えるのも億劫になってしまうほどの人間が居なくなってしまった部室をぼんやりながめながらも、やっぱりそうだったと感傷に浸りながら静かに納得していたものだ。
 そんなひとであったのも本当だったから。

「お疲れ様」

 と、どこか不敵に笑みながらそのひとがおれの背中の真ん中を蹴飛ばしたのは、WCで負けたその日の夜のことだった。

 肌を刺す冬の熱だとか、雨になりきれなかった雪が装飾の騒がしい街を真っ白に染め上げていく様子だとか、ぶるりと震えるおのれの喉と鈍く痛む目頭だとか、すべてを鮮明に記憶している。今同じことを繰り返してみろと言われても寸分狂わず演じることが出来るだろうと、ただ空虚に思っている。それくらいに鮮やかに肌に刻みついている、そんな夜だったのだ。
 負けたその日の、常ならば無理矢理にでも記憶から叩き出しているだろうそんな毒でも吐きたくなるような日のことを、ここまではっきりと覚えているのはやはりそのひとのせいであるようにも思えたし、その実、なんてことのない理由であるようにも思えた。
 日常の一部だったのだ。そのひとの嘘も、どうにもならない敗北も。

 そうしてその嘘吐きがだいきらいだったことも、ただの日常の一部分。

「頑張ったよ、」

 誰が、とは言わなかったその声の震えに気がついていたはずなのに知らぬふりをして、ただ、いつもと変わりはしないその態度に焦れながら突き出されたココアを受け取っただけで何も言わなかった。
 言えなかったのかも、しれなかった。

 おれの吐き出すことばはいつもたどたどしく、言いたいままの意味のことばを捜すだけでえらく時間がかかってしまう。
 ひとつ選べば、それに繋がることばを。それに繋がることばが浮かべば文章全体を整えて。ひとはことばがじょうずだねとおれにわらったけれど、じょうずへたがあるうちは、流暢ではないのだから。

 ことばを捜し、失って、俯いた。それだけだ。何も産めない。

 ココアの缶のつるりとした質感も、喉に流し込んだときに焼けた舌も覚えているのに、そのひとの悲痛に歪んでいたんだろう表情だけは未だに思い出せないのに、だ。

 そのひとはううん、と天に向かって腕を突き上げ、今すぐにでも倒れそうなくらい薄い身体で大きく伸びをして、いやに軽い声で頑張ったよともう一度繰り返し、まともに防寒していない薄いパーカー一枚の身体をぶるりと震わせてくしゃみをひとつ。
 風邪をひいたら、言おうとして舌を噛んだ。備えるべき試合はもう無い。甘ったるかった筈のココアが苦味を持って口内を侵し、そのひとが自嘲気味に笑みをひとつ漏らすのを聞き、――――聞きたくなくて苦いばかりの液体を無理矢理に飲み込んだ。

「相手の方が強かった。あいつらの力の方が勝ってた。それだけだ」

 再戦。来年。リベンジ。次を語ることばは一度として飛び出さない。腹立たしいばかりのちいさな嘘も、ない。唇は淡々と事実だけを吐き出し、誰を慰めることも傷を抉ることもなく垂れ流され続ける。
 その頃は未だ日本のことばを流暢に話せはしなかったおれは静かに唇を噛み、噛み切り、ココアの苦味を鉄で薄めただけで何の役にも立てず。液体は全く美味くなく。
 未だにおれはココアが飲めない。

「・・・・弱くはなかったよ、それでも。うちのチームは強かったんだ」

 独白めいたことばの端が白い蒸気になって立ち上り、そのひとの真っ赤に染まった鼻先を掠めて夜空に昇る。
 身を切るほどに冷たかったはずの気温、触れた缶との温度の落差、あったはずのすべてを感じることが出来なくて、今になって思えばただかなしかったとくやしかったとそれだけなのだろうけれど、胸に横たわる思いが嫌に苦くて。重くて。ひとりでは抱えきれないほどにそれは、おれの腕いっぱいにつめられていた。

 ひとりで出来ないからチームだ。
 補うための、おれだ。パスくらい出してやら。

 朗らかに笑みながら言っていたそのひとはもうこのどうしようもなさを紐解いてくれることも、嘘と一緒に緩めてくれることもないのだろうと思えば、何だかかなしくて仕方なくなってきて、無駄におおきいばかりの図体をまるめこんで膝に顔を埋めた。においはやはりと言うか感じず、極めて無臭で体温は低く。

「はは、どうしたよ。寒いのかー?」

 軽いだけの笑い声をぱたり、ひとつ。落としたひと。声は歪に歪んでいて、聞きたくなくて耳を塞いだ。

「そうかもしんねえ、アル」

 知っていた。
 滑稽な語尾を強いた笑みをふくんだことばはあのひとがからかっただけだと、そんなことくらい最初から。ことばの片隅に潜められたちいさな取るに足らない嘘は気安さから来るものだと知ってしまってからはつい、咎めることも出来ずにずるずるとだまされ続けてここまで来てしまったけれど。
 ああでも、嘘はすべて巧みだったように思える。注意して聞いていなければするりと信じてしまうくらいに口調も調子もほんものめいていて、今信じていることだって嘘なのかもしれない、とさえ。

「・・・・福井」

 続くことばは、なかった。それっきりことばを失ってしまったと言うのに、いつもならばにやにやと嫌な笑顔を浮かべながら絡んできそうなそのひとはその日ばかりは黙ったまま、長く時間が流れてやっとひとこと。

「、んだよ、劉」

 嘘でもよかった。からかわれても構わなかった。なのにたったひとこと、それだけを答えただけだった。
 酷く寒くて。
 噛み千切った唇が酷く、痛んだことを覚えて、いる。

「おれはお前らが、先輩ってやつが、いてよかったって。思うアル・・・・唔該」
「何・・・・あー、最後。わっかんねえよ、・・・・ふ、はは」

 困ったようにちいさく笑うひとがらしくないを通り越して別のひとのようで、思わず顔を上げて真正面から見詰めてしまったのだけれど、やっぱり顔は変わらない。釣り目がちの、勝気そうなひとのまま。
 ただ浮かぶ笑みばかりが弱弱しい。表情はこれだけひとを変えるのだと、声音はこれだけ印象を変えるのだと、そんな簡単なことを知らなかった。
 嘘吐きが本当を教える、なんて。止めて欲しいよらしくない。
 そのひとが問い返したことばについて。感謝を呟いたとはついぞ、言わなかったのだけれど。

 約束を沢山積み重ねてきた、二年。また、いつか、明日、次の休み。先ばかりに約束を重ねて思い出を予定にして、その日を何ともなし、けれど心待ちにしていた日々だった。
 そんな二年間。
 三百六十五日、かける、二。正しくはそれよりも少ない。

「何、笑ってるアルか」

 いつからだろう、そのひとからの約束が近くなり、来年、のことばを聞かなくなったのは。いつからだったろう。

「ハ――――わらうしか、ねえじゃんかよお、ぼけ」

 いつから、いつからこのひとは、総ての試合で敵でも撒き散らすような刺々しさと共に異様な集中を見せるようになっただろう。
 初めて紫原を見たときの顔は、ぐうにゃりと、歪んだあの顔は。果たしてどれくらいの悲痛が満ちていただろう。

 何も知らず、何も解らず。
 心もとないままにただそのひとの押し殺された呻きにも似た泣き声を聞きながら掌の中で缶を弄び、無意味に息を白く染めて空に吹き上げる。ぬるく、湿っぽいたましいみたいな白いもやが夜の黒に柔らかく溶け、もっと白い雪が景色を単調に彩った。
 美しくもない真冬だったのだ。

「何、泣いてるアルか」
「泣いてねー、よ。は、なめんな」

 舌先に嘘ばかり引っ掛けてけらりと一笑、他人を弄ぶようなひとだった。主将をからかうことがこの上なくすきな様子であったし、後輩にも同じような気安さで絡みながら楽しそうに笑っていた、ひとだった。内面で何を飼っていたのかなんて今更わからないけれど、それでもそう見えていたひとだったのだ。

「可愛い可愛い手前の後輩の前でぶざまにみっともなくなんて、泣くかよ」

 嘘吐きで、優しいひとだった。

「おれは終わりだ。んなこた、どうでもいい。でもな劉、お前にゃあ次がある、来年を語れるんだ。だからな、だから劉――――負けんな。次じゃねえ、今!諦めて負けんじゃねえぞコラ」

 どう見たって頬を流れるそれは涙で雪が溶けたものだなんて言えたものじゃあなかったし、何よりも辛そうで細い身体は折れそうにゆらゆらと夜の黒を漂っていたと言うのにそのひとは、ずっと、おれたちのはなしをして。
 あそこはこうすればよかった、だから、次は今度は。決して自分自身には訪れないいつかを平然とは行かないまでも淡々と吐き、負けた直後だと言うのに泣きながらも崩れ落ちず、平気だって。
 嘘を、吐いて。弱弱しくもけたりと笑って。

「ばーか!馬鹿!」
「何だよ劉お前、突然な、そう言うことを他人になあ」
「負けないだけじゃねえアルよ、勝つ!に、決まってる!」

 そんな稚拙な怒鳴り声。
 彼は笑わず、

「おーよ。信じてるべ」

 いつかを語らず。そう言って真っ赤な目元をぐしゃりと歪めてひとつ、笑った。

 その折れそうな身体を支える術が見つからないまま、おれもつられて泣きそうになるのを堪えて唇を引き結んで、どうしてだろう、解っていた筈なのに舌先にことばをのせてしまった。

「いつか」

 と、来ない一日を。

「いつか、また」

 何とも言わず、ただそれだけの果たせない約束を取り付けようとしてしまった。こどもだったのだ、おれは。
 否。
 こどもだったのはおれ、と、そのひともだったのだろう。だってそのひとは一瞬ことばを失った後、それとわかるほど寒さで赤く染まった指先を握り込み、すうと大きく息を吸い込んで言ったから。

 けたりと、騙してやんよ、そんな色を織り込みながら不敵に笑っていた。
 それだけはちゃんと辺りの景色も気温も感覚も――――表情も、覚えている。

「おーよ」

 それきりお互い何も言わず、恐らくあのひとの方から帰ろうと言い出すまでふたり並んで何をするでもなく星も見えない夜空を振り仰ぎ、ふたり泣いて。時折思い出したように彼が罵声を吐き出す以外はずうっと静かで。うるさいくらいの、静寂で。
 やはりと言うか、そのときのそのひとの表情は少しも断片も、思い出せない。ただ泣いていたことだけ知っていた。

「くやしか、ねーよ。おまえらと同じコートに立てて、さ。たのしかった」
「・・・・嘘、宜しくないアルよ」
「、はは」

 弱さを肯定せず、またを否定せず、後ろ髪にでも引っ掛けたまま卒業と共に煙のように消えてしまった嘘吐きは、優しい嘘もすきだったように思える。
 今になって、そう思う。
 またのいつかを日常の端に捜しながらここまで来たおれは、嘘吐きがきらいだ。



うそつきたちによる額縁