どうやって学校に向かったかはよく覚えていない。大輝と軽口を叩き合っていたような気もするし、途中で別れて私だけひとり、痛む頭を抱えたままかなり遅れて登校したような気もする。
うまく思考がまとまらないのは、きっとまた私に注がれているからに違いない。
視線。
うなじの辺りをぞろりと舐め上げる視線。そのまま鱗の無い蛇のよう、ずるりずるりと全身を這いずる無の視線。
匂いは無く。感覚さえ無く。ただ、這いずられているとだけ感じる。
鱗が無い蛇は、だが欲が無い訳では無いと気付いたのは最近のこと。この視線の持ち主も、自慰にふけることもあれば私を対象に欲を消化するに違いない。
気色が悪い。吐き気を覚える。少年はどこから私を見ていると言うのか。
桜のあしらわれている巾着の中身、弁当をどうしても食べる気にならずに嘆息した。空腹は感じるし食欲も有るのだが、どうにも食べると言う行為が咀嚼が嘔吐を呼ぶ。白米を見ただけであの日叩き付けられた白の液体を思い出すのだから始末に終えない。
白が純潔の色だと言い出したのは誰なんだろう。白いウェディングドレスをまるで純真の象徴のように夢見る少女はただの阿呆では無いだろうか。
最近はそうとさえ、思う。恐らく私は参って居た。観衆から注がれる無の視線、好奇さえ含んでいなかったそれに横たわる生々しい情欲に晒され続けて、多分もう、どうにも出来なくなっている。
ひとりが怖い。
ひとりになる瞬間の恐怖が、誰かと行動を共にする息苦しさを圧倒的に凌駕してしまった。
真っ白の世界が怖くて、怖くて、色彩がカラフルが欲しくて仕方無い日々ばかりが、私の前に敷き詰められている。一緒に居ることは楽しかったから、それだけが唯一の救いだろうか。
思考がいやに散漫だ。ゆるゆると首を振り、どうにか浮つく判断能力を繋ぎとめようとするのだがどうにも上手く行かない。きっと空腹のせいだ、そう結論付け、とりあえずはと緑間の教室へと爪先を向けたその時だった。
無だけにまみれた視線が一度うなじをずるりと這ってのたうって。
それを最後に、途絶える。
「――――ッ、」
また、また彼か。
彼が、私に接触を図って居るのだろうか。だとしたら私はどうしたら良いのだろう。撃退できる人間だと思っていたがそんなもの、とっくに飛行機にでもぶち当たって霧散してしまった別人だ。恐怖に直面したときに、無様にも固まってどうにも出来なくなってしまう弱いばかりの女だった、私は。
知ってしまったからこそ、か。何も出来ないと知っているからこそ、怖い。怖い。どこかに行ってくれ。
私から、せめて視線だけでも外して、くれ。
肩に指が絡み付く。太い指がずぶり、と首筋に突き刺さって沈んだ。吐息の音が鼓膜に刺激を与えて、私は息の方法を忘れてみずぼらしく喘ぐ。
がふり、息が出来ない酸素を。頂戴。誰でも良い。私に息をする一番上手な方法を教えて。
すくいあげて。
「っ赤ちん!?」
「あ、・・・・?」
視界が揺らぐ。総ての色彩の境界が曖昧で、目の前の男の瞳の色さえ判別が上手く出来ない。藤色、紫色、いやもっと深いかな。いつもは気怠そうな色を濃く落としていると言うのに今日ばかりは焦ったように見開かれた目。
重く圧し掛かる瞼はどこに行ったのだろう、蝶々にでもなって飛んで行ってしまったのか。
赤ちん。ねえちょっと、赤ちん。
それは繰り返し私の名前を呼んで、肩に指を刺したまま前後に軽く揺さぶりを掛けて来た。嘔吐感。指先から力が抜けて、巾着に絡めていた筈の私の爪は再び指へと舞い戻る。ごとん、重量を感じさせる音を立てて廊下に溺れた桜の花はそのまま息絶えたようにぴくりとも動かなくなってしまった。今日のおかずは、何だったっけ。
それにしても役立たずな爪だ。剥いでしまおうか。
昨日整えたばかりで短く切り揃えられているつるりと丸いそれを見下ろす。ぐらんぐらり、眠らせる気の無いゆりかごに放り込まれた思考は相変わらず散らばったまま、うまく纏めることが出来なかった。
頭痛がする。こめかみを抉られているんじゃないかと思うほどの、痛み。誰かに包まれている私の指先と役立たずの爪は、その誰かの体温と比べると酷く冷たいのだと知る。
寒かったけれど、冷たかったけれど、そのまま凍ってしまうのならそれも一興と。
「ねえ、だいじょうぶなの」
思った途端、目前でぱちりと音が弾けた。呆然と音の発信源を見返せば、両手を合わせて居た敦が少しだけ苦く笑う。口角ばかり笑みであったけれど眼光は鋭く、底にくゆる光はどこか淀んで居た。
怒っている、のだろう。又は案じられている。余計な心配を掛ける訳には行かないが優しい彼らのこと、敦から様子がおかしいと伝われば私に時間を割こうとするだろう。それ自体は良い事だ、内に閉じた所の有る彼らが他人と関わろうとする事は刺激にもなるし、私が嬉しい。
だが。
対象が他人は他人でも私であっては無意味。私から与えられる感情など、せいぜい不快さや憤り位のものだろう。だったらせめて無害で居たい。
「平気だ」
大丈夫だと言わずそう置き換えたことを敦はきっと気付かないだろうから、とあえてそう答えた。出来るだけ無害で居たいが、嘘も吐きたくは無い。だからこそ最良の回答だと言えるだろう。
状況は大丈夫とは言い難いが平気だ、と。
「なあん、か。悩みごと?」
ただ相手が悪かったのかもしれないとは思う。
物事や世の流れには疎いが、敦は感情の機微には酷く敏感だ。否、機微よりも深層心理と呼ぶのだろうか、そんなものを読み取ることをまるで自然に行う。
ただ変なところがこどもだから、読み取れたからと言ってどうすることも無いのだが。むしろ相手の痛いところを知っていてなお抉るのだから余計に性質が悪いかもしれない。
そして敦は恐らく今も。
抉ろうとしている。無意識か意識してかは解らなかったけれど、細まった瞳に宿る好戦的な色は、テツヤに噛み付いているときと良く似ている。
ぎらぎらと。にがしてやんないよ、そう語っている。ただ声音だけはどこまでも優しい。
「おれ、聞くよ」
と。
屈みこんだ敦は床に転がった巾着を持ち上げて、未だにちゃんとちからの入っていない私にしっかりと握らせてくれる。冷えて震える私の手を、ほぼ倍はある敦の掌がぎゅうっと包む。体温は高く、触れた肌はかさついていた。周りに生徒が少ないからだろうか、額同士をこつりと打ちつけて来た敦はそのまま珍しくもゆるりと微笑んで、だいじょうぶ、とまた囁いた。
だいじょうぶだよ、おれが居る。
そんな声は。
「、あ」
そんな声は、ぬくみは、どうしようもなく私をすくった。嘔吐感は未だ消えず、思考は散漫なままで恐怖も抱き続けていたけれど、すくわれた、と思う。
だいじょうぶだよ、と繰り返しながら、すり抜ける生徒たちからの訝しげな視線にさえ怯える私に気付いているのか何なのか、その長い腕でくるりと包んでくれるその体温に私は、すくわれているのだ。
あたたかかった。
「まえ、からずっ、と、いて」
「赤ちん、何が?何がいるのかな」
ちいさなこどもをあやすようなその口調はいつもなら腹が立つのだろうが、今日の私はもうおかしくなってしまったようだ。安心しかしないし、もっとその声で語りかけて欲しいし、抱きしめて欲しい。
私ごときが。思うのに、突き飛ばせないのだ。らしくないと言うよりももう、私では無くなってしまったみたいに。
「なにと、呼ぶのだろう。不審者、か、痴漢でもあるように、おもえるし、だがいやがらせ、じみても、いて」
ひゅう、と。鳴った喉は敦のものか。
「ストーカー」
ぎちり、と。鳴った音は歯ぎしりか。
「赤ちんそれはいやがらせじゃあない、」
私のみっともなく小刻みに震える肩を押さえ込むように敦の腕に力が篭る。首筋にかかる息はいやに熱く、彼はやはり怒っているのだろうか。ひきつれた声はいっそ痛々しい。
ごめん。ちいさく呟けば、何も言わずにまた抱きしめる力が強くなる。
広がるざわめきに今更ここが廊下だと思い出した。視線に満ちた廊下だと。
「ただ、赤ちんだいすきだって言われてるだけ」
敦の唇は噛み締められすぎて切れていたのが視界の端にちいさく映ったが、どうすることも出来ない。
保健室へと言おうとした瞬間せりあがってきた胃の中身をぶちまけながら感じたのは安心でも恐怖でも嘔吐感でも無く、ただ食道を焼かれている感覚だけだった。
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