ジェリービーンズが雨のよう、ぱらぱらとこぼれつづける。白いてのひらから魔法みたいに作られる虹色の雨は机のうえを転がって、そのうちひとつが見えなくなる。教室の床の上、きっと、砂にまみれてしまったんだろう。
「味覚で初めてとらえる味を知ってるか、敦」
ジェリービーンズと連れ立って転がり落ちてきた声に顔を上げ、拾い上げようと伸ばした腕の先を迷子にしたまま、うん、と言ったけれど我ながら返事とも肯定ともつかない声だなと思った。曖昧をきらうかれのこと、不機嫌にでもなるかと一瞬みがまえたけれどなぜか今日は機嫌がいいようで、目をほそめただけで何もいわない。
ジェリービーンズがまたはじかれる。葡萄味を模した甘い塊は、また無為に机のうえでのたうった。また床の上に撃墜しそうになるのをてのひらで受け取って阻止しながら、今度こそ明確に呟いた。しらない。
そう、と赤ちんは軽くわらう。しってるっていっても多分かれは同じことをいって同じようにわらったに違いない。
垂れ流すようにゆうるりと、弛緩するような薄いわらいを浮かべたそのひとが、おれがてのひらに落とした葡萄味をつまみあげてくちびるの奥に隠してしまうのをぼんやり見上げた。歯で噛み潰されているのか舌のうえで転がされているのか、もしかしたらもう食道を転がり落ちているのかもしれない、毒々しい紫色の丸みを帯びたフォルムを思いながら。
いつか胃液に溶かされきってしまうんだろうそれの甘さは、辛党のかれにはいささか暴力的だろうか――――と。思っていたのをしっていたのかなんなのか、赤ちんは甘み、と酸素に呟きを混ぜる。
柔らかいくせに底の冷えた声。奇麗な赤色を帯びたことばがひろがる軌道はやっぱりあざやかで、波紋みたいにゆらぐそれはおれの目にはそれこそ暴力的だった。
垂れ流すように赤ちんはわらう。カーテンがぶわりとひろがって、真っ白のそれがいきものみたいにばたばたはためく。白い鳥みたいにばたばた、ばたばた。羽にしては随分と、薄くて柔らかくて脆弱で、骨はないようだったけど。
「苦味や渋味は美味いと感じるようになるまでにいっとう時間がかかるらしい。おとなになれば味覚は変わる、とはそういうことさ」
「にがい、しぶい、ねえ・・・・・・赤ちんは紅茶すきだよね。なんだっけいまのマイブーム、アールグレイか、ええっとダージリンだっけ?ってか、ああそうだよ、甘みってなんなの」
「最近はハーブティを愛飲している」
甘み、には答えないまま、赤ちんはまたジェリービーンズをひとつくちびるのなかに隠して閉じ込めて、ゆっくりと噛む。そして嚥下。こくり、音を立てて上下した喉にどうしてだろう、おれの心臓もゆさぶられた。赤ちんのころころまるいひとみはいつも鋭くとがった眼光で、たとえばひとに散々にあつかわれた野良猫をおもわせるとげとげしさがあるのに、いまはどこか解けて視線のさきも曖昧だ。それだけ信用されているってことなんだろうか、まとう雰囲気もどこか倦怠感をおりこんでいる。
机のうえのカラフルをおれもひとつつまみあげてみた。黄色、レモン味。とりあえず真正面に向かってけっこうな力加減でなげてみれば、赤ちんがくすくす楽しそうにわらう。さようなら黄瀬ちん、きみはいらない。
「甘みっていうものをね、赤子は最初に感じるらしい。つまり味が甘いか甘くないかのふたつしか選択肢がないそうだよ」
「うわ、なにそれ。まっずい世界ー。にがいしぶいはまずいけど、さすがに塩辛いとかはまだうまいとおもうな、おれ」
「ふ、そうだね。ああ、あと甘くないものは不快感さえ抱くらしい」
「甘いもんばっかり、ねえ。きらいじゃねーけど胸焼けしそう。窓硝子は水あめだったり?」
「・・・・・その発想はなかったな」
ほんとうに驚いたみたいで、目をおおきく開いた赤ちんがおれをじいっと見詰めてきた。猫みたいなくるりとした瞳がまたたく。
窓硝子は水あめで、机はクッキー。扉は白いチョコレートで、電灯はジェリービーンズで、黒板は抹茶のバウムクーヘン。チョークはぜんぶ砂糖菓子。教室にあるものをそうやって甘いお菓子にたとえていけば、興味深そうに耳を傾けていた赤ちんはだんだんと口角を緩めて、最後にはたのしそうにわらってる。おれもたのしくなってきていろんなものを指差したとえて、いつのまにやらヘンゼルとグレーテルの真似っこの教室が出来上がった。
パンの道しるべをついばむのが真っ白い鳥だとして、さて最後に茹でられるのは誰だろうか。
プリンの椅子をひいた赤ちんが滑り込むようにしてなめらかな動作で座り、美味しそうだね、と心持弾んだ声音でいうのを聞いてたら、クッキーの机を彩るジェリービーンズが今度は星みたいに見えてきて、いつの間におれの頭はこんなにファンシーになったんだろう。
「赤ちんはさ、にがいもしぶいも美味しくかんじることが出来るかもしんないけどさ」
とか。いってみる。おれがいいたいことがわからなかったらしい、赤ちんがすこしだけ困ったように眉をよせた。
紅茶はすきだけど、ブラックコーヒーはとくいじゃないでしょ、赤ちん。胸の奥にぽつりと思考を落とす。ことばにはしなかったけれど。
「甘いほうがさ、赤ちんでもそりゃおいしいっしょ。でもおれはどうやら味覚未発達、にがみしぶみはわかんないわけで――――うんつまり、おれにくわせとけば万事解決ー」
今はただ警戒を解いているだけのこのひとが、おれに完全に頼ってくれるようになるのはいつなのだろう。おれだったらヘンゼルとグレーテルにはさせないし、まず捨てないのに。
ジェリービーンズのひとつ、赤いのを手にとって日に透かすように頭上に翳した赤ちんはおれのことばに答えない。透明になりきれなかった赤い濁りを見詰めているだけ。なかになにも入ってなんかいないのに、だ。
赤ちゃんが最初に感じる味は甘みで、はじめて見たものをおかあさんだとおもって信仰にも似た信頼を向けるいきものもいるらしい。
まるでおれだった。赤ちんはかみさまじゃあないけれど。だってかみさまはさみしいよ、祈るだけ祈られるのに、叶えた頃には祈ったことさえわすれられてる。
「じゃあ、苦いところと渋いところは敦に任せよう。辛いところは僕が総て請け負うから」
赤ちんそれじゃあ意味ないじゃん。
かれは口の中にジェリービーンズを放り込んで、何の感慨もなく赤色を噛み砕く。嚥下はせず、顔を歪めたそのままに、どこからか出してきたティッシュにぐちゃぐちゃの赤色を吐き捨てて甘い、と嫌そうに呟いた。だったらくわなければよかったのに、とおもったけれど、赤ちんはぐちゃぐちゃにするのが目的で咀嚼には興味がない風だったから余計なことはいわないでおく。
仕方ないから勿体ないよ、とそれだけ伝えた。なにが、とかれは冷えた声でおれに無感動を突き返した。
「赤ちん」
「なに」
ぼんやりとかれを見ながらふいに、抱きしめたいなあとおもう。衝動。けれどおれと赤ちんを隔てる机が邪魔すぎてそれはうまくいかなさそうだった。今すぐにその細っこいからだを抱きしめてぎゅってして、赤ちんがころころわらいながら離せあつし、ってわらうのを見たかったけれど、それにはこのクッキーで出来ても居ないぶあいそうな机が邪魔すぎる。
だから握った。さっきまで赤色を潰していたてのひらをそっと。壊さないかな、壊しちゃってももう、いいかな。一瞬おもったけれど打ち消す、赤ちんはやっぱり完成されたままで居て欲しい。
だからちいさく、机にずぶりと、呟きを落とす。
「キスしてもいい?」
「僕は、・・・・・甘くないよ」
それでもいいよ。聞こえただろうか。途中で噛み付いたから聞こえなかったかもしれない。机を挟んだキスってやつ、はたどたどしくてこどもっぽくて、キスというよりはちゅうみたいなただただくちびる同士をくっつけてるだけの何か。
赤ちんのくちびるはかさついていて人肌の熱があって、それだけが妙に生々しくおれの喉に突き刺さって息が上手に、出来ない。ばくばく、心臓がうるさい。
おれのなかみはおれじゃなくて、おれの意思ではどうにもならないからちくしょう、臓器が。赤ちんのことがすきだっていうことが収まらなければ、心音さえも収まらないとか。
「甘い、よ」
「葡萄味か?」
「んーん」
赤ちんにとってのおれは赤ちゃんだろうか、それともちゃんと紫原敦だろうか。童話のわるい魔女でもいいかもしれない。
おれとかいう誰かさえ居れば、存在の仕方なんて多分どうだっていい。
「甘くなかったら、残りの選択肢は“甘い”だけだから」
「は、成程。悪くない」
もしおれの舌が未発達じゃなくてただぶっ壊れていただけだとしよう。
でもそれでも構わない。さっきおれ自身でいったみたいに、にがいしぶいがわからないからこそ食えるならクラッシュ上等。
おれはいい。
「赤ちん、それさ、ジェリービーンズ・・・・甘い?」
おれはいいけれど、赤ちんの舌だけは正常に味を感じれる何かだと嬉しい。いやなものをまずいって思える臓器がちゃんと機能していて欲しい。
「甘くない。だからといって敦のいうような屁理屈で甘いとも感じない」
赤ちんが降らせていたジェリービーンズのことを今更思い出して、見えなくなってしまったそれを捜して床に視線を這わせる、机のした、椅子のした、くまなくさがすのにどうしてか見つからない。あの甘ったるいお菓子は何味であろうとカラフルだから、暗い色をした木の床のうえでは目立つはずなのに。
赤ちんが席を立つ。かばんを肩にかけたから、帰ろうとそういうことだろう。
「どうだろう。味なんかわかんないのかもしれないね、僕はもう」
だったらおれの舌をあげる。
いおうとした瞬間おれの目は、かれがずうっと踏みつけていたらしい、砂まみれ埃まみれぐちゃぐちゃに壊れすぎた――――赤色の、ジェリービンズをみつけてしまう。
自虐的ブレイクタイム
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