「君のことを良く聞かれる」
「・・・・・そうですか」

 うん、と答えたそのひと、声だけは穏やかなものの撒き散らす雰囲気はとげとげしいそれである。会話を成立させる気がさらさらないらしい、それっきり会話を止めたまま、睨んでいるのかと思うほど鋭い眼光でフォークを見下ろし無残な姿になったミルフィーユを無感動につついている。
 突き、崩し。崩して潰して、食さない。

「如何なものかと」

 端的にそう伝えれば、少しだけ顔を上向けたそのひとが僅かに目を細めて口角を緩める。スタンスだけでの“えがお”は決して肯定の意味を含んではいない。また手元に視線を落とし、誰かが丁寧に作り上げたのだろうミルフィーユを機械的に壊す作業に戻る。戻りやがる。
 テーブルの上に無造作に打ち上げられている彼の無愛想な黒の携帯は先ほどから静かに着信を告げるランプが点滅を繰り返しているのだがそれには目もくれず、ただ淡々と、無為に時を過ごしていた。

 それは僕もであるのだが。

 学べるものなどある訳がなく、かと言って有益な会話が出来る訳でもなく、喧騒をたのしむことさえ出来ない。彼と僕の間において、決定的に欠如している――――会話。常に黙っていることはないが、口を開けばお互いに飛び出すのはいっそ連絡にも似た無愛想な声音ばかり。淡々、とはまさに今のこのような空気を指して言うのではないだろうか。

「どう答えるんですか」

 は、嗤う。そのひとは乾いた声でちいさく、嘲笑を空気に溶かした。周りに居る花を撒き散らす恋人たち、ケーキを前にはしゃぐこども、ひとつのテーブルに五人ほど集まっている主婦たちを歯牙にもかけず、場に似つかわしくない酷薄な笑みを彼は一瞬宿した。
 そして消す。残るは柔和でひとのよさそうな。

「何を今更」

 声音は柔らかい。棘をきれいにくるりと柔らかな蜜で包んで粘着質に微笑んでいる、底ばかりが黒い声だった。
 例えばミルフィーユ。
 彼が何を重ねて居るのかは知らないけれど。

「一言でじゅうぶんさ」
「そうでしょうか」
「天才、と」
「、そうですね」

 そのひとは鈍く笑む。ミルフィーユがまた崩れた。皿の上に散らばる残骸を眺めながらふと、辺りに耳を澄ましてみれば、飛び込んでくる喧騒はどれもどろりと甘い。または温い。
 少なくとも、こんなに冷えてこんなに殺伐とした空気を撒き散らすテーブルと言うものは存在していないだろう。
 ああもう、
 また崩れた。

「ひとはそれで納得する。やっぱりかって、それが」

 それが、の先は聞こえない。それきり黙りこんでしまったそのひとの顔は、前髪に隠されてよく見えなかった。相変わらず、僕とそのひとの間を流れるものは冷えて退廃的であるのに何故だろう、僕も彼も、帰ろうとは言い出さない。
 まま、無為に時は流れる。時間は夕方に差し掛かり、晩の買出しにでも向かったのだろうか、主婦たちはいつの間にやら居なくなり。

「おれはどこへでもは行けない」

 そして静かに、彼は話し出す。いやに冷え切った声だった。

「どうしてですか」

 フォークを投げ出したそのひとが店員に声を掛けて水を継ぎ足して貰うまでたっぷりの時間を持て余し、彼が笑顔で店員のミルフィーユに対する非難気な視線をやりすごすのをきっちりと視界に納め切った所でやっと、彼は僕を真正面から見た。
 今日はじめてだったかもしれない。彼とこうして目を合わせるのは。

「おれは限界を知っているから」

 僕だって体調管理くらい出来ますよ。
 そのことばは言わないでおく。何となく、彼が言いたいのはそう言うことではない気がした。概念的な何か、距離の移動でなくもっと別の何かのニュアンスが含まれたその諦めのことばはやはり乾いて低く、かすれている。
 瞳ばかりが真っ直ぐで。やっぱりこのひとの瞳は澄んでいるなと、そればかりを考えた。

「空を飛べないことを知ったおとなは、飛行機に乗るだろう。もうばたばたと両手をはためかせたりはしない」

 おとながばたついている姿を想像してしまって少々愉快な気持ちになる。それを読み取ったんだろう、彼は苦笑気味に顔を緩めて、フォークを皿の上に投げ出す。いっそ投げ捨てるようなほどに乱雑な所作は好みではなかったけれどいつものこと、特に咎めるわけでもなく冷えたことばの先を促した。

「おれはきみがすきだよ、一応は。愛してる」
「そりゃあ、どうも」

 つい笑ってしまった。彼は一瞬目を細めただけで全く笑わなかったけれど。

「だけど、きみと一緒に行ける場所はきっとね、限られているんだ」

 ぶざまにはばたきたくはないのだと、それは無駄なのだと、彼は暗に語る。それでいい、と僕は思うから何の言及もしないまま、もうぬるくなってしまった水に口を付けた。やはり不味い。
 じゃあ僕はあなたの行ける所までしか行きません、例えばそんな慰めは、結局彼を傷つけるだけのことばだろう。思っても居ないその場しのぎのことばは軽い癖に鋭利だ。
 だからこそその場しのぎてはないことばを舌に乗せようと、思って。

「あなたのことを、僕も聞かれます」
「そう」

 彼を見やる。ちいさく、かすかに、彼は笑んでいた。答えはわかりきっているとでも言いた気な、シニカルな笑み。おれの人格をどう語るかなんてさ、ひとつしかないよ。いつだったかそう諦めた様子で言っていた。

 真正面から彼を見詰める。そのひとが僕を見返す、瞳は、いっそかなしくなるくらいに透明だった。朝凪の中の海のよう、しんと静かに冷えている。

 それでも思うんです。どこへでもは行けないんだろうけれど、ねえ、僕はあなたとなら、どこまでも行けそうだとは思うんです。
 彼はそのことを多分、知らない。

「僕は一言答える。それでじゅうぶんだから」

 わざと抑揚を消して言えば彼の視線が逃げるように横に流れたけれど、あえて追いもせず、ただ目元から視線は外さないまま、前髪に隠れがちな目尻を再確認してみた。わずかに垂れ下がっているようで居て涼しげな目元、笑うと途端印象の変わる顔。
 僕はどうなんだろう、思いながら笑ってみた。笑いたかったから笑っただけ、薄くかすかにだけれど。ちゃんと笑顔になっているだろうか。
 そしてそのまま一言ずつきちりと、発音。

「こいびと、って」

 彼が目を見開いて、数拍。沈黙が落ちる。ミルフィーユの残骸が夕日に照らされるけれど、うつくしくも何ともないただのごみ箱行きの何かだった。だと言うのにそのひとはらしくもなくじわりと赤を頬に散らし、困ったようにちいさく笑う。冷えた表情が柔らかな笑顔に塗り替えられ、途端彼は優しい誰かに成り代わる。それが面白くてつい笑みを深めてしまえば、そのひとは唇に苦い色を混ぜた。
 氷室さん、帰りはどこに寄ろうか。
 夕焼けは濃い。僕は言おうとしたことばを一度だけ舌で転がし、無意味な問いだと嚥下した。



花飾症