「溺れますよ」

 知っているよ、と。本望さ、と。笑うひとはやはりどこまでも正しい。

 空がやわらかく白んでいる。端から順に染まりあがって行くような独特のグラデーションが静かに夜明けを告げ、けれどまどろんでいるのか、まだ完全に朝とは言えない程度にはあたりは薄暗い。水平線に浮かぶ白を、転がる太陽を眺めて目を細める。日差しはまだ熱を伝えるには弱かった。

「朝ぼらけ、ですね」
「ああ・・・・そう言えばそのことば、もともとは朝おぼろ明け、と言うらしい。それと今のこんな時間のことを、彼は誰時とも呼ぶんだよ」
「黄昏時との対比でしょうか。誰そ彼、彼は誰、おもしろいですね」
「とても」

 飛沫が上がる。軽くわらいごえを上げた赤司くんがみなもを指先でなぞり、酷く、酷くやさしく笑むものだから思わず息を呑んだ。震える酸素がのたうちながら胃に落ちる。断末魔さえもないまま――――見惚れるとはまさに。
 赤司くんは太股あたりまで海水に身を浸し、時々戯れのように頭まで沈み込む。沈み、上がり、ときに咳き込みときに歓声を上げて、それを繰り返す。

 もともとは観光地だったらしい、今は寂れて地元の人間でも知らない者の居るこのちいさな海岸が、浜辺が、彼はすきだと言う。初めて連れて来られたのは確か一軍に上がって少し、僕がやっとタップパスを試合で活かせるようになって来たときくらいだっただろうか。そのときも赤司くんは珍しく機嫌がいい様子で、波打ち際をふらりふらりと彷徨っていた。
 そうして彼は沈みたがった。青のさなかに毒々しい赤を混ぜ込んで、それが楽しいのか何なのかずうっと。足首、膝、腰、胸、首、顎。どんどん沖に出て、どんどん身体を溶かして行って、最後はトプンと脳天まで。

 慌てて駆け寄った。驚いたのだ、泳げないのかとさえ思った。
 が、違った。赤司くんは慌てる僕を見て、可笑しいと逆に笑う。立てた人差し指を僕に向け、ばかだね、と。

 そう言うあそびなんだよ、と。

 一度だけ、全身びしょぬれにして何が楽しいのか、問うてみたことがあったけれど、「解らないなら解らないさ、」と煙に巻くようにして告げられただけだった。

「溺れたいんですか」

 かわりどばかりに声を掛ければ、伸びた背骨をひねって赤司くんは鈍く笑う。ゆらめく白は肌の色だろうか、それにしてはいやに冷えているように思える。

「さてね」

 ぱしゃり、と、波を打つ音がする。風は止み、あたりはいやに静かで。朝凪に溺れ沈む赤司くんはやはり、かなしいほどに美しい。筋肉を纏っている筈の背中はどうしてか薄く見え、その向こうの太陽まで透けて見えてしまいそうだった。
 希薄、なのだ。存在が。

「マジックアワーを知っているかい、テツヤ」

 写真や映画の用語だったような気がすることばだが、思い当たらない。
 浜辺からぼんやりと赤司くんをみながら首を振ればいつだったか、ばかだね、と呟いたときのような顔ををして――――ちいさなこどもをあやす母親めいた笑みを零して、赤司くんは指を立て。
 指す。
 僕の影を、指し示す。

「影がないんだ、その時間帯には」

 光源となる太陽が沈んでしまった後だから、影を作る光がそもそもないから。その時間、今とは対極の日没後の数十分間、影がないままに辺りが薄く橙に色付く。
 赤司くんはそう静かに言い、ゆらり、指先を揺らした。そんな筈があるわけがないのに影を引き剥がされた気がして足元を見下ろしたけれど、相も変わらず、僕の両足に踏みつけられたそれは黒々と砂の上に伸びていた。
 暗れ惑う。赤司くんのことばは難儀なことこの上ない。

「お前のようだね」

 光源はなく。
 だがあたりは明るい。が、影がない。

「・・・・影がないなんて、ただのばけものです」

 ちいさくちいさく、いっそ聞こえなくてもいいと思いながら呟いた。負け惜しみだったのかもしれない。
 耳聡く声を拾い上げたらしい赤司くんは目を細め、一度みなもを撫で、言った。

「違いない」

 トプリ。

 彼は頭まで水に埋めてしまう。髪の極彩を青をまねした無色に混ぜ込む。そのまま数十秒、多いときはもっとだろうか。息の続く限り、もしかしたら中でもがいているのかもしれないけれど――――長く。なるだけ長く、赤司くんは沈み続ける。
 とんだ溺れたがりだった。沈みたいだけの、彼だった。

「不思議なものだと思わないかい、テツヤ。僕たちは、胎児は確かに水の中で羊水の中で生きていたと言うのに、産まれた瞬間に息をする。誰に言われたわけでもなく腹から出たその瞬間に、酸素を吸い込むんだ。呼吸、それは、出来なければそのまま死んでしまうほどに根深く義務付けられている」

 だから、何だと言うのだろう。
 再び浮き上がった彼は数度深く呼吸をし、滑るように話し始める。瞳は揺らがず、まるで今の海のよう、波もないままにしんと静かだ。

「僕はそれが退化のような気がしてならない」
「どうしてですか」

 思わず問い返していた。そうでもしないと赤司くんが海に沈んでしまいそうで、今度こそそのまま上がってこないような気がして、何かにせきたてられるように問い掛けた。
 いつか海にかえるんだよ。
 そんな突飛なことばも、赤司くんが言うのならば信じてしまうだろう。彼ならば影がなくたってばけものなんかになる筈がない。ばけものごときが彼に張り合える筈がないとも言える、けれど。
 だからこそ、呼吸を厭うようなことばを吐く彼が怖かった。赤司くんなら呼吸を厭い嫌がったまま息を止めて、最後の最後には已めてしまうだろう。それこそ水の中、海に溺れたまま。

「海からあがった生物が、地上から海を汚し地球を壊している。だったら呼吸なんてするべきじゃなかったんだよ。海の中でずうっと暮らすべきだったんだ、違う?」

 何と返すことも出来ない。
 ただ、太股の辺りまで水につかり静かに囁きを落とす彼を、決して海にははいらない僕がみつめるだけ。

「・・・・赤司くん、そんなのはかなしい」

 彼が口を開く。言い包められることは目に見えていたから、ことばが音となる前に重ねて言った。

「僕は君の声が聞きたい。君と話がしたい。水中で話すなんて、僕にはそんな器用なこと出来ませんよ」

 マジックアワーに影はなくとも朝焼けに影は落ちるし、水中のいきものはそもそも知らない。海の青さを、それによく映える真っ赤を、美しさを知ることが出来ない。
 どちらかが退化と言うことが有るだろうか。
 そんなことがあってたまるか。

「――――・・・違いない」

 みなもが揺れる。風が出てきたようだ。
 赤司くんもゆらりゆらりと身体を揺らし、垂らしていた指先で軽く海をくすぐった。そんな彼は誰と問われても、呼吸をするいきもの、どうしようもなく赤司征十郎だと答える他ないだろう。



徒花の花弁は未だ青く