知りたくは無かったいくつかのこと
教卓に腰を預け、何をするでもなくぼんやりと中空を見上げていたさつきがあかしくん、と僕の名前を呼んだ。否、呼んだ訳では無いのかもしれない。反芻するようなそれは、独り言と言ってしまっても構わないほどに呆然とした響きを織り込んでいたから。
「・・・・さつき、僕たちはね。もうチームにはなりえないんだよ」
どうして。
彼女はそうは言わなかった。
俯き、くちびるを噛んでクリップボードを握りこむ。白の制服に滲む夕焼けの橙、胸に流れる桃の髪、何年も一緒に居たはずなのに初めて帝光の制服が彼女にとても似合っていたことに気付く。
「もう、終わってるんだ」
グラウンドから上がる歓声は、野球部のものだろうか。
意に介することもなく、たださつきはちいさく微笑んだ。
「知って、ますよお」
シニカリスト
半年はあっけなく過ぎる。それこそ、光よりも速かったのかもしれない。ひゅうん、音がしたと思ったときにはもう、てのひらのなかには何も残っていなかった。
何かを望んだ訳では無いし、望んだから与えられると傲慢に信じたわけでもない。ただ一緒に、共に、コートの上に。――――ああでもそれこそがいつからか、渇望にすりかわっていたのかもしれなかった。目的と手段がごちゃまぜになって、僕は一体誰にどれだけの傷を刻んだのか。俯きながら退部届けを突き出した彼。屋上で、何をするでもなく何も出来なくなってしまった彼。
そうしてひずみが生んだのはそのふたりだけでは無かった。気付かなかったけれど、そうなんだろう。
気付いた頃には手遅れだった、とは、笑えないにも程が有る。
けれどつらさだけは遠く。だって誰も居ない季節を泳ぐ僕の腕は、泳ぎきれるほどには強靭らしい。
「ああ、勝たなければ、」
あなた≧ほか
「赤ちーん。ねえ、あっかちーん」
振り返ってくれない背中は微動だにせず、奇麗に伸びたまま。椅子に腰掛けている赤ちんは真っ直ぐに黒板をみつめ、うしろからちょっかいをかけてみても全く反応しない。さみしい。
「あかしさーん?」
揺らがない。
黒板に次々と増えていく、なにあれ一次関数?だっけ?意味のわからない公式たちをきっと背筋とおなじく奇麗な字で書きとめているに違いない、手元に視線をおとした赤ちんはたまに消しゴムをとったりシャーペンをノックするだけであとはずうっとノートと黒板のあいだで世界を完成させちゃっている。
「遊んで赤ちんー」
確かに授業中です。
確かに赤ちん真面目です。あたまいいです。
でも遊んでくれたっていいじゃん。暇。さみしいむなしい勉強きらいわかんない。
「ねーチューペットのおもしろい味みつけたんだよー赤ちーん」
鬱陶しそうに赤ちんが首をかすかに傾げた。さらり、とながれる襟足と薄っすらと汗の浮く首裏をぼんやりながめながら机にからだをなげだした。窓際の席なんて冷房が効いても効いてなくてもたいした温度の違いはない。ほんとう、あっつい。
おとこにしてはばさばさ長い髪の毛もそろそろめんどうなだけの時期になってきた。
「赤ちーんオレ、峰ちんくらいに髪切ろうとおもうんだけど」
「・・・・ふ、」
考えるように1拍間を置いて、“峰ちんくらいに髪短くなったオレ”を想像したらしい赤ちんが失礼なことに軽く吹き出す。そのくせ、なんてことないようにまた黒板と愛しあっちゃって、あんなみどりよりオレの方がかっこういいって話だし。
ただ、わずかでも反応があることに全力で気をよくしたオレは机に貼りつけていた上半身をひきおこしてふたたびアプローチをしかけはじめる。うざったそうにゆらゆら揺れる華奢な背中をつついてみたり、肩にかるく手刀いれてみたりとやれることはなんでもやってみる。反応があるかないか、よりも正直、オレ自身で楽しみ始めていたり。
しはじめたころ。
「あつし」
小声でちいさく、赤ちんがオレを呼んだ。何でだろう、とおもった瞬間、チャイムと共にけたたましいとさえ感じるくらい、暴力的な椅子を蹴倒す音がなりひびく。
頭上。赤ちんはにっこり、満面の笑顔。どうやらものすごく、おこらせたようだ。
「わーい、赤ちん遊ぼうー」
「・・・・・・ふざけるのも、」
時と場合をわきまえろ、とか難しいことば。赤ちんが荒っぽい怒声をあげる。そんなことよりも構われちゃってうれしいオレは、わめきながら大暴れする身体を抱えこんで学食へと足をすすめるわけだ。昼休みさいこう。赤ちんとたべるごはんの時間の有意義さは授業中さえ凌駕する。
もしものいつか
例えば僕がもっと取るに足らない人間で。
例えば僕がもっと才能を落として産まれたのなら。
きっと僕は彼らと共に立っていなかっただろうし、僕と言う人間は全くの別人格になっていたに違い無い。
けれどそれでも、もしかしたらだからこそ。違う人間に産まれてみたかった。と、そう、思うのは。結局はただの無いものねだりなんだろう。
今日もただ勝利を貪る。取り上げられるそのときまで、たらふく食べて蓄えて、その瞬間の為に肥え太り。けれど僕が僕で無くなる、負けると言うごくありふれたありえないことを手に入れたそのとき。
僕は何になるのだろう。僕はそうなってなお、生きていると言えるのだろうか。
きみがかなしいとわたしがうれしい
「赤ちんなにがかなしいのー?」
風が、色が付いていないのが不思議になるほどに質量を持った風が赤ちんのまっかっかの髪の毛をさらう。そのまま赤ちんごとつれてかれんじゃないだろうか、むしろあの細っこい背骨は折れてしまうんじゃないだろうか、思って、つい縋るように手を伸ばしてしまう。
赤ちんはくるりと身体を反転させた。
からっぽの手を見下ろして独りごちる、「逃げられた」。
「かなしい?僕にかなしいことなんてないけどな」
嘘。奇麗なはなびらばっかり散らした嘘。赤ちんがちいさなくちから吐き続けるのはいつも嘘。
しかもそれは、防衛は防衛でもオレたちをまもるための嘘。くるっと包んで、見なくて良いよこれだけ見ておけば良いよ、そうやって甘やかす嘘。
嘘ばっか!赤ちんは嘘ばっか!奇麗な奇麗なはなびらばっかり食べて、吐いて、食道が焼ききれちゃうよ。胃の底に穴があいてしまうよ。
「かなしそうだよ」
首を傾げてみせる。
無垢と騙り、赤ちんの顔を覗くため。
でも、顔を背けてしまった彼の表情はじょうずに伺えない・・・よく、見えない。
「かなしくなんか、ない」
「かなしいよ」
緩やかにひらかれているオレのてのひらはいつだって赤ちんの頭をなでてあげられる。まもらない胸はいつだって赤ちんをとじこめられる。おいでって、全身で見せるのに、彼はいつもみないふり。
いつだっていつだって目をそらして、本当にオレを見ているの赤ちん。
「オレが、かなしい」
ようやっとオレを見た赤ちんは、目を見開いて、色素がころっと落っこちちゃいそうなくらいに目を見開いて、あつし、とオレを呼ぶ。何、ぶすくれながら答えると、苦笑気味に顔を緩めた赤ちんのてがオレの目尻をなぞった。
「敦は、馬鹿だね」
あーオレ泣いてんだあ。
彼のさかなみたいに泳ぐ指先を眺めながら思う。さかなに与えられたしずくを眺めて思う。
「ばかだね」
腹が立つから、酸素ばっかり吐き出す声の甘さが敗北宣言に聞こえたなんて、一生、言ってあげないまま。オレは赤ちんにむかって、腕をぐうんと伸ばすだけ。
五十歩零歩
わからないくらいなら知らないほうがよかった、と、僕は言う。
しらないくらいならわからないほうがまだマシ、と、青は語る。
笑みに織り交ぜたつよがりを見抜いているはずの青色は高く、遠く、澄み切って、空にも海にもなってみせると騙るのだ。
手を伸ばせば引きずりあげてくれることは承知の上だった。けれど、それこそ、知っているだけ。何故引き上げてくれるのか?何故体温を僕に与える?何も理解できなくて。
皮肉だ。真夏の空は今日も青い。碧空と、そう言ったか。
まばたきをする魚
なかないで。
泣きそうな声で、それは言う。繰り返し繰り返し、もう、どちらが泣き出しそうなのかも解らないくらいに、ひきつれた声で繰り返し。
表情は歪んで。
声も震えて、赤司っちは。おれの肩に両手を置いて、軽く揺さぶりながら何度も、言う。泣くな。お願いだから。
なかないで、頼むから。
揺れる対極がおれを見る。染め上げられた瞳は鮮やかで、左右非対称のコントラストが色彩まみれのまま胸を打った。
だと言うのに、呆けたままぼんやりと歪む顔だけ見上げ続けるおれはねじでもどこかに落っことして来ちゃったのかな、揺さぶられるたびに思考が鈍っていく。それこそ掻き混ぜられていく。吐き出した息すべてが、ごぼり、水中で漏らした酸素のような音を立てている気がして。
耳をふさいだ。
涼太。聞け、りょうた。お願い。
ごぼり、音がする。鈍い泡の音。膜一枚隔てた向こう側にすべての音が落ちていく。
そしてそれは、落ちたさきから腐敗して、残骸にすらなりきれないんだろう。失笑。安易についてしまう予想だ。
いつまで落ち込んでんだよ。
投げ出した足、太股を靴底が滑った。そのままぐりといささか乱暴に、いっそ踏み抜きたいと言わんばかりの強さが込められた脚が数度揺れる。骨が軋み、いちばん痛いところを的確に押される。
否応無く明確になっていく思考に抗うようにして頭を振った。いたい、やめて、うわごとめいてゆるんだ声でそう言ってもちからは緩まない。
冷えた声が、けれど崩れかけの不安定な声が、駄々っ子めいた響きを持って嫌だと呟いただけ。
落ちているのか、浮いているのか、それさえもよく解らなかった。
目の前を埋める色とりどりが、何色なのかも判別が出来ない。極彩。ただただ原色。それだけで。
なのに、鮮やかから吐かれることばばかりが透明だった。
負けたから何。出来ないから何。お前は、バスケを始めたばっかりだろ。パスミスってったって、涼太、テツヤがサポートに回っただろ、そして結果勝てたんだ。それで良いだろう。
「だって涼太!」
酷く簡単に引きずり上げられた。
やっぱり呆けたまま非対象の目を覗いて、軽く叩かれた頬の鈍い熱を噛み締める。眉が寄る、口角がじょうずに上がらないまま表情筋が機能しない。なんにもなれなかった顔をぺったり貼り付けたまま赤司っちを見上げれば。
ぐしゃり、と彼の顔が歪む。
「失敗が何だよ、必要なんだよ」
おれはまだ泣いていないのに。
泣かないで、と繰り返すそのひと今にも泣き出しそうなの濡れた声を聞きながら、鮮やかな色が赤だとふと、思い出す。
君抜きで考えることが多くなる
カレンダーに予定を書き込む。忘れやすいならそうしろ、いつか言われて、それから癖にしていることだった。太い黒のマジックで書かれるおれの字は我ながらめちゃくちゃに汚くて、一日に収まりきらないほど黒ははみ出た。
けれど現実だってそんなもんだろう、と勝手に納得する。明日に繰り越さない昨日があるわけがなく。引きずらない過去があるわけがない。
厚紙をめくっていけば、まだ来ていない秋やら冬やら新年やらが踊っている。月ごとに変わるファンシーなデザインを眺めながらふと、本当にふと、目に留まったサンタクロース。
赤い油性のマジックに持ち替えてキャップを抜けば、つん、と鼻を突くシンナーのにおい。誰も居ない、いっそおれさえ曖昧な部屋でそのにおいばかりが鮮烈で、においを受け取るおれの鼻、ひいてはからだは今も生きていると実感した。そんなことで、と誰かは言うかもしれないけれど、そんなことで確立されるくらいの存在なんだよ、おれは。
乱暴に丸を描いた。
閉じ込めるように円を作った。
赤で囲んだその日は、おれにいろんなことを教えてくれたそのひとの、大事な日。彼自身がそう思って居なくても、おれにとっては彼が産まれてくれた大事な日で。
「ハッピーバースデー」
きっと面と向かってはもう言わないだろうから。
ことばが何ヶ月先まで繰り越されて彼に届く、そんなばかみたいなことを願いながらちいさく呟き、デフォルメされた十二月の文字に額を擦り付けた。
こうやって、自分で焼き付けていく癖に。忘れないようにと描く癖に。
カレンダーに踊る黒の予定に、今日も彼の名前は見当たらない。
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