「ここからもし、飛び降りたとしようぜ」

 ぐだり、背中に陽射しをめいっぱい背負って、いまにも潰されそうにそこらの木の幹に額を突っ込んでいた降旗くんはふと思いついたように沸いたこえをあげ、ちらり、と僕をふりかえる。僕はといえば手ごろなビルの影に全身を突っ込み避暑をきめこんでいたところで、キスをしていたアイスからくちびるを離して首をかしげる。どうしたんだい降旗くん。

 暑いのならば日陰にはいればいいのに、がんとして日向から剥がれない降旗くん、ひとは彼を変人と二文字で評するのだろう。
 きらいじゃないけど。すきでも、いや、すきかな。

「いっておくけど、投身自殺は地面にぶつかるまでに気絶するから苦痛はない――――なんて迷信だからね」
「青をさ」
「聞いてないね、降旗くん」
「青をさあ、およげるのかなあ」

 空、でなく。青、と言う。とぶ、でなく、およぐ、と言う。降旗くんのそういうことばの選び方がすきだ。ありふれた男の声なのに、どうしてか柔らかく耳を撫でるトーンもすきだ。

 フェンスに向き合ったまま、ばさり、はねでも広げるような動作で両手を開いた降旗くんは空を、青を仰いで意味も無く何かを喚く。あついといっているような気もしたし、すきだといってくれていたような気もした。
 ばさり、はばたくのだろうか。およぎだすのだろうか。着いて行きたいわけもなく、ああでも眺めては、いたいな。

「空をとぶけんきゅうはさあ、するのに。なあんでおよぐけんきゅうって、しないのさー」
「じゃあ僕はあそこの入道雲でバタフライとしゃれこもうかな」
「・・・・ふふ。じゃあおれは、あの飛行機と自由泳法でしょうぶしちゃうぜ」
「かっこう、いー。応援するよ」
「旗にはなんてかく」
「降参」
「白旗ふっちゃった!」

 あははははっ。

 何て軽くわらうひとなんだろう。そのまま、ふわって浮いちゃって、ふわふわ、いやばたばたかな、それこそおよいでいってしまいそうだ。雲抱えて、ビート板がわりにして、ばたばたばたばた。それともおよぎは得意なんだろうか。
 赤司くんおいでよ。
 いうかな。

 うん、いうだろうな。ばかみたいに大口あけて、何がたのしいんだろ、げらげらわらいながら。

「およぎてーなー」
「どこまで」
「えっ」
「どこまで、およぐの」

 どこだろう。やっと振りかえった降旗くんは、困ったように眉を寄せて僕に向かってまたわらう。へらりとひとつ、軽々笑みをはたきこぼす。
 手招かれるままに日向へと爪先を突っ込んだ僕は、糸でもつけられたみたいにふらふら寄ってって、ふりはたくん、息継ぎみたいな自然さでなまえをよびながら彼の襟首を掴んだ。前なら喚きながら怯えてたのに、今はどうしたの、なんていえるくらいのよゆうくんだよ、結構なみぶんになったもんだ。

 どうしたの、だってさ、聞いたかよおい。

「赤司くん?」

 どうにかなっちゃいそうだぜど畜生。

「青よりも夕焼けをおよぎたいな、僕は」
「じょうちょてきだー」
「意味わかってんの」
「まさかさか」
「あはははは!」
「あっ、わらうなってば」

 いう降旗くんの口角もゆるみきっていて、目なんか奇麗なみかづきのかたち。そういう目らしい。僕の目は笑ってもあんまり目頭の上がらないぶあいそうなことこの上ないつくりだから、正直ちょっとうらやましい。
 ただ、降旗くんがわらうからこそうらやましいんだろうなとは、思う。

 ぶわっ、ぶわっ、目の前におそってくるのは、何色なんだろうな。立ち上がる世界は、何の言語が通じるのかな。

「降旗くん、空はね、青いんだよ」
「知ってるよー」
「夕焼けは、橙で」
「うん」
「きみはまあ、まあ何色でもいいや」
「だろうねえ」
「降旗くん」

 日差しがじりじりと。湿気がむしむしと。頬を伝う汗は温度を落とさず。
 猫目っていうんだろうか。つりぎみの、瞳孔の縦に長細いひとみが静かに僕をみつめていた。息継ぎ、しなくてもいいじゃんって。殺す気かよ、こいつ。

「髪結んでよ」
「あー・・・前髪、伸びたもんなあ」

 いともたやすく僕に触れ、いともたやすく前髪をかきあげてきて、いともたやすく目を真正面から覗き込んできた降旗くん。僕よりもちいさいくせに。
 それで目を閉じる僕も、相当、あれだ。夏に沸かされてる。髪の根元に篭る熱気が鬱陶しい。
 どうにかこうにか、逃げないものかな、無理かな。

「赤司くん、おれね、青をおよぐならね」
「うん?」
「あんただけ連れてとんでくことにする。誰にも見せたげないんだ」
「おおっぴらな監禁宣言なの、それ。はは」
「どうだろね」

 瞼の上、指が滑る。潰されたら、(ふりはたくんがそんなこと、まちがえたってするわけはないんだけど)(いや。やるかも。あっ、とかいいながら)、潰されても、まあいいんだろうな、僕はさ。どうってことないんだろう、彼にされるすべてが。
 どうでもいいんじゃない、どうってことない。ここの違いは大きい。それ、降旗くん、知ってんの。

 それとも知らないくせにそうやって、がしゃがしゃ僕の前髪かき回してんのむかつくな。
 かきまわしてやろうかな。思う。降旗くんの胸をかきまわしてやろうかって、いや、精神的に。物理的にはさすがにもう無理だ。前は出来たか?ノーコメント。

「降旗くん、僕はね」
「ん、どった?」
「およげないよ。とっくに、とっくにさあコノヤロウ」

 喉仏を親指で軽くつぶす。通りすがりのだれかさんがちらりとみてきたけど、また歩いていってしまった。これが殺人事件だとしたらだれかさんが見捨てたかたちになるというのに。
 そう言えば。
 てのひらのなかのアイス棒を見下ろす。勿体ない、とっくに溶けきってしまっていた。

「おまえにね、おぼれてるっていうらしいんだよ、今の僕は。腹が立つね。青なんかおよいでる暇があったら、さっさとおまえの中で息継ぎの方法を見つけないといけないわけだ」
「・・・・ねえ、赤司くん」
「なんだい」
「一応聞くけど、浮き上がるって選択肢、ないの」
「そのときはおまえも一緒に陸に引き上げてやるから覚悟しといて。だいじょうぶ、しっかりえら呼吸になるようにしといたげるから」
「酷いね」
「は、どっちが」

 ここからもし、飛び降りたとしよう。平面を指差しわらった降旗くん。
 飛び降りたとしてもさ、気絶しなくてもさ、降旗くん。下でおまえがわらってるなら別にいいよって思ってること、おまえ自身は知ってるのかな。
 知ってるんだろうな。

「ねえ降旗くん、どっちかあげるよ。酸素と僕だったらどっちが欲しい?」

 首に指を回されながら静かに思考を始めた彼は、けれど、数秒と立たずににこりとわらう。にこり、今度は重いえがお。
 ゆっくり、道の真ん中なんてこと忘れてるのか、ゆっくりと降旗くんは僕に顔を寄せる。

 どっちも。

 夏みたいに、湿気ばっかり熱気ばっかり、暴力的にあつい声が耳朶を打った――――なあビルに逃げ込ませてくれよ、降旗くん。
 じょうずなおよぎかた、僕は知らないからせめて突き落とさないでよ、降旗くん。

「欲張り」

 知ってる。って、彼はいうだろう。



夏のはて