首の裏を焼く熱、瞼に突き刺さる熱は昨日までと何ら変わりはないと言うのにどうしてだろう、色やにおいや質量を変えたように思えてついちいさく喘ぐような調子で、ああ、と零した。意味さえなしていない音、二文字。または二音。ああ、――――後に続くことばさえ知らないまま、無為に落とされるのだ。

 夏は未だ色濃い。湿気を絡ませ織り込んだ熱気は深く、眼裏に痛みさえ呼ぶアスファルトの照り返しは太陽の熱は今年も変わらず暴力的に降り注ぐ。軽く握りこんでいるだけの指の間にも熱が溜まり、こめかみを伝った汗は塩気さえ味わう暇もないままに顎からばたり、地に伏せる。
 背に張り付くシャツはもう冷たかった。汗は流れ続け、服の内側に篭るのは体温だが、水分を含ませ続けた背の繊維はもう温度を下げている。だが、しさは感じない。ただただ鬱陶しく絡み付いてくるだけの、重く邪魔なだけの何かだった。

 秋にはやけに、向かっている気がするのはどうしてだろう。長い休み、例えばゴールデンウィーク、例えば冬休み、それらには感じない焦燥が夏には有る。

 夏休み、大きくとられたその期間の中僕は、徹底的に他者との関係を断絶する。メールはするが電話はしない。部活では顔を合わせるがそれ以外では一切逢わない。単に億劫なのだ、話し、誰かに合わせると言う行為が。だからこそ一ヶ月と少し、偽った僕総てを剥いで根こそぎ削ぎ落とすその空間が、すきだった。
 なのに、夏休みの終わりはいつも焦る。誰と逢いたいわけでもなく、花火大会だ何だと思い出を作ることに躍起になることさえ嫌悪するというのに、最終日だけはいつも。来年もまたあるじゃないか、誰かは笑ったけれど。

 焦燥が募る。毎年、何かやり残したことがあるような気ばかりに追い立てられ、飛び出すようにして家を出る。ろくに髪を整えることもなく、荷物はおろか財布さえ持たずに自転車に跨り、――――何もしないまま、走る。毎年だ。我ながらばかみたいだと思う、いっそ癖にもなっている僕の最終スタイルだった。

 むせ返るような夏のにおいが満ちているのに、僕に襲うのは終わりだ。だからこそ、かもしれない。はじまりにも終わりにもしり込みしてしまうからこそ、夏休み、なんて学生なら手を叩いて喜ぶような解放も、無感動に受け入れるのかもしれない。
 矛盾だ。持て余すように過ごしながら、終わりだけは、惜しむ。そんなものだといわれてしまえばそれまでの焦り。

 汗が、煩わしい。

 ペダルを踏み込めば、ぐん、と脇を流れていく景色たち。電車内を疑似体験したがるような、出せる限りのトップスピードで過ぎていく通学路。息が上がってくる。体中が心臓になったようなとはよく言ったものだ、耳元でばくばくと心拍の音がする。
 見上げた空が余りにも高くて、余りにも青くて、思わず目を逸らした。否応もなく、今日も夏だ。
 やり残したことは沢山有る。ただ、残したそれは誰かに食べられたのか棄てられたのかもう、なくなってしまっているだけ。しいて言い換えるのならばやり落としてきたような、そんな後悔が足跡のように、僕のかかとから尾を引くのだ。

 ペダルを踏み込む。息が上がる。眼球が洗われそうなほどの向かい風。
 念じた。外れろ。何度も飽きるほど繰り返す。邪魔だよ、どっか行けよ。景色が流れ落ちていく、色彩すらモノトーンに色付いて。
 暑い。

 去年だったか。真太郎が言っていた。曇天、そう、息のつまるような湿気の立ち込めた雨の気配の漂う日。夏休みの半ば、確か僕が、我ながら珍しくも約束を取り付けたのだった。
 つきのめぐりが八月に踏み込んだころ、早くも僕に忍び寄り始めた焦燥を真太郎に吐き出した僕に、真太郎は言ったのだ。

『ならば捜せ』

 至極当然と言った調子で。学校で、休み中の部活で顔を合わせるときと何ら変わらない、どこかしらけたような澄ました顔で眼鏡のフレームを引き上げて、冷めた目で僕をちらりと見遣り。
 ことり、純真無垢にも首を傾げた。

『やり残したことがある気がするのならば捜せば良い。何かと思えばそんなこと。赤司、お前はわからないからと簡単に思考を停止するようなばかだったか』

 軽口の延長なのだろう。声は割れず、語尾も張らず、ただ緩やかに柔らかに垂れ流すような調子で言われたことばに、なあ真太郎、いっそ瞼が鱗になってしまいそうなほどに、僕が驚いたのをお前は知っているのかな。
 そんな真太郎ももしかしたら、何かを見失ってしまったのかもしれないけれど。

 勝つ理由がわからない、淡々と機械的に3Pを決めていたいつもと変わらない練習試合の終わり、ブザービートの音に紛れて零された問いに似た呟きを拾った。今年の春のことだった。ぼんやりと、大差のついたスコアボードを眺めながら、脇に垂らした両手を僅かに揺らしてことり、と首を傾げていた。本当につい、この前のことなのに。
 どうして。どうして、勝負にさえならないのか。そんな声が聞こえた気がしたが――――最近の彼にそんな葛藤はもう、見えない。勝つから、勝つ。楽しいからバスケをする、そんな簡単な回路がどうやらショートしたらしい。
 最初にそこがいかれたのは、多分、僕なのだが。

「ッは」

 漕ぐたびに吐く息が荒れる。今どこを走っているのかがいまいち掴み切れない。家の周りをぐるぐると回り続けていたような気もするし、ともすれば遠く世界の果てまで走って行っているような、途方もない感覚にも襲われる。
 どこに居るんだろう。
 僕は、どこに。

 来年はどこに行こう。涼太が言い出した雑談にも満たない稚拙な会話のさなか、笑みを織り交ぜながら決めた先はどこだった、っけ。とうに忘れてしまった口約束だ。

 明日になれば着慣れた制服を校則そのままに身に纏い、少しでも汗の量を減らそうと日向を避けながら影を縫い、僅かに冷気の漂う教室に飛び込んでど真ん中の席に腰掛ける。きっと雪崩れ込んでくるのだろう敦の乱れた服装を注意して、未だ家でだらりと無駄に時間を消耗しているのだろう大輝の携帯にかたちばかりのメールを送る。そしてテツヤの教室に行き、無人の席に一応部活の予定を書き連ねてあるプリントをねじ込む。
 そこで、予鈴が鳴るだろう。担任が入ってきて、締まりきらない声で点呼を取って、体育館に行って。どんなばかでも出来るありふれた学校生活がまた、当然と言う顔をしてなめらかに始まるだけ。

 どうして僕は、それを受け入れ切れていないんだろう。宿題も終わった、明日の準備も整えた、明日が始業式だとちゃんと確認した。やり残したことなんかあるはずもない。
 なのに何故、残していると思うのだろう。何かをしなければいけない気がして、意味もなく家を飛び出してしまうのだろう。

「ああ、」

 意味もない音がが漏れる。なのに続いたのは意味の有る、

「あいたい」

 誰にだろう。解らない。何に突き動かされているのか、目的地もないまま漕ぎ続ける自転車のペダルはくるくると良く回る。とっくに消えた、見つかりもしない何かを探し続ける僕を滑稽だと笑う夏は、きっと来年も変わることのない夏としてやってくるのだろう。
 そのときの僕はどうなんだろうか。高校一年生になった僕は、何を思って、夏の焦燥をやり過ごすのだろう。もしかしたらもう、焦燥感に苛なまれることさえなくなっているのかもしれない。予感よりも、実感として。そう思う。

 誰にも逢いたくないと閉じこもった終わりの日だけどうしようもなく誰かに逢いたくてたまらなくなる、なんて毒の効いた皮肉だろうか。
 ペダルを漕げば、景色が流れる。拾うことはもう困難だ。焦燥は解消されることなく降り積もる。いやに眠気が身体を満たし、体内時計が随分と狂ったことを告げる。

「さ、がしても、ないときは、真太郎」

 ばくばく、耳で鳴るのは、果たして本当に僕の心臓の音だろうか。喉を張り、上向けられた視界は疲労からかぶれ始めている。少々、酷使しすぎかもしれない。せめて走ればよかった。
 でも走っても、行く場所なんてない。だったら、手段なんてものは何でも良いかもしれない。

「どうすればいい、かな」

 目尻から眼球に染み込んだ汗が鈍い痛みを呼んだ。火照った頬は未だに汗を製造し続けて、毛先から外れて飛んで行く。帰ったらシャワーでも浴びたほうがいいかな。
 焦燥。秋にはどうにも、流されて追い立てられて飛び込むような気がしている。それを真似しているのか、マーブルに色付いた景色がひとみのふちに引っかかっては流れていく。

 見つからないのだ。耳元で聞こえたいつかの笑い声は、とっくに去った夏に置いて来てしまった後なのだ。



置き去り誰だ