※似非シリアス




「赤司くん、きみが思っているよりもぼくはくだらないですよ」

 ちいさく自虐的な呟きが耳をくすぐった。ちらと目だけで振り返れば、本でくちもとを隠したテツヤが感情の読み取りづらい平らなひとみで僕をみている。夏空よりも気怠げな、空は空でも秋や冬の無愛想ないろを閉じ込めたテツヤの生命力に乏しい目が淡々と、観察にも似た視線をぼくに寄越してわらっていた。恐らく、だ。僅かに上がった目尻から推測しただけで、彼が今本当にほほえんでいるのかは本の向こうに隠れてしまっているのでわからないけれど。
 セルフかくれんぼです。冗談とも本気とも付かない声の軽さで言いながら、テツヤは意味も無く分厚い本のタイトルを順に読み上げていく。

「若きウェルテルの悩み、・・・おや、ゲーテですか。渋いですね。すきなことばでもあるんですか?」

 つと、突っかかるようにそこでことばをとめ、戯れのように掛けられた問い。数秒考え込み、すぐに答えた。

「・・・・“君は本気で生きてるかい?”」
「すきそうですね、赤司くんらしいです」

 わざと問い掛けるように首をかしげてみたけれど、はぐらかすように本の表紙で僕とテツヤとの間を仕切った彼は誤魔化しのことばを吐き、本棚の向こうに行こうとする。その前に、と、頭に過ぎったそのままの文字の羅列を背中に掛けてみた。

「お前は何かあるか、テツヤ」

 当り。
 ゆっくりと振り返ったテツヤは目を細め、そうですね、未だに本でくちを隠し篭ったようになってしまった声のまま、数秒。

「ゲーテではありませんが――――“才能を一つ多く持っていることのほうが、才能が一つ少ないよりも危険である”、ニイチェです」
「うん?皮肉か」
「ええまあ。いえ、ニイチェは純粋にすきですが」

 本の背表紙に額をつけるようにして、僅かにくちもとから本を離し、テツヤは今度こそくすりとちいさく笑みを零した。テツヤが吐き出したことばを口内で転がしながら、僕も応えるように軽く笑む。
 この市営図書館の管轄をも請け負っているらしい中学時代の国語教師にちらりと視線を流したテツヤは、でも何を思うことも無かったらしくまた、背表紙に描かれたタイトルを読み上げる作業に戻る。それだって何かをしたいわけではないのだろう、いっそ垂れ流すように淡々とした声で、静かに、他の利用者に配慮してのことだろうちいさな声で読み続けている。
 うたうような調子だった。歌うこと自体はすきではないらしいが。

「何をしているんだ、さっきから」
「さて。何でしょう」
「謎々をしたいわけではないんだけどね、僕は」
「そこはオーケイです、ぼくもですから」
「・・・・、疲れているのかテツヤ?珍しいね、いつも以上に突っ掛かって来る」

 そうで、ふつりと途切れたことば。そうですかね、また疑問のかたちに纏めようとしたことに自分自身で気がついたのだろう、少しだけばつが悪そうに視線を泳がせ、今は鼻まで隠すようにかざしてあった本で顔ぜんぶを覆ってしまう。
 本の向こうにものの見事に沈み込んでしまったテツヤは、そのままもごもごと、篭った音のまま語る。

「そうできた人間ではないんです、すみません」
「――――不機嫌だ、と。ふうんそれこそ、珍しい」
「割といつも不機嫌全開ですよ、僕は」
「端的に話すお前にしてはいつ以来だろう、今日は良く話すし」
「案外、お喋りな性分でして」
「言い訳もすきじゃあないだろう?」
「・・・・おや、敵わない」

 わざとらしく声音に驚きを混ぜたテツヤはそこでやっと本を取り去り、らしくないことには気付いているのだろう、苦笑気味に軽く眼を細めて僕を見遣る。

 脇に垂らした指先に、覆面代わりに使っていた丁寧な細工のされた皮の表紙、およそ中学校の図書室、なんて場面には似つかわしくない広辞苑の三分の二ほどの厚さのそれを引っ掛けて、これだけ見てろとでも言わんばかりにぶらりぶらり、おおげさに揺すっている。無為に繰り返される行為はこどもの地団駄や貧乏揺すりにも似ていた。

「ぼくは天才じゃあ有りません、ジェネラリストではなく、かと言ってスペシャリストを自負できるほど極められた自信はありません」
「謙虚だ」
「揶揄さないでください、赤司くん。真実でしょう。あなたは自分に従わない人間は勿論のこと、才能の持ち合わせていない人間は切り捨てるでしょう。侮蔑をふんだんに盛り込んで」
「反論をさせていただくならば、切り捨てはしない。切り捨てなければならないほどに付けてやらないだけかもしれないけどね」
「・・・・ぼくは、果たして切られるほどに近く在るのですか」
「さてね」

 わざと、謎掛けのかたちをとる。やっぱりと言うか、顔をしかめたテツヤは嫌がるように首を振って、わざとらしい溜息を吐く。

 そうして、本をとっくに本棚の中に閉じ込めてからっぽになった両手を僕の目の前に晒して、笑った。男相手に、艶やかだとか儚げだとかくだらないことは思わない。ただ、そうだな。すぐに掻き消えてしまいそうな、どこまでも希薄な笑みだった。
 両手を差し出したそのポーズは、拘束を望んでいるようにも降参のポーズのようにも見える。
 真っ白の、それでも傷ひとつ無いとは言いがたいてのひらを見下ろしながら戯れのように一言。

「お前、本気で生きてるか?」
「今この瞬間だけならば」
「興醒めするだろう、そんな答え」
「だから、言った筈ですよくだらないって」

 期待なんて、しないでくださいね。最後とばかりに落とされたことばの先は、やはりと言うか続かない。そのまま目当ての本を探す作業に戻ってしまったテツヤのうなじを眺めながら、くだらない、反芻する。
 何も無い、そうやって開かれた白をふと、瞼の裏に立ち上げる。噛み締められた唇を隠すようにかざされていた紙の壁。

「テツヤ、そう言うけどね」

 僅かに、眼球を転がすだけで振り返ったテツヤの視線が僕を捕らえる。真似をするように僕も上向けたてのひらを晒して、差し出した。
 才能のひとつ多いらしい僕。ひとつ、いや自虐的な声はそれ以上を含んだ声で自分を捕らえていたけれど――――彼。差が、隔たりだとは思わない。才能が総ての言い訳になるとは思えない。あるとない、隔絶されたこのふたつのただの片方であるというだけで、危険だと言い捨てられるだろうか。

 どうせ僕には解らない。だから僕は晒したまま、いっそ空洞かと思えるほどに淡々と凪いでいるテツヤの瞳を覗き込む。なるだけふかく。それでも諦めを含んだ目は、やはりと言うか揺らぎもしなかった。

「くだらないものがぜんぶ価値を持たないのかい?」

 テツヤは答えを濁さない。有りません、言い切った声は冷えていた。それでも、と、乞うような響きで続けられた声は、どこまでも。

「赤司くん、それでも僕は思うんです。奇麗ごとでもいいんです」
「くだらない、」
「・・・・ことなんて無いって。価値こそなくても、くだらなくはないと。信じたいんでしょうね、恐らく」
「は、達観してるね」
「そうでしょうか」

 そうなんでしょうか。

「そうだよ。それにね、訂正させて頂くならば。僕は価値のあることに拘った覚えは無いし、くだらないからと言って受け入れなかったこともないよ。あるなしに関わらず」

 一歩、距離を詰める。本棚に半身を預けていたテツヤは驚いたように肩を跳ねさせたけれど、逃げることも無く静かに僕を見返して来る。相変わらず静かなひとみだと思いながら、棘も無い視線を受け取った。
 純粋に疑問なのだろう。探るような色をした、目。けれどその色はすぐにぬるく解けて、綻ぶ。なあんだ、そんな声が聞こえた気がした。

「素直じゃないですね、赤司くん。いやでも、その素直じゃなさがあるからこそ、僕自身で気付くことができたのかな」
「え、何を」
「ねえ赤司くん。君のことばは要約すると――――つまりね、何がなくとも、何であっても、お前達がだいすきなんだよって、そう言ったんですよ、赤司くん」
「っ曲解だ」
「そうでしょうか」

 そうなんでしょうか。
 先ほどとは打って変わって、上機嫌になり弾んだ声で繰り出された疑問文をどうする事も出来ないまま、とりあえず、知る。
 目の前が傾く。ぐらり。気が遠くなりそうだ。

「謀ったな・・・・・!」
「おやおや赤司くん、言ったことは総て真実ですよ?ですが否定はしませんとも」

 僕は何か、しかもテツヤ達に都合の良いとんでもないことを言わされたらしい。ああもう、さっきまでのシリアスはどこに行った心底から要求する。



Q. E. D.