※他のもの以上に訳が解らない/何か異空間チック/目について
※時期は洛山のインターハイ優勝直後位




 それは聞き覚えがあるようで、全く知らない声だった。

「如何したんですかあー!?」

 テツヤのように丁寧にまとめられているのに、響きは敦のように緩み、発音のかちりとした纏まり方は真太郎のようでいて、無意味に張り上げられた語尾は涼太を思わせ、だと言うのに漂う無気力さは大輝のようで、なのに声色は女の――――さつきのそれ。思わず息を詰め、耳を澄ませてしまうほどには、混乱。
 さつきのジョークかとは思ったが、それにしては違和感ばかりが積もるし、そもそも彼女とはそこまで親しくしたことはない。信頼はしあっていたが、ふざけあうことはなかったはずだ。

 ひとり、そうやって思考に沈んでいると、おや、声は面白がるように笑みを織り交ぜて、実体もないまま僕の前でゆらゆら揺れる。

「随分と悲壮な顔だなあー、おい、顔を上げて下さいよ」

 そいつは多分両手を開いたんだろう、広範囲の景色が揺らぎ、笑みを模っているらしいちょうど顔だろうと推測される辺りから笑い声がきこえる。耳障りに割れた音を振り払いたくて耳をふさぎ、座りこんだまま僕は低く唸った。無意識の、ことだった。
 ざんざんと雨が降っている。僕の周りだけ、ざんざん、ざんざんと。僕を中心に円を描く、ちいさな空間だけが晴れている。意味も、なにも、わからない。

「僕が今朝見た天気予報ではな、雨だと言っていたよ。でもー飴が降ってきたら素敵ねぇ。つうかマジ顔上げてみろって、ん?」

 後頭部のあたりを柔くくすぐる気配がある。声の主が撫でてでも居るのだろうか、しきりに行ったり来りして、髪が跳ね回れば機嫌よく声を上げて喜んで。こどもなのか、同年代か。むしろ年上か。それとも年齢と言う概念さえ存在しないのか、これには。
 ことばの使い回しにルールがなく、語尾も一人称もまるで統一感がない。実態の把握できず、しかも声音と口調が全くイコールしないゆらゆらり空間をゆすぶるだけのこれを理解する事は難しいだろう。
 カメレオンにでもなるつもりか。シニカルに思いながら俯き、膝に額を突っ込んでやはり低く、唸る。そいつは――――道化のようなカメレオンは、けらりと高く、笑んだ。

「俯いて回避できるのなんて小石だけだぜ、赤司っち」

 うるさい。声にはならなかった。かわりにひゅうと、引き連れた吐息が喉にこんがらがった末にばたりと落ちただけ。
 だって聞けよ道化師かぶれ。空を見上げて、僕の周りに広がるのは雨だと言うのに見上げた先にあるのは太陽だ。網膜に直接突き刺さってくる光に耐える術なんて忘れてきてしまった。雨を、雨が、こんなにもほしいってこと、お前なんかには解らないだろう。

「はい、理解できないっスよ、僕にはねー」

 後頭部に突き刺さる日差しが痛い。僕の心を読んだのかなんなのか、相変わらずぐちゃぐちゃの声とことばを混ぜ合わせた音でカメレオンは言った。または、笑った。
 少しだけ、上向けた視線。視界に移りこむのは革靴のつまさき。

 僕に降るのは、濡らしもしない太陽だけ。

「でもさ、だからこそですよ赤ちん。顔を上げようぜ。立ち上がりましょうよ。そこでぐでってできるのはさ、自己陶酔だけっスよ」
「悲劇のヒロイン様、ね」
「おややっと喋ったね。な、嫌いだろ征ちゃん、そういうの」

 革靴が苛立ったようにたむ、たむ、と揺れたかと思えば、地団駄を踏んでいるのか激しく上下して、両足で跳んだように視界から消えてまた着地したり。
 騒がしく、煩わしい。跳ね除けようとして突き出した右手を翻せば、軽やかな笑い声と共に途中で動かせなくなる。ああ、ゆらゆらする何かがうるさいやつが僕の手首を拘束したらしいと理解するまでに、数秒。そのまま立たせようとでもしているのか掛けられる力に抗いながら首を振る。やだ、声は震えてて、我ながら駄々を捏ねるこどもそのものだと自嘲的に思った。

「赤司、怖いのはなんなんですか。みんなですか、あなた自身っスか、それともただの猜疑心かよ。何で動かないわけ。全員もう歩き出してるよ、閉じたコミュニティをぶち破ってぶん殴りあって叩き合ってんの見てるでしょ。それで良いのに、なんで君は嫌がるの」

 かなしかったわけでもない。
 なのにどうしてだろう、普段からみぎめと比べるとゆるいひだりめの涙腺が緩み、じわりと涙が滲む。雨みたいだ。ひだりめばかり、流れ続ける。

「溶けちゃうよ、赤司くん」
「願ったり叶ったりさ」
「溶けたらわたしが、固めちゃうんだけどね」
「は、余計なことを」

 うん。声が浮く。くるりくるりと旋回し、僕の喉を柔らかく絞める。そのまま終わらせてくれれば良いのに、耐えるには息苦しく逃げるには軽い拘束を、そいつは続けるのだ。
 手首を握りこんだそれは、カメレオンみたいな揺らぎは、革靴だけを履いて居た。ぼやけるひだりめの景色でどうにか暴こうとするけれど、揺れる視界で揺れるそいつをとらえることは難しい。色彩も景色もなにもかも、輪郭が曖昧に溶け出し合っている。

「立ち上がらないと、出て行くことも出来ないよ。顔を上げないと夕焼けが見えないんだから、明日が晴れかどうかも解らないぜー、赤ちん」

 雨に濡れている。
 ノイズにまみれた音、砂嵐みたいな雨の景色、かき消されかけている見慣れた背中たち。脇に立つのはお互いではない。それを疑問に思うわけでもないし、むしろ正しいとさえ思うけれど、受け入れられないものはどうしようもない。

 僕だけひとり立ち止まっているような、気がして。そしてそれは正しいから。

「君は泣き虫だな、赤司君」

 左側の世界が歪む。頬を流れるそれが、乾く前に上塗りされて濡れたままで、まるで雨のようだというのになまぬるい。いっそきんと冷えていてくれたら、いっそ刃物みたいに鋭利だったらと、思うのに。

「よわむしさ」
「意気地なしだし、こどもみたいで」
「・・・・・僕は、あいつらにすかれているわけでもない。今のチームの奴等だって同じこと。僕はひとりでも歩けるけれど」
「それが仇ですか、大変っスね」
「――――・・・・知らない」

 雨の音がする。雨を真似するように僕のひだりめも、壊れたまま感情を流し続ける。やむのかな、呟きは、知らないと無邪気に切り捨てられた。

「天気予報も嘘を吐くのだよ。そして予言なんか不確定です。明日なんて巡ってしまえば今日だ。赤司、すべては不明瞭さ!それこそやってみないと、なってみないと、何も解らない!ほら、試しにそこの水溜りに君の顔を映して御覧、酷いお顔をしているから」

 血ではない。どちらかと言えば苺シロップにも似た、透明感のある薄い赤色。見覚えのあるそれは、そうか、僕のひとみのいろ。
 水溜りの両側に手をついて、呆然とみなもを見詰め続ける僕の顔、映るそれはゆらゆらゆらり、揺れて、実態が曖昧だ。ただ目を見開いているんだろうと言う事だけはわかる。
 息さえなくしていると、くすり、息に笑みを混ぜたゆらゆらカメレオンは僕の前に回りこんで――――来たんだろう、みなもの端に革靴が混ざりこんできたから。
 たむ、たむ、とそれは足踏みをする。

「如何ですか」

 流れ続ける、頬を、伝って。盛り上がって、顎に張り付いたものが耐え切れずみなもにしみを、カキ氷のシロップみたいな赤いしみをくゆらせる。末端から赤く染まっていくみなもは、やっぱり、苺みたいにあまそうだった。

 呆けて、見下ろす。

「どう、って」
「言葉の通りで御座いますよ、赤司っち」

 赤い。透明だらけに、赤い。流しているのは涙じゃなくてシロップなんじゃないだろうか。

「奇麗だろ?」

 僕のひだりめからはそれはもう奇麗に、赤色が抜け落ちてしまっていた。雨は未だうるさくて、僕の頬をいまだにひとみの色彩を混ぜた涙が流れて、そんな日常をまねた非日常が未だに続く。
 ひだりめの、色だけが、異質に。抜け落ちて。

「だいだい、いろ、?」
「黄色にも近いっスね。まあそこは主観でどうぞ」
「なん、で」

 革靴が揺れる。たむ、と、一度つまさきが持ち上がりまた、落ちる。

「さあ知らない。ただあんまりにも君が泣くから、色が溶けちゃったのかもしれないねー?奇麗にアンバランスが出来上がりました、と。いやあ、お似合いだぜー・・・・さて君、そのひとみで見た景色は如何なのか、確かめたくは無ァい?」

 今度は顎が、とらえられた。
 けれど上向けられた視界に映り込むのはゆらゆらゆれるだけのそれではなく、ちゃんとした身体で。華奢なそいつはいやになめらかに首を傾げて、細い指で真上を指差す。

「ほら、曇って来たようだ」

 つられて完全に真上を向いた僕の視界いっぱいに広がるのは暴力的な光と、遠くで湧き上がりかけている雨雲。まるく、ぽっかり、切り取られていたこの晴れも、そろそろ雨で塗り潰されるらしかった。
 ひだりめがちかちかする。色素が抜け落ちるなんてあるわけがないのに、てのひらに落とした涙はやっぱり薄く赤く染まって、みなもに映るのはやっぱり別の色のひとみをした僕のひだりめで。このカメレオン、またはこのよくわからない空間、では何がありえて何がありえないのか。常識さえ通じないのだ、それはゆらゆら道化師が証明している。

 身体がひきずり上げられた。無理矢理に僕を立たせて、強引に真っ赤な傘を握らせたそいつは雨を指差して顎をしゃくる。さあ行け、無言でそう語るそいつの顔は嫌になるくらい高圧的で、腹立たしい。見覚えのありすぎる顔、いっそこれは殴り飛ばしてもいいかもしれない。

「君は何も得ていない、色素さえ流しちゃうくらいの泣き虫だし、弱虫だ。王様でも支配者でも何でも無いさ、お前はね」
「・・・・なにも、理解、出来てないんだけど」
「しなくて良いさ。ここは夢で、でも君のめは色を変え、君はこの晴ればっかりの飽き飽きする場所から外に、雨の中に行く。傘は託したし君は立ち上がった・・・・・説明なんてこれで充分だろう、君は立つまでは長いけれど、立ち上がったら走り出すまで一瞬だから」

 当然だが、理解されきっている。
 それに僕はそのことばどおりに傘を開こうとしているし、つまさきははやくも雨に濡らしているのだから。
 ぱたりとそいつは投げやりに手を振った。とりあえず行って来い、と言う事らしい。

「、僕のひだりめの赤色はもう君にあげるよ」
「はは、言われなくてももう僕のものさ」

 かなしいわけではない。ただ、どうしようもないなと、思うだけ。
 そしてどうしようもないまま訳も解らない空間で傘をさす、僕は余程愉快で滑稽だろうからしばらくは、雨をたのしみながらひとり歩くのも悪くはない。



遣らずの雨