※別れ話/原作より数年後設定




 終わりはいつも隣に張り付いていたように思えて、夏に溶かされて冷やされてくっついてしまった今、もう引き剥がすのは容易ではないのだろうと思えばどこかものがなしく、ただただ風だけが酷薄に凪ぐ音がする。
 ジ、とジッパーの閉める音がひとつ、ふたつ、足元にぱたぱた落ちる。マグカップに歯ブラシをつきさして洗面所から顔を出した伊月は首をかしげ、はみがきこどこやったっけーとやわらかな声を上げた。切れ長の目をめいっぱい見開き、ぱち、と叩き落とすようなまばたきをひとつ。

「あー、あれじゃね、洗面台の下の」
「ん、あった、さすがさすが。くーりーあ、くりーん」
「ゴキゲンなこって」
「ずっと探してたんだもん」

 透明の袋にマグカップと歯ブラシと歯磨き粉の三点セットを押し込んで、手ごろな紙袋を引っ張り出して、伊月は投げ込むように袋を落とした。マグカップが割れやしないか心配になるほど重く、ごん、と床に打ち付ける鈍い音が耳を打ったというのに、とうの本人は振り返りすらせず今度は鼻歌を歌いながら髭剃りの回収に向かってしまう。
 一気に持ってくれば良い。とは、あえて言わない。三回繰り返した辺りで伊月もそれに気付いたようだが、実行はしなかった。無意味に洗面所とボストンバッグの間を往復して、なくしぐせのあるってことを自覚しているのに悠長にさがしもの。
 どこやったっけ、あそこじゃね、おおあった、日常に忍び込んでいたそう言う会話を、今一気にやって、何が満たされるわけもないと言うのに。
 机の上のライターをはじく。伊月のやつ。上等のジッポだ。

「日向ーそこのいすとってー」
「何すんの」
「上の奴とるわ。何やってんだろオレ、うおっ高いってか崩れ、・・・あははははなだれだわ、いすはやくー!」
「何あそんでんの・・・・」
「ダッシュダッシュ押しつぶされちゃう」

 未だひとりあそびに夢中らしい伊月がころがる洗面所の入り口にいすを置いて、ぺったぺったと床と足とで気の抜ける音をつくりながらソファに戻る。一年くらい前、伊月が盛大にぶっかけたコーヒーのしみを今更ふきとろうとして、しみついたそれはやっぱりとれなくて、無理だってひとり苦笑した。
 洗面所からは雪崩第二陣に襲われたらしい伊月のけたけた笑う声がきこえる。手助けする気さえ起きないこどもみたいなはしゃぎように、ためいきをひとつ、落とす。

「日向ーこれどうするよ、お手手がピッカピカのあれ」
「どれだよ」
「ジェルー」
「手ピカの?」
「そうそう」
「欲しけりゃかばんに入れとけよ」
「おー」

 折り紙でもおっているようだった。
 紙のいろで散々もめて、決まっても顔を突き合わせて説明書とにらめっこして、ぐちゃぐちゃになったら皺を伸ばして、千切れたらテープで張っつけて。折り目だらけにしても完成しないまま、ふたり、出来もしないつるでもおっている。
 それでもひとはまなぶもので、折り方を覚えてしまえば簡単で、気付けば顔を突き合わせる必要もなくなって、ひとり、出来上がったつるばかりつみあげるような。
 日々になってしまったように、思える。

 恋が病ではなく、傷のようだと知ったのは学生の頃だった。じくじく膿んで醜くて、顔を歪めて痛いと騒ぎ立てたいくらいに熱烈に、肌に刻まれた傷。流れ続けるのはどうしようもない、傷口をかためやしないすきだって気持ちばっかり。
 ふたりでお互いの傷をおさえあって、笑ってた。幸せだった。

「日向、ピン留めいる?」
「いらね」
「でも髪、伸びたじゃん。あったら便利だぜ」
「んーでもいらねー。いるときに買う」
「そ?ピンクドットなんだけど」
「何それ本当いらないんだけど」
「あははは」

 だけど、傷だ。治るものだ。きれいさっぱり
 あれだけあふれて、傷を広げるばかりだったすきの気持ちも、今は穏やかで。つみあがったつるを切り崩してはんぶんこ、まだそうも行かないけれど、もうふたりでひとつに必死こけないねっていつだったか伊月はけらけら笑った。
 そうだなって笑ったおれもおそらく、知っていた。傷口がなくなる日が伊月が居なくなる日だって。きれいさっぱり、つるぜんぶ貰っちゃうぜって不敵にわらいながら、伊月がスキップでもしながら軽やかに玄関を出て行く。知っていた。ひきとめよう、とはそのときでさえ思いもせず、今だって過ぎりもしない思考を、情のままに弄んでいる。

 繋いでいた手を離すだけ。他より一歩分近かった距離を、せーので跳んで離れるだけだ。少しずつふさがっていく傷口を、ふたりで覗き込んで目配せしあって、そんで――――昨日だった。これ以上居たらこじれるわ、昨日おれが呟けば、わーおシンクロと伊月は囃すように手を叩き、けらけら笑って、ボストンバッグに自分を詰め込む作業をあっさりはじめた。

 今日全部なくなる。いなくなる。きれいさっぱり。伊月を連れて。

「なあ伊月」
「ん、なにー?」
「やっぱ、好きだわ」
「あんがと。おれもようダァリン」
「さっすがわかってるねハニー」

 名残惜しいのは、やっぱり情でしかない。すきとか、離したくないとか言う独占欲では、もうない。日常のいちぶがきりとられることが酷く惜しい、ただそれだけ。
 すきなのは本当だ。愛しいのも嘘じゃない。
 でももう、終わりだった。おれも伊月も知っていて、気付いていて、目隠ししながら毎日を過ごしたけれど。
 お終いだ。だよねって、笑った伊月はだいすきな笑顔をしていて、それでもキスしたいとかめちゃくちゃにしてやりたいとか思わなくて、イコール性欲じゃない思うからこそ、そう言うことなんだろうと、思った。

「ひゅうが」
「何」
「今日の晩御飯、何が良い?」

 くろぐろとした目がおれをみつめている。ソファの背もたれに頬を預けて、くしゃっと、潰すみたいに笑顔を作ってみる。

「ハンバーグ」
「あっそう?ひとりで食ってろ」
「しばくぞ」
「あっはははは」

 伊月も潰れた笑い声をたてて、バスタオルと鏡、くし、件のピン留めを一緒くたに透明の袋に詰め込んで帰ってきた。それをまた乱雑に紙袋に落として、開かないようにそこらに転がっていたマスキングテープで封をする。いやにカラフルになった持ち物に苦笑した伊月は、確認するようにもう一度一部屋ずつ覗いてまわって、スリッパのぱたぱたする音を引きずりながら戻ってきた。
 腰に手をあてて荷物を見渡す。ボストンバッグひとつと紙袋ふたつ、あとリュックのなかにバスケットボールとバッシュ。机の上のジッポを拾い上げ、堂々と部屋の真ん中で煙草の先に火をつけた伊月は煙を撒き散らして腰に手をあてる。
 よし、とひとこと。荷物はもう纏め終わったらしい。

「意外に少ないな」
「あーほとんど共用だったしな。ま、オレのもんはこんなもんじゃね。何か出てきても、うん、なんて言うんだろ」
「え、知らね」
「、なんだろー、・・・プレゼント?に、どうぞ」
「んー、いらん」
「じゃっ、捨てて」

 密やかにことばをなくしたおれの顔を覗きこんで、ちいさく、伊月は笑った。目を細めるだけのような、口角をゆるめるだけのような、笑顔にしてはどこか未完成な顔の弛緩。
 口に煙草を引っ掛けて、リュックを背負いボストンバッグと紙袋を抱えて伊月は廊下をぱたぱた歩き出す。うさちゃんスリッパも捨てといて、語尾を緩めて柔らかにことばをこぼしながら。

「さよなら?」
「や、下まで行く」
「お見送りか」
「かもな」
「かもなって薄情めがー」

 どっちが。言いそうになる。薄情って、どっちが。

 それでも先か今かの違いで、きっといつか別れっていうものが訪れることを知っているからおれはごくりとことばを呑む。伊月だって解っているから、茶化すだけで怒らないし泣きはしない。
 知っていたのだ、ふたりとも。
 毎日がさよならに向かってゆるやかに加速して行ったのも、閉じるように恋が終わって行っていたのも、身を焦がすような恋情がいつしか夏にさらわれていたのも、知っていたのだ。
 三年と少し。短いのか、長いのか、解らない日々がふたりだった。麻痺するように関係を続けていくなら、と、手を放したのはおれが先。

 かん、かん、安物の、塗料の剥がれてさびだらけの階段をおりる伊月の足は軽やかだ。お泊り会の帰りのような、そんな軽やかさと薄情さを織り交ぜた足音。昨日はたのしかったねーって、そう言う、会話。

「じゃっ、今度こそさよなら?」

 ひら、と手をふって黒髪の奥、彼は笑った。けたけた何が楽しいのか。
 階段の先、無愛想に続くコンクリートをその弾むみたいな足でぱたぱた歩きながら、伊月は色んなものを引きずって駅に向かうんだろう。
 そこまで行くのは、違う。お互い知ってる。
 片方のポケットに手を突っ込んで、おーと軽く応えて右手をまねするようにひらりと翻した。やっぱり笑顔には少し遠い顔の緩め方をした伊月は、喉の奥でこもるような音と一緒に頷いた後振り返りもせずに歩き出す。真夏の、ぬるい風が伊月のまっくろな髪の襟足をさらって、だいすきだったくろぐろの髪がひらひら舞い上がった。
 剥がせないおわりだけが未だ、影みたいにぺったり、おれと伊月に張り付く。癖して、引き剥がす。皮肉なことに。

「ばいばい」

 ぼそっと、落とすように呟く。聞こえたんだろう、伊月が軽く肩を揺らして、でもやっぱり振り返らないままリュックを背負いなおして右手を真上に突き上げて大袈裟に振る。

「、左様ならば仕方が無いな」

 さよならのことばになった昔の言い回し、意味さえ思い出せないそのことばだけ最後に残して、伊月は真昼の真夏の真青に溶けてしまった。入道雲のかわりでもするように紫煙を撒き散らし、ぱたぱた、手を振って。
 夏だと言うのに、瞼の奥に残るのは黒ばかり。全部真っ黒に染め上げるほどの影響力を持って胸のまんなかにはまりこんでいた伊月俊と言う存在が、後味さえをも残すことなくごっそりと抜け落ちるのを感じながら、ああでも、不思議と虚無以外の感情はわいてこないままに、おれは伊月の背中に向けたまんまだったつま先をひるがえし、最寄のスーパーにひき肉を買いに向かう。



ステレオタイプのメリーウィドー



 だと言うのに、部屋に帰って、さて晩飯まで時間はあるからひき肉を冷やしておこうかと伊月の撒き散らした紫煙をかきわけて冷蔵庫をの扉を開けば、驚いたことに。
 ハンバーグ、しかも面倒くさい煮込みハンバーグが大量に入った鍋が異様な存在感を放って冷蔵庫に突っ込まれていた。

「捨てるのは勿体ねーわなあ」

 ひき肉は別の料理にシフトすることにして、鍋を端に寄せた隙間にキムチを詰め込みながら、ごきん、と首をならしてあくびをひとつ。るんたった軽やかに足を進める伊月が振り返り、捨ててみそ、にしっと笑うのが見えた気がして、あー敵わねえなあと中々はまらないキムチと格闘しながら思った。