子宮の中はからっぽのはずだ。なのに、居る気がして。あいつと私のこどもがすくすく、育っている気がして。
 えぐりたい、衝動だった。どうしようも無いほどの衝動が、きもちわるさが背骨に走る。えぐりだしてしまいたい。捨ててしまった瓶の中身を受け取ってなんか居ないのに、育つこどもなんて、要らないだろう。目の前がやけに暗い。
 要らないだろう。

「おっ、あーかしっ!」

 腹をに突き立てた筈のちからの行方が宙ぶらりん、どうすればいいのかが解らなくなったまま制止された指先を持ち上げ、ぱたり、目の前に垂れ下げる。
 ゆっくりと、なるだけ時間を掛けて振り返る。その間にいつもの私に戻れるように、気取られない程度に深く息を吸い込んで吐いて、背後に立つ影を捉える。視線がかち合ったとき大輝は、すべてを掻き混ぜてなおけろりと笑っていそうな男は片手を上げて快活に笑った。

「よ、」
「あ・・・・・あ、ああ、おはよう。寝坊じゃなかったのか」

 震える声をどうにか押さえつけたせいか声は普段よりも低かった。が、大輝が気付いた様子はない。それよりも、呆れたような顔で親しみのこもった皮肉を頬に貼り付けて、変わらない調子の声で言う。

「はあ?何言ってんだよ赤司?」

 ぐわん。
 口を開けて、笑ったのは。

 誰が先だったろうか。

「もう11時だぜー?ふつうに考えて遅刻だろ、お前もさあ」

 自分の思考で自分で笑う。
 世界も彼等がだいすきなんじゃないかと、思って、ありえるなと思って、笑う。

 ただそれはただの逃避だ。11時、と言うことはつまり、私はどれだけの時間をこの駅で過ごしていたのだろう。体感的に言えば数分ほどでは有った。が、実際に過ぎていたのは分どころではない、時間だ。1分が60回きっちり、繰り返されていたということ。
 ぞっとした。未だ下腹部に残る熱、呆然と立ちすくんでいた自分自身、そのどちらにも。ぞっ、と。

「つか、マジで何してたんだ?こんな所でぼけっと突っ立ってさあ」

 あの少年の息遣いが今も私を拘束している。視線の代わりのように全身に巻き付いて、隙あらばどこかから滑り込んでやろうと息の癖に、息を潜めている。
 気色が悪い。腹に棲むと言う赤子も、少年の澄み切ったとろけた瞳も、狂っていることを隠しもし無いくせに、声ばっかりべたべた甘い。あいつは一体何。

「・・・・いや。久しぶりの遅刻だったから、呆然としていただけだ」

 私は時間を切り捨てて騙った。
 数時間もここでひとり、切り残されたように立ち竦んでいたことをどうしてか知られたくなくて、時間を継ぎ接ぎする。タイムスリップをしたと、嘯く。まるで今さっき駅に来たとでも言いたげなトーンでくるりと嘘を包んで、本当にしてやろうと。

 だって、ことばにすることで、空間に焼き付けたくなかったのだ。
 少年との逢瀬にも似たあの瞬間を、それこそ、瞬間で終わらせたかった。

「ふーん?まっ、お前が遅刻とか確かに珍しいなあ。つか、おれが寝坊とか誰に聞いたんだよ」
「真太郎さ。朝電話してね」
「・・・・・・朝から電話?」
「そうだけど、何か問題でもあるか?」
「いーや?」

 どこか語尾を無駄に上げたような引っ掛けたような物良い、歯切れが悪いというよりは挑発的な途切れ方をすることばに少々苛と来て目を眇める。睨め上げるように顎を引き大輝の顔を見れば、砕いたサファイアでも乱雑に詰め込んだみたいな瞳が苛立ちを交えて私を見下ろしていた。
 丸い眼球に張り付くのはいつだったか、意外に気取った物言いを好むテツヤが夜の瞳だと称していた深い青。
 それが考えさえなさそうな、無気力な目で私を見ている。
 何なんだ、一体。

「仲良いんだなあーと」
「そうか?まあ、悪い方では無いとは思う・・・・が、そう良い方でも無いだろう」
「本人にそれ、言ってやれよ。泣かれっぞ」

 不可解な単語ばかり繋ぎ合わされた羅列が珍しく滑るように彼の唇から落ちるのを睨み付け、はっきり言えと意味が解らないとはやくも怒鳴りそうになるのを必死で堪えながら、彼のことばの意味を噛み砕くようにつとめる。
 今の私は気が立っているだけ。些細なことに引っ掛かってしまうのは、今も下腹部を這い回る熱が喚き散らしているから、だから、理性さえもがちゃがちゃと掻き回されてしまっているだけだ。

 きっと、そう。言い聞かせる。いつの間に握りこんでいたのだろうか、掌に痛みが走って、軽く目をやれば深く爪が食い込んでいた。唇を噛む。
 大輝、不安になってしまうような好戦的な口調はやめてくれないか。

「さっきから何だ回りくどい。はっきりと、言え。生憎と今の私は少々、普段と同じように冷静では無い。好い加減に怒るよ」

 低く、うわずりそうになる声を何とか淡々と聞こえるように意識してみるのだが、どうしても単語ごとに発音が途切れる。一瞬の気付かれもしないだろう間が、だが私自身を酷く焦らせた。
 別に、と大輝は。
 ひょいと肩をすくめて視線の先を斜め下に貼り付けたまま、その対角線上だけで世界を確立させている。私を見ているようで見ていない、どこか焦点の曖昧な目が。
 まるで、あの少年を思わせる。

「・・・・・大輝」
「んだよ、」

 取ってつけたような返事。生返事。
 苛。と、する。どうしてか酷く焦る。

「――――言いたいことがあるならさっさとっ」
「赤司ィ、元気ねーよな」
「、え」

 もう怒鳴り散らしてやろうと引っ張り出したことばの先が掬われる。掬われるだけならまだしも、包み込まれたような気がしてもう、何だと言うんだ。
 サファイアでも磨り潰して投げ込んだような目が、どこかくろぐろと光って私を射る。私を引きずり込もうとしてくる。瞳孔に引き込まれそうになる。
 成程、夜の瞳だった。

 思わず足元を踏み締める。
 靴底と地球の表面に挟まれた小石が、じゃりっと小さく硬質に鳴いた。

「相談されたってなんも答えだせねーけど、さ、おれ馬鹿だから。でもまっ、一緒に悩むくらいしてやるよ」

 そう言って、がらにも無く柔らかく話しながら破顔するんだから。
 眉をつりあげているのにどこか困ったような独特の笑い方。当たりってアイスの棒でも突き上げるこどものような、無邪気なだけの笑顔のつくりかた。私はとっくに忘れてしまった、楽しいから笑うような表情。
 つられるようにして軽く、私も笑みを作る。顔をぐしゃぐしゃにしただけの、もう丸めて捨てられるのを待つだけのような頼りない笑顔だったかもしれないけれど、でも笑顔だ。笑いたいから笑っていた。

 恐怖も猜疑心も全部、今、ひとこととただえがおにぶっ飛ばされて。多分、とっくにぐしゃぐしゃなまま大輝の目玉の中。夜の星の中、ブラックホールはあったかな。

「有難う」
「・・・・・えっ」

 驚いたように目を見開き、笑みを消した大輝がぱちぱちと瞬きを落とす。間抜けと茶化す前にこちらが恥ずかしくなってきて、彼の隣をすり抜け足早に学校へ向かう。

「二度目は言わない、言うもんか」
「やっもう一回もう一回!ワンモア!」
「no more」

 焦ったように、小走りですぐに追いついてきた大輝を振り切れるはずは無い。が、振り切りたくて俯いた。入学したてのころの光沢を失った黒のローファーも忙しなく出たり後方へ溶けたりして。

 もうたくさんだと、思った。視線だかプレゼントだか知らないが私に送られる気持ちの悪い愛情表現も、彼等に対する私の愛しいばっかりの感情も、もうたくさんだ。
 一方は捨て去りたい。一方は大事に仕舞いたい。
 どちらも抱えきれない程に、私の細腕には余るものばかり。

「ちょっ、赤司赤司!そこの自販機にチョコソーダって売ってるんだけど赤りんチャレンジ精神って」
「さっさと学校に行くぞ」

 叫びだしたいほどの午前十一時、陽射しはじりじりと、私を。
 

back next


- ナノ -