彼等と居るとき限定で視線が消える。単純で明快な事実に気付いた私はそれからと言うもの、苦手意識を持ちつつも彼等と行動を共にすることにした。

 今までは何かと理由を付け断っていた、涼太命名『昼飯を皆で食そうの会』にも参加し、登校も下校も出来るだけ誰かと共に居る。物好きな彼等は私が居ることも笑いながら許容してくれたから、私は晒され続けた視線から少しだけ遠ざかる生活を送れるようになっていた。
 たとえ少しの間でも、蛇の居ない生活。安寧。

「赤司さんは何がすきですか」

 膝に乗せた敦の、鬱陶しいらいに長ったらしい髪に指を沈ませていると、柔らかな声が後頭部にぶつかる。
 何が。広く取られた何の意味を舌の上で転がしながら、何だろうと、誤魔化すように笑ってみる。

「じゃあ、テツヤは何がすきなんだ」

 屋上を吹き抜ける風は無色だ。騒がしくも無ければ静かでもない、ひたすらに無。あの視線と似ているなあとふと思い、突き抜ける青を仰いで見る。張り付いた雲はどこから沸いて出たのか、白いばかりでもくもくと。

 するりと影から身を抜いたテツヤは私の隣に腰を下ろし、どこからか出した文庫本を開いて読み始める。軽く体重を預けるようにすれば、目を上げないまま身体を反転させたテツヤが私に背中を向けた――――どうぞと、無言で語る。礼も言わないまま背中同士を合わせるようにして再び体重を掛ければ、彼が笑む音と共に空気が揺れた。

「僕がすきなものはたくさんあります」
「、私もだよ」

 しばらく時間が無為に消化された頃、テツヤは用意してあった台本をそのままなぞるような口ぶりで呟いた。
 本当に、呟きだ。ぽつりと、溶かすように密やかな声音。決してひとの神経を逆撫でしない穏やかな声は、けれどいつも芯を持って胃の底辺りにずんと響く。

「でも、テツヤの声、すきかもしれないな」
「声、ですか」
「声さ」

 初めて言われましたと、淡々。驚いているのか受け入れているのかいささかつかみづらい口調を維持したまま、彼は吐露にも似た声でことばを吐き続ける。静かな癖、饒舌なのだ。

「静かで・・・・涼やかと、言うのかな。けれども、決して冷たいわけじゃない。お前はいつも考えて話す。うん、声と言うよりも、話口調が正しいかな」
「有難う御座います。でも僕も、赤司さんの話口調、結構すきですよ」
「意外だな。女の癖に男っぽい、上から見下ろすような、とは良く形容されるけどねえ」
「そうでしょうか。女らしいの定義も最近では曖昧ですし、そこは気にする必要は無いかと。上からは――カリスマ性ゆえの愛嬌と言うことで」

 ことばの端々に笑みを散りばめられた声が静かに耳の裏をくすぐった。目を閉じ、遠慮がちに預けていた体重を全体重へとシフトすれば、やっぱり彼は空気を揺らすように笑う気配がする。
 表情は、平坦なほうだ。けれどもテツヤは、息遣いや声、ことばを尽くすことで語る。彼自身から放たれるそれらの方がテツヤ自身を雄弁に語り、不器用な彼はそれを知っていてなお取り繕えない。だから、表情を消すことがせめてもの自衛なのだろうか。

「カリスマなんて無いよ、私には」

 あの視線は私を見ることがだいすきらしいが、大方、好意ような砂糖の詰め込まれたものでは無いだろう。どちらかと言えば観察に近い。今日も水族館のペンギンを真似ていた私が言うのだから間違い無い。

「そうでしょうか」

 語尾さえ上がらない平坦な声が響くのを最後に、ふたたび沈黙の落ちた場。
 テツヤは本に集中しなおし、私は、彼に背中を預けたまま膝の上のこどもと戯れ始める。

 敦はテツヤとは間逆だ。
 ことばを尽くし、自分を最大限とはいかないまでも駆使して表現するテツヤと違い、紫原は理解してもらうという事柄だけでなく、すべてにおいて怠惰。
 膨大なことばを用意し、その中からいちばんを探し出して丁寧に並べるのがテツヤだとしたら、ビックリ箱から飛び出してきたことばをおもちゃの拳銃に詰め込んで意味も無く乱射するのが敦なのだ。それで、スタンスも考え方もまるで逆と来ている。ここまで来ると見ている分には面白いだけ、と、言うのはここだけの話でふたりには内緒。

「そうだ、今日一緒に帰って貰っても構わないかな」
「貰ってと言う言い方は心外です。是非ともご一緒させてください」
「相変わらず淡々としたジョークだ」
「ジョークですか・・・構いませんけど。紫原君も一緒でしょうね、今日も。黄瀬君たちはどうするのかな。来たい、ともし言うようなら、一緒でも大丈夫ですか?」

 オレも、腕を上げて世界ごと魅了してしまうような笑顔で宣言する涼太の姿が安易に想像できてしまって思わず、軽く笑う。声に出した訳では無いが、背中が揺れたようだ。訝しげな目に、それでもどこか可笑しそうな色を混ぜたテツヤの視線が私を包む。
 この視線は不快じゃない。

「本当にお前達は仲がいいね。いちを出しただけでじゅうが来る」
「普通ですよ。ただ、赤司さんと一緒に帰りたいじゃあないですか?皆も」
「相変わらずの、」
「ジョークですか」

 言葉尻をさらうように声を重ねて、テツヤは首を傾げた。どこか不満気なのは、さて、私の言動でいつ彼を不快にさせてしまったのだろう。

「ジョークだよ」
「思うのは勝手ですけどね」

 ほわり。
 ほどけた欠伸が耳に届く。

「じょーくって食えるー?」
「夫婦喧嘩は食えないけどねえ」
「んー?」
「多分通じてませんよ、そのジョーク」

 目を覚ました敦の額を撫でてやりながら完全に覚醒するのを助けてやる。口いっぱいにことばを頬張ったような、どこかこもった声で話す敦はやはり未だ眠そうだ。
 今は昼休みだが、もう予鈴が鳴るまでそう時間がある訳でもない。腕を引き、立たせてやってからぐらぐら壊れそうに揺れる身体を裏掌で叩き、文庫本をまた手品のようにどこかに仕舞ってしまったテツヤと三人で連れ立って歩き出す。

 梅雨から夏へと蛹の蝶々みたいに変わった癖、日差しはどこかなまぬるい。湿気を含んだ空気は、何を諦めてしまったのか深く重い。
 途端冷気の充満した教室が恋しくなって、のろのろとしか進まない敦を軽く急かした。

「そうだ敦、今日の帰りだけど」
「きいてたっつーのー。オレも帰る」
「では、三人で?」
「一応他にも当っておこうか」
「解りました」

 視線は湿気に叩き落されたままなのか、梅雨のように夏に負けたのか、私を晒すことは無い。
 息がしやすい。

 吐き出した私の二酸化炭素は、恐らく、ぬるくほどけた無色だろう。



back next


- ナノ -