視線は蛇のように纏わり付いている。

 いつからだろうか、それは良く覚えていない。青が未だ未熟だったころのようにも、かと思えば秋がカラカラ鳴いていたころのようにも、昨日わたしが目を覚ましたときからのようにも思える。
 いつだ、と明確な時期は無い。いつだと断言されてしまえば、ああそうかと安易に納得してしまうくらいの――――日常。日常と成り果ててしまった、恐らく非日常。

 その視線は恐ろしく無色だった。

 どこまでも無欲。清純。少女を気取っているように、白い。否、色で表現するのは似つかわしくないほどに、無。ただ視線はそこ転がり、背中を這いずり上がるような不快さだけをばらまいて絡み付いてくる。
 それでも慣れてしまっているのは、反吐が出るくらいに無欲な視線に慣らされてしまったのか諦めてしまったのか、何か。混濁。視線に晒されているときはいつも、意識がどこかふわふわと曖昧でつかめなくなる。判断能力が鈍る、そうではない。引き抜かれて砕かれているような感覚。最初から無かったよと笑顔で言いくるめられているような錯覚。

 その視線の前での私は恐ろしく、従順だった。

 子が盲目に親を慕う。親も欠陥品であるのに、慕い崇め、一種の信仰。
 似ている。視線を信仰している。無害だと、少女を気取る視線は“視線”、以上にも以下にもならないと。
 どうせ、無害なうちは構わないのだ。
 手首の内側が粟立つこのただただ不快な視線が、視線として空中を漂い絡み付いてくるうちは構わない。欲を剥き出しぶつけてこないうちは構わない。

 耐えられる。
 呟けば、空気が揺れる。笑っているのか泣いているのか耳を澄まさない私には聞こえない。

 まだ大丈夫。
 追って吐き出す。視線はぶれもせず、私を絡め続けている。突き刺さないのだ、最上級の優しさを持った視線は、赤子を包む布を思わせる柔らかさと繊細さを持っている。私を包み、絡め、締め上げるのに突き刺さない。

 だから平気。
 視線は無害だ。ただ、見られているだけ。動物園のパンダにでもなったつもりで、私はいつも通りにしらりとしていれば良い。

 あわよくば掌に突き刺してやろうと握り込んだ指先をかすめた空気が揺れる。
 遠巻きに私を、視線とは違って突き刺してきた視線の主、モブばかりの観衆が揺れる。

 現れたさつきは長い髪を背中へ払いながら、赤司ちゃんと、崩れ落ちそうなくらいに柔らかく微笑んだ。

「さつき、」
「やっほー」

 笑顔と同じ柔らかな声に、救われた気になりながら彼女に駆け寄った。
 胸が軽くなる、こころが浮き立つ。私はどうしようもなく彼女が、彼等が好きで、視線すべてが泡ぶくになって消えてしまったような気がしてくる。
 やっぱり、救われたのかもしれなかった。

「どうしたんだ」
「ううん。赤司ちゃんが見えたから話しかけただけー。駄目だったかな」
「いや、そんなことは無いよ。むしろ嬉しい・・・・ああ、ついでだから話そうか。今日の部活のことだけれど」
「はいはーい」

 長方形に切り取られた廊下を連れ立って歩き出すと、欲にまみれた視線が追ってくる。さつきを対象にした生々しい、欲が安易に感じることが出来て、吐きそうなくらいに気色が悪い。
 私の身体がさつきに勝るとは思わないが、彼女を対称にするのならばせめて私にと。
 けれど私を晒すのは、視線。

 無欲の視線。

 背骨を這いずり上がって肩でしゅうと息を吐き出す、蛇のような視線。握りつぶしてしまいたいのに、掴んだ瞬間に霧散する。有り、無い。視線。
 けれど今は、その視線よりも欲にまみれた視線の方が不快だった。さつきを脳内で辱めているだけでも腹が立つのに、それさえ飛び越え本人にぶつけようとしている。不快だ。不快だ、それこそ握りつぶしてしまいたい。

「赤司ちゃん?どうしたの?」
「・・・・・ああいや、何でも無いんだ。それで、すまない何だっけ、練習メニューか?」
「そうそう。主にスタメンなんだけど、」

 帝光中学校バスケットボール部二年生、一軍。青峰、黒子、緑間、黄瀬、紫原。良く知る、知り合い。間違っても友人では無い。
 私と彼女、桃井さつきはマネージャーと言う役職に納まっている。さつきの関わり方に口を出すつもりは無いが、私はマネージャーと選手として接したい。そうして接して欲しい。だと言うのに、境界線の見えないあいつらは――――又は、見えないふりをしてからりと笑うあいつらは、正直苦手だった。

 キセキの世代。天才集団。この前カラーズと称していた女子も居たか。

 例外ひとりを除いて兎に角目立つ奴等が、苦手で苦手で仕方が無い。直視するだけで目が焼き潰されるんじゃないかと思ってしまう。
 それとも、彼等の目に入れていただいていることに関して喜ぶべきなのだろうか。顔の造形に拘ったことは無いから、いまいち解らない。

「・・・青峰はこのメニュー、そう、これだ。三倍で」
「三倍?んー、まあ良いけど。もしかして大ちゃんが何かした?ごめんねえ」

 眉を下げて、心底申し訳なさそうにするさつきは確かに奇麗だ。お茶目な部分も有り、可愛いと言う形容詞も良く似合う。
 彼女をそう言った対象にする奴等の気持ちもわからないわけじゃあない。ただ少し、ほんの少し、癇に障るだけ。
 だって、あからさまに熱を織り込んだ視線は粘着質で、何をしてくるわけでもないが無害と切り捨て無視することは出来ない領域に達している。私でさえ、際どい部分を這う視線があるのだからさつきなんてもっとだろう。近々、どうにかして辞めさせないといけないと思っている。

「いや、別に何もして無い。逆にしていなさすぎる。それにもし何かされていたとしても、さつきは謝らなくても良いよ、さつきのせいじゃ無いんだから」
「そうだぜさつきぃー」

 瞬間、背中に圧し掛かって来た体温に思わず身を固めた。肘を振り抜き、払いのけようとするが、当る直前でするりと熱は溶ける。
 避けられた。
 もう一撃、抜いた膝の力もそのままに脚を払ってやろうとして、失敗する。

「大輝じゃ無いか」
「おいおい赤司ぃ、攻撃とかそりゃ無いって。あー怖ぇ」
「いや峰ちん思ってないでしょー」

 いちが来れば、じゅう。
 やはり現れた他のキセキの面子の顔をぐるりと見渡し、ひと知れず嘆息。大輝のことはさつきに任せることにする。

「敦。あまりお菓子ばかり食べるな。ちゃんとしたカロリーを取るのも大事だよ」
「えー・・・・ぜんしょするー」
「ひらがな発音は如何かものかと思いますよ、紫原君」
「黒子、無駄だ」

 騒がしくなった空間、音の洪水が鼓膜を揺さぶる。色にまみれた景色のせいでモブは余計に褪せて見えて、もともと、ひとの顔を覚えるのに向いていない私にもう判別は不可能だった。
 目の周りをちかりちかりとカラフルな光が舞い散る。飽きもせず。

 もう一度、短く軽い息を二酸化炭素に溶かしてふと、気付く。
 顔を上げて辺りを見回した。不思議そうにテツヤが私を見、首を傾げる姿を視界の端に引っ掛けたけれどそのままに、見渡す。
 知らず喉を撫でていた。生唾を飲み込む音が大きく脳に響き、ぐわりと反響して、・・・気付いた。

 蛇が居ない。

 しつこく撫でるように滑るようにただ“在った”視線が無い。
 思えば、今までも彼等と、キセキの世代の彼等と居たときには視線を感じなかったように思える。今だって、羨望と嫉妬の入り混じった――――後者は女から送られる私とさつきに対する攻撃だろう、私だけにすれば良いのに――――視線はあれども、あの、恐ろしく無な視線だけは。
 溶けるように。
 廊下の奥へと転がっていってしまったように。

 無の視線が、無い。

「赤ちん、どしたのー」
「・・・・・何でも。ただ、楽に息をする方法を見つけただけだ」
「ふうん?」

 最後に残り香のよう、つむじをざらりと舐め取ったきり完全に、無の視線は消えていた。



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