※なんだかよくわからない




 持て余すように端末をいじっていたけれど、どうにもままならないなあとぼんやり思ってパコリ、気の抜ける音と共に携帯を閉じた。防水加工してたっけ、静かに思って、緩みきった思考をもてあましたままシュートのフォームに入る。ここからあの溜池に届くだろうか、とか、馬鹿みたいなことを思った。
 落ちるに賭ける。ボクのシュートは、入らない。

 唇を、噛む。静かに腕を下ろせば、だらりと垂れ下がったゆびさきは何も掴まないまま太股の横。
 行き場の無い感情が確かに荒れ狂っているのに、腹の底ばかりがいやに平坦だ。凪いでいるようで穏やかではない、狂っているが崩れそうではない。訳が解らないだけの感情が、がんがんと後頭部を叩く。

 足元にバスケットボールが転がっているのを見て、自嘲するような笑みがこぼれおちた。笑みにさえなっていなかったかもしれない、吐息にも似た乾いた音。最近は良く聞く音だった。
 携帯電話じゃなくて、どうせ投げようとするならこれにすれば良かったのに。自分の滑稽さに、切って張られたような笑みが歪む。
 歯をことばが割る、まるで自然に、奇麗に。

「ど畜生、」
「あれ、やめちゃうんですね」

 自然呟いていた悪態を覆うような、淡々とした声が後頭部に刺さった。誰も居なかった筈だ、けれど、確かにボクに話しかけている風な声はひとのもので、だが聞き覚えの無い誰かの。OBにこんなにも抑揚少なく話すひとが居たか、思いながら記憶をひっくり返してみるけれど、解らない。彼らと接点が少なかったというのもあるが、いやでも。

 振り返ってみる。やはり、ひとが居る。ひとり漂うように希薄なまま、溶けるようにして。
 消えてしまえばいいのに。ただ無感動に思った。溶けるようにこのひとが、ボクの目の前からいなくなってしまえばいいのに。
 思ったけれど何にもならない。そのひとはずうっと、ずっと、ボクの視界を埋めたままに飄々と微笑んでいる。

「誰ですか」
「ボクですか?え、んー・・・二号です」
「は、?」
「えーすみません今のは無しで。ええっと、カガミです。こんにちは」
「加賀美?」
「はい、カガミです。こんにちは」
「こんにち、は・・・・・」

 かがみ、になった途端歯切れ悪いというか不思議な、片仮名でも話しているような発音になるそのひとは、なんと言うかやはり薄い。存在感が希薄、儚く消えそう、であるのに肌が白いとか女らしいとかも、無い。こんなひとのことを何と呼べば良いのだろう。
 幽霊。だろうか。でも、そんな風でさえある。

「生徒じゃありませんよね。何やってるんですか、こんな所で」
「あんまりそう警戒心剥き出しにしないでくださいよ。ボクも正直焦っているというか、タイムマシンだったらボクここで生活すること決定じゃないですか、うわ、それは困りますね」

 意味の解らないことを言うひとだ。顔ばかりを見詰めたまま、何と言うことも出来ずにこんがらがった思考ばかりが脳裏にことばを散らす。口の中、狭いそこで舌が暴れたけれど、ことばを発する前に勝手にもつれた。

「ええっと、かがみ、さん」
「はい」
「どちら様ですか」
「え?だからカガミですけど」

 薄く笑みながら言うひとにきちんと答えてやろうとか、そう言った誠意は感じられない。ただ、居るだけ。そうとも取れる存在のしかた。

「・・・・・・そう言う意味では無いんですが」

 話を聞いているのか居ないのか、そのひとは溜池の金魚と戯れ始めた。指先によってくる真っ赤な魚を眺めながら、おー、等とたまにやる気の無い歓声を上げながら、喜んでいるのか僅かに目を細める。
 かがみさんの表情は解りづらいが、感情の欠落したように無表情なボクよりは少しはましに違いない。まだそれと解る表情を薄く浮かべては消し去っている、だけではあったけれど。

「君は、じゃあ誰ですか?肩書き込みでお願いします」
「は、かたがき?・・・・部活ってことなら、数ヶ月前に辞めました。今は一介の生徒です。―――黒子テツヤ、三年生、ですが」
「そうですか。ボクはカガミ、タ、ッツヤです」

 むせるように途中で詰まり、かがみさんは数度空咳を誤魔化すように繰り返す。うろうろと彷徨う視線が心もとなく中空をなぞって最後、ばたりと落ちた。

「タッツヤ?」

 それは個性的な名前ですね、皮肉るように付け足しそうになって慌てて食道に押し込んだ。今日はいつもより、しかも自分でも気付かないうちに、攻撃的なきもちになっていたようだ。かがみさんはどう見ても年上のようだし、そんなひとには見えないがへたに怒らせて殴られでもしたらたまらない。

「タツヤです。タイガではありません、ここ重要です」
「いや、たいがなんて言ってませんけど」

 溜池に片手を突っ込んだまま、困ったようにそのひとは軽く笑った。なんだ笑えるのか、何故か、当然のことなのにそう思う。
 希薄な笑みを取って付けられたように口角に引っかけ、目を細めるボクとは明らかに違う自然な顔のつくりかたがどうにも、羨ましい。何故だろう。

「あー・・・こっちの話です」

 平らな瞳が静かにボクを見詰めている。声も表情もどこか薄っぺらな、それでも襲ってくるこれは、既視感だろうか。
 このひとはどこかで、見たことがある。見覚えがある。思うのに思い出せない、頭の隅に引っ掛かって上手く出てこないようなむず痒さ。このひとは誰、なんだろう。緩んだ頭の芯を持て余したまま、鈍く思う。こめかみが痛い。

「それで、やめちゃうんですね」

 せりふのわりにかがみさんの眼はボクの手元を見ていない。まっすぐに、宇宙でも詰まっていそうなひとみをころころ転がしてボクを射抜くのだ。酷く平坦な声音だけをボクに届けて。

「何をですか」

 自然、抗うように首を振っていた。耳を塞いで蹲ってしまいたくなる。やめる、なにを。つづける、なにを。あなたが誰かさえ解らないボクが、ボク自身のことを解るわけがないのに。

 かがみさんは何も言わない。透けそうな肌を日光の下に惜しげもなく晒したまま、黙りこくっている。消えてしまいそうなほどの薄さで、確立していた。確かにそのひとはボクの目の前に立っていた。
 何なのだろう。何だと言いたいのだろう。噛み締めた奥歯がぎちりと、鳴る。

「何をやめるって言うんですか」
「・・・・・良いんじゃないですか?」
「ッ、だから!何が!何を!やめるって、いうんですか・・・・・!?もう何もありません。今更、やめることなんて何も無い。あなたは知らないかもしれないけれど、それでも、踏み込まれるのはすきじゃありません。だいいち初対面でしょう」
「そうですね、初対面です」

 苛々、する。このひとは解っているのにボクの踏まれたくない部分を踏みにじって踏み抜いて、居る。思う、そしてそれは正しい。不思議な直感だった。

「ただ、初対面ながらも知っているので。ねえ黒子君。君が思っているよりもね、多分、単純に送れますよ。毎日なんて」

 金魚を見、目を細め。彼は言う。断言してあげる。ひとみが語っている。
 単純だろうか。そう、だろうか。だってそんなに簡単なら、どうしてこんなにもボクはくるしいのか。

「金魚」
「うん?」
「金魚、すきなんですか」
「いえ普通ですけど。さかなだったらサンマとかが良いですね」
「それ、食用じゃないですか」

 ははっと、かがみさんは声を上げて一瞬笑った。本当にたのしそうに、うれしそうに、笑う。奇麗に笑う。やっぱりボクみたいにつくりものじみていない、自然に浮かんだ笑顔だった。目を細めて口角を緩める、淡い微笑み方。
 静かに見入っていると、ふいに彼のポケットの中に入っているのだろう携帯の着信メロディーが軽やかな音を奏でた。てのひらをポケットの中に沈み込ませて彼は軽く、首を傾げる。

「交響曲第9番ホ短調“新世界より”」

 言いながら、かがみさんは興味深そうな顔をして食い入るように画面を見ていた――「電波って時間を越えるんですかね」。
 え、思わず漏れ出た声にもまるで反応しないまま、無表情にかがみさんは視線を左右に揺らしている。画面上に浮かぶ文字でもなぞっているのだろう、平らなひとみには液晶の光が転写されて静かに泳いでいた。

 マイペースって言うんだろうか、かがみさんみたいなひとを。
 溜息を吐いて慌てて飲み込む。もう遅いかとは思ったけれど、彼は何も言わなかった。だからボクも黙ったままで居ることにして、心もとないまま彼の足元に視線を落とす。

「・・・・ドヴォルザークですか」
「そうですよ、勤勉ですね。第二楽章の冒頭です」
「遠き山に?」
「いいえ。響き渡る、のヴァージョン・・・・家路ですよ。今はその、遠き山に、の方が有名でしたっけ」
「キャンプファイアーでもするんですか」
「まさか、」

 あっでも悪くないかもしれませんね、とか、何とか言いながら機嫌良さそうに、かがみさんは少しだけ口角を上げる。無感動そうに見えて意外ところりころりと表情をつくりかえるひと、らしい。声音も淡々としているようで居て、例えば語尾のつくりかただとか、そんなものがひとつずつ違っている。

「――――・・・・電話、切れますよ」
「うん、そうですね。怒られちゃいそうです」
「出たらどうですか」
「そうですねえ」

 生返事をしながら緩慢な動作できょろり、辺りを見回したかがみさんはボクの足元で視線を止め、それ、と転がっている――――バスケットボールを、指差す。それちょっと貸してくれませんか。ことばに釣られるまま、さっきまで存在を忘れていたそれを拾い上げて彼に差し出す。ちいさく笑んだ彼は手にしていた携帯をもういちどポケットに仕舞いなおしてから、ボールを構えた。未だに音楽は鳴り止まない。

 それにしても変わったフォームだ。教科書では見たことの無い、何だろう。不思議なかたち。
 見入っていると腕がゆるりと動き、かと思えばゆびさきからボールは剥がれてそうして、

「はいる」

 彼が放つと同時、自然に呟いていた。入る。柔らかに空に浮かび上がるまるいボール、この確信にも似たきもちを抱きながら見上げるこれを、ボクは知っている。焦がれるように思いながら、ボクが繋いだのだと満ちたりもするあの、一瞬。
 知っている。忘れていない。忘れられるわけがない。体育館とすれあうバッシュの鳴くような音も、ネットを突き破るボールの軌道も、チームメイトの軽いハイタッチも、何もかもすべて。
 すべて。

 そうして、ことば通りに放物線を描いたボールが、――――溜池に落ちる。

「って何やってるんですかちょっと、そのバスケットボールボクのですし、金魚だって!」
「そこには居ないんで大丈夫ですよ」
「でも、じゃあボール、は」
「いらないんでしょう」
「っは、」
「やめちゃうんでしょう」

 宇宙じゃない。彼が飼っているのはただの真っ黒の穴だ。たちが悪い。重力が無いまま投げ出される。それとも黒い宇宙だろうか。
 悪くはないのかも、しれないと。今はまだそう思う。息が出来なくなるなんて、それってどんなに、甘美だろうとか。
 逃避だった。ボクはどこまで逃げ切れるのだろうか、そんなことばかりを考えている。

「あー、電話切れちゃってますね。折り返さないと面倒なことになりそうな、ううん、・・・・ええっと君、クロコクン、ボクそろそろ帰ります。帰り方解りませんけど」
「・・・・・・・まいごですか」
「迷子?どっちが」

 笑みを含んだ声がボクを射る。極めて鋭利なことばが的確に胸を抉って、回転した。思わず息を詰めたボクのことを彼は知っているのだろう、空間を静かに揺らすのは笑い声だった。

 吐きそうなくらいの思考、ただ、なりふり構っていられない。彼が溜池へと一瞬の躊躇さえ無く投げ込んだボールに向かって、手を伸ばす。洗えば磨けばどうにか使えるだろうか、拾い上げなければ。どうしてこんなに焦がれるようにして今更、いまさら縋ってしまうのだろう。もうすべてがどうでも良いのに。ボクにボールは必要ないのに。シュートだって入りはしないのに。
 なのに、思うのだ。馬鹿みたいに傲慢に、そればっかりを、思うのだ。

 すくわなければ、と。

「もしもし」

 申す申す、共に声が遠ざかる。笑うような声音で、のらりくらりとした調子で、きっとそのまま電話の相手を煙に巻くようにして話しているのだろう。
 溜池に向かって腕をぶらさげたまま僅かに顔を上げれば御辞儀だろうか、僅かに腰を折ったかがみさんがその体勢のままヒラリと手を振り、振り返って遠くへと歩いていった。どこへ、なんてぼんやり思ったけれど、きっと答えは出ていた。
 遠くへ。
 それは何故か解らない。ただ遠くだと思う。遠く。遠くへ、遠ざかるひとだ。

 ああそうだ、すくいあげなければ、
 と一瞬、バスケットボールを見ただけ。だと言うのに、ふたたび顔を上げたときもう彼の背中は見えなくなっていた。溶かされてしまったのだろうか、どちらがともつかずにそう思う。願いかもしれない。
 溶けてしまえ。



地図を裂く迷子者