テレビのなかでは乱雑なノイズが鳴っている。内容は、頭に入ってこない。母と子の涙を誘うドキュメンタリィ、ノンフィクションならば泣かせられるという安易でカラッポな有り触れたオハナシが完結する。名も知らぬ、見目ばかり気にしたアイドルだったかタレントだったかが顔を歪め、感動的でしたと有り触れたことばとともにぼろぼろと涙を流している。
 会場は静かだ。
 目を真っ赤にした芸人が軽くわらい、司会がポケットから取り出したハンカチで目尻を拭う。

「赤ちーん、おなかすいたあ」
「ん、六時半か。そろそろ晩飯にしようか」
「しようしようーオレあれ作るし、クリームパースター!イン、ほうれん草とサーモン。どや!」
「はは、おいしそうだね。・・・・だったら僕はカルパッチョでもこしらえとくかな」
「じゃあけってー。カルパッチョはきれいな鯛今日かってきたからそれ使ってー」
「オッケー。チルド室?」
「うん。ベーコンに隠れちゃってるかもだから発掘してね。つうか赤ちんめっちゃ粉チーズつかってるっしょ。もうなかったんですけどー」
「・・・・・・敦。卵かけ御飯に粉チーズと塩コショウ、カッコにんにく入りを投入して食べてみろ、いいか、食べるんだ。きっと僕の気持ちがわかる」
「赤ちんのマイブームまじ意味わっかんねえ」

 長い腕を面倒そうに伸ばした敦が冷房のリモコンを取り、どうやらテレビのリモコンが欲しかったらしくそれをクッションに投げ飛ばすのを横目に眺めつつテレビ自体の電源をきる。ぶつん、と無愛想な音と共に見えなくなってしまったどこまでもつくりものめいた哀しい空気と泣き声のようなノイズたちに、知らずふっと息を吐いていた。

「カルボナーラ味だよ」
「ちょい待ち。それまじ?」
「本当だよ。ただチックって言った方が近いかも。でも美味しいよ」
「んんー・・・メニュー変更。今晩はカルボナーラですうぅ。赤ちんに教えてやんよ、カルボナーラってやつを・・・・・オレの本気の、カルボナーラ・・・・・・・!」
「そう、楽しみにしながら鯛をさばくよ」
「あっうんよろしこー」

 狭く古いアパート。歩くたびにぎしりぎしりと床が鳴く。テレビだってブラウン管にチューナーを付けただけのものだ。
 それでも、すきだった。ふたりで出来上がるような一室が。ノンフィクションだからこそこんなにもいとしいのかもしれない、ふと、ドキュメントを皮肉るような気持ちで思う。

「カルパッチョのドレッシングって無かったっけ」
「どうだろ。まあ、あれじゃね、オリーブオイルでどうにかできた気がする」
「じゃあそっちはお願いしようかな」
「おけおっけ」

 ふたり、並べないような狭い廊下だ。廊下と言っても畳み一畳とすこしの短く薄暗い、みち。
 先にリビングへ入っていく猫背気味の背中を目で追いかけながら、目を細める。耳の底では未だノイズがこだましていた。

「アッハ、新婚さんみたあい」

 ひっこしかんりょういえこいや。

 メールが嫌いだと言い憚らない彼がつたなく紡いだ一行に、わかったとだけ返事して乗り込んだのが昨日の夜中のこと。春から独り暮らしはじめるんだよね、言葉通りに彼は独り暮らしを始めたらしい。
 まさか最初に呼ばれるとは思わなかったから、少し意外に思った。

 紫原敦と言う人間は極めて難解だ。フィクションであればと思う位に、面倒だ。
 僕が居ないとしんでしまいそうだと繰り返すくせに、僕が居るとおかしくなると叫ぶ。傍に、言ったことばに続くのは、来てと言う要求で無く、居させてと言う懇願であったりする。読めない、解らない。次の一歩が一手がまるで。こどもみたいに単純な癖に、変なところが冷静でもある。
 おおきなこども。それだけでは無いとはじめて突きつけられたのは、いつだったっけ。彼が僕に繰り返しただいすきのことばに、応え始めたのはいつからだったっけ。

「・・・赤司敦?」
「紫原征十郎ー。ウワアなんかかっこういー」
「正気か?」
「あかしあつしよりましじゃね?」
「まあ、百歩譲っても――――無いな」
「無いね」

 ノンフィクションが安易に涙を誘うのは、ノンフィクションであるから、だろう。
 ゆめものがたりのような。恋のはなし、奇跡の生還のはなし、友情のはなし、動物と人間の絆のはなし、フィクションにはありがちでも実際には無いこと。何故かひとはそれだけで感情を揺さぶられるらしい。

 泣けなくてもいい。
 涙もいらない。ただ思う。

 この世界ごとフィクションだったら。

「敦、それにね、結婚なんて不必要なんだよ」
「んー?」

 冷蔵庫を漁っている彼を眺めながら、手持ち無沙汰に流し台に腰を預けて声をかけてみる。野菜室を覗き込んでいた敦は一瞬、ちらりと僕を見て訝しげに目を細めた。

「だって敦、結婚って言うのはね、ある意味で枷だろう?一生のつがいとして縛るための、遺伝子を確実に残すための本能なのかもしれない」

 母子の絆の物語。ノイズまみれ映像が脳内を過ぎる。電源から切り落としてしまったあのはなしの続きは、何だろう。見たくも聞きたくも無かったが、ただ興味だけがある。
 現実は。果たしてどのような、えそらごととして締めくくられたのだろう。

「だって敦。僕はお前の子供を産めないもの」

 切り身の鯛が差し出される。無言で受け取って、後ろ手に開いた食器棚からてごろな皿を出し、食器洗浄機から包丁とまな板を引き出してみっつを並べた。

「・・・・・おんなのこかなあ、おとこのこかなあ」

 卵が打ち付けられ音。殻の割れる音がする。
 パカリ、クチャリ、音と共にボウルに落ちたそれをしげしげと眺め、淡々と敦はやったあと呟いた。黄身がふたつでも入っていたんだろうか。

「女だとしたら、僕に似てもお前に似ても悲惨だと思わないか?」
「じゃっ、おとこのこか」
「僕の顔した巨神兵とか、泣けるな」
「うは、泣いて無いじゃん」
「・・・・・・ほんとうのことじゃ、無いからな」
「、そう」

 鯛はどうやってさばくんだったっけ。三枚におろしてしまおうか。ただカルパッチョとしてそれはどうなんだろう、三枚おろし。

「かわいいよ」
「何が」
「赤ちんとオレのこどもだったら、すっげえかわいいって」
「―――・・・ふふ。親馬鹿になりそうだねえ敦は」
「なるなるー。甘やかしちゃうー」
「子離れしないと駄目だよ。こどもをそのまま抱き上げるような親なんて反抗されるだけさ。やっぱり、あれだね、伸び縮みするリードをつけているくらいで丁度いい」
「ここはいいよー、ここは駄目だよー、みたいな?」
「でないと、鬱陶しいだろう。抱き上げられない重さになったのに無理矢理抱えようとするから暴れられるんだ」
「なるほどー」

 敦に見えないように、そっと。
 下腹を撫でる。まったいらで、筋肉と皮しかない無骨な腹。僕は男で敦も男。まるで解り切ったありがちな当然は、酷くわざとらしい涙を誘う。
 司会者はポケットからハンカチを取り出すだろうか。否、嫌悪を顔面に浮かべるに違い無い。

 失笑ばかりが。

「赤ちん、良い親になれそうー」

 良かった。母親と、敦が言わなくて、良かった。
 膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

「そうかな、・・・・・・・・なれたら、良いな」
「・・・・・うん。」

 母と子のドキュメントは。チューナーで誤魔化されてデジタルに置き換えられたものがたりは、やっぱりどこか嘘めいていて、信じ切れない。嘘なんてほんとうだって言ってしまえば、大抵本当になってしまうものだ、諺だってそう言っている。

 大抵は。

「赤ちん、だいすきだよ」
「うん、僕も。愛してる、敦」

 上手くいかない現実の穴をどうにかしたくて、どうも出来なくて、馬鹿みたいにすきだって繰り返す。泣けるほどにノンフィクション。

「親になりたいわけでも、女になりたいわけでもない。男同士だと言うことに負い目を感じていることもない。周りの視線だって気にならない。――――ただ、思う。お前のこどもが産めたらって、たまに、・・・思う。黄身がふたつがおかしいことでも、僕にとっては幸福なんだよ、たぶん」

 何で僕の腹はカラッポなんだろう。何かを宿したいわけでは無いのに、そればかり。

「赤ちん。赤ちんのなかがぜんぶ赤ちんならさ、オレ、いーんだよ」

 ただ、敦は言った。

「カラッポじゃないよ。こどもとかオレ、いらないよ。いたら楽しいねってはなしをするのは、いいと思う。実際ぜったい楽しい。でもね赤ちん、オレ、何ていうかね、違うんだ。ねえ赤ちん、いいんだよ。しあわせだったら、ふつうっていう方向からみておかしくても、構わないんだってば。オレしあわせだよ赤ちん。赤ちんが直ぐきてくれてうれしかったし、一緒に寝てくれてしあわせだったし、それに、っ・・・・・・・赤ちん」

 あーもう、なかないで。
 確かな体温が、参りきった声で言いながら僕を包む。

「あつし」
「うんわかった」
「はっ?」
「赤ちんっていろいろ考えちゃうでしょ。だからわかった。もうわかったってかオレきめた。赤ちん、ちょっと今すぐ実家へゴー」
「え、なにするの、何するつもりなんだ」
「ちょっと紫原がんばる」
「何、なになになに何なんだ」
「こどもはっ、さすがに、無理だけど、さ!」

 ぐっと、腰に回った腕のちからが強くなる。流し台に腰を預け抱きしめられながら呆然とする僕、シュールだ、何て思ったのも束の間のこと。
 重そうな瞼を柔らかく引き下げ、軽く笑って敦は僕の額にくちづけて来た。

「うそからならぬ、冗談から出たまことです。赤ちん結婚しよう。むらちんになろう・・・・室ちんとかぶるね?らむちんにする?」
「え、え、何が、は、おちつけらむさき」
「だいじょぶー?ってっか、マジだっつの。もうマジです。赤ちんがどうしてこどもとか言い出したかはわかんないけど、でも、何つうの。虚しくなっちゃうのはわかる。わかるから、埋めちゃえばいいんだ。遺伝子じゃなくてもしちゃえばいいんだ」
「な、っにを」
「結婚」
「、らむむらハッ」
「落ち着いて赤ちん、落ち着いてマジで。そして聞いてください。流し台でたまごとか鯛とかあるけど聞いてください」

 僕がさっき無意識にふっと吐いていた息を、こいつが吸ったんじゃないだろうか。なんて、思う。
 おおきくおおきく息を吸って、敦は僕に回していた腕を肩まで引き上げ、抑えた声で告げた。

「結婚しよう」
「あつ、し」
「海外行こうんで結婚しよう。まだにほどきしてないし問題なさすぎるって言うか金ならあるっていい声でいえる状況だしオレ」

 卵のボウルに指先を引っ掛けてしまって、流しに中身がぶちまけられる。横目でちらりと見やれば、ふたごの黄身は。
 意外にも、と言うかみっつ、だった。ひとつの卵に黄身みっつとは、まさかの裏切りである。現実とは何が起こるか解ったものじゃ無い。

「あっ、泣き止んだ」
「泣き止むだろ」
「ですよねえ」

 カラッポじゃあ無くて、腹の中は僕ばかりだと。敦はそう言う。

「紫原征十郎、とか、意外にいいんじゃナーイ?」
「ばっか、・・・・赤司敦で噛む、でファイナルアンサーだろ」

 ノンフィクションの僕の世界はえそらごとはどうやら、この男によって始まるらしい。
 目を赤くした芸人が笑い転げる声を僕は確かに、――――聞いた。



ノンフィクションドリームズ



 知ってるか、全部現実なんだよ。ああもう泣いてしまいそうだ。現実だからこんなにもいとしい。