※ぬるい絞首注意/何だかいびつ
水を含ませた紙のような雲を申し訳程度にひっかけた空は、とんと広く目前に広がる空は、冬よりも青を濃く溶かし込んだようだった。
屋上に吹く風は、地上で感じるそれよりもなんだか冷えている気がして、くうと吸おうとした息が、呼吸が阻まれて軽く咳き込む。
他の建物よりも少しだけ背の高い古ぼけたビルの屋上から見えるのは、空、だけ。あと何かがあるとすれば、おれに覆い被さるようにして圧し掛かってくるおとこの身体と、それが有する毒々しいほどの赤だろう。
美しい。
青と白と赤。瞳の橙。今、おれの世界の色はたった四色だけで構築されている。甘美なのか末恐ろしいのかも良くわからなくて、名づけがたい感情に良いながらふうと笑みを吐息に乗せた。
「あ、」
語りかけたのではない、意味さえない五十音のはじめの音が唇の端を伝って落ちた。喉に食い込んだ指が軽く跳ねて、ただ景色を網膜に滑らせるだけだった赤司は初めておれに気がついたように目を瞬かせた。
こたろう。と、彼は言う。柵におれを縫い付けて、赤司が絞めるおれの首を頭を道路へ―――屋上から一気に突き落とせるだろうってくらい空中へ投げ出させて、しらりとしている彼は言う。
「屋上と言うのは風が強いね、小太郎」
何でこうなったんだっけ、とか思ってみたけれど、良く解らなかった。どうしてそうもいろんなことに拘りながら生きるの、と、世間話の続きで問うただけだ。その結果がこれ、だ。
おれは考えないでことばにしてしまうことが多かったから、何かがうっかり赤司の琴線に触れてしまったのかもしれない。
引きずられながら思って。柵に向かって突き飛ばされて、気がつけば、気道が塞がれていて。今にも屋上からぽいと捨てられてしまいそうな状況。
睫の先に倦怠を引っかけてうっそりと笑う赤司は、やっぱり美しかったけれど。それだけが救いなのかこんな状況で笑む彼に怯えるべきなのかは、何と言うか、解らなかった。赤司はいつも正しいのだと言うことは、教えられずとも知っていたから。
おれがここで彼にどうされようが、正しいことに違いはないんだろう。だったらもう、彼に任せておけばいいだろう。
とか。何とか。おれはもしかしたらばっかみたいに混乱しているのかな。そりゃあいきなり首を絞められるとかどれだけ生きようがあまり体験できないことだろうし。
ねえ、酷く優しい赤司の声が首裏を伝って滑り落ちる。ぞくぞくと背筋が震えたのは、情欲を覚えたからじゃあない。
背筋を這い撫で回したのは確かな恐怖だ。
「生きたいかい、小太郎」
両手を挙げて空を見下ろすおれの前、真っ青に割り込んできた真っ赤は艶然と微笑んで甘く囁いた。そのさまさえみればおれたちは睦みあっているかのよう、であるのに、赤司の声の芯はぶれることもなく凍り付いている。
何となくそれが解って、誤魔化しのことばの代わりに曖昧に微笑んでみた。若干気分を損ねたらしい、首元に絡みつく指先がわずかに緩んだから、慌てて赤司の手首におれの指を絡ませて拘束する。
「わかんないよそんなこと。赤司は、ねえ、おれに何を言わせたいの」
「問うて居るのは僕だ」
「う、ええ、え・・・・・?」
左右にからだを軽く揺すぶられて、くっと気道がふさがり息が詰まる。吐き出されなかった二酸化炭素が肺の中、淀んだままくるくる回っているのが解る気がして、知らず胸のあたりを赤司を拘束している手とは逆の手でかきむしった。
くるしい。
ぼんやりと、思う。おれの首を緩く絞めて屋上の柵の外へ向けて仰け反らせている赤司、は、おれと比べるとちいさいし、思いっきり突き飛ばせば逃げ出すのは簡単だろうと思う。
けれどもそれをしないのは、できないのは、どうしてだろう。
ただ無抵抗なまま、おれは赤司にすべてを任せてただ屋上から上半身をつるされている。ふたつ、男の影がぴたりと重なる光景は、校庭からはどんな風に見えているのだろうか。
はく、喘ぐように息をして、鈍く痛む頭をもてあましながら目を細めた。青、白、赤、酷く単純な三色で作られた視界が片っ端から液状化してぐうにゃりと歪んでうまく思考がまとまらない。
申し訳程度に彼の手首にひっかけた指先が跳ねると同時、またきつくなった拘束に首が絞まる。確実に軌道を塞ぐ指先の白さが、細さが、何よりもボールを操る手つきがまるで鮮やかに想像できてしまって、さっきとは違った感情とともに背筋が震えた。
「死に掛けた経験は」
「はじめてかなあ、っはは・・・・初体験ってやつー?」
「戯言」
「ヤダ、てっきびしー」
ぞくぞくと、する。確かな高揚。胸を今にも破って出て行きそうな感情に突かれるままにいと歯を見せて笑えば、ふと目を見張ったあと赤司もおれの真似をするように口角を歪めた。
笑っているわけではないみたいで。
苦しいのはおれの方なのに、少し、赤司の方が苦しそうに見えてしまう。それは反則だよとか思う。
ああでも今ここで赤司に屋上から突き落とされても、冗談だよと高く笑いながら解放されても、おれが抱く感情はひとしく、『許容』、なのだろうけれど。予測じゃない、確信だ。おれはきっと赤司のことを憎むことももなく詰ることもなく、そうかお前はそうしたかったのかとただそれだけを思うって彼の行動の総てを受け入れるんだ。
「小太郎。苦しいか」
「ああまあ、うん、結構きついかなあ」
指の腹が愛撫のように喉をくすぐり、かと思えば甘さの欠片もない短く切りそろえられた爪のさきが喉の血管のあたりの皮膚を抉った。ぢりと走った痛みに目を細めれば、何が可笑しいのだろう、くつりと喉を鳴らして赤司は満足げに笑う。
「生きたいか、とか、わかんないよ」
「何だ、そうなのか」
「そーだよ。おれ、赤司みたいにバイオレンスな感じに世の中見てないもん」
「ふうん」
気のない返事をして、聞いているのかいないのか、上向けられた赤司の瞳は果たしておれの見る青と同じ青を識別しているのか。
そんなのずうっとわからないまんまだろう。おれが青だって思ってる色が、他のひとも青だって言う色が、もしかしたら誰かの目にはおれの思う紫として見えているのかもしれない。おれの思う紫のことを、そのひとは青だって思っているのかもしれない。
頭がこんがらがりそうなことだけれど、そう言うの、案外ありそうな気がする。誰かの眼球を通して景色を見ることは一生できないんだから、阿呆らしいと言い切ることだってできない、とか。
おれの頭は結構面倒くさくてどうでもいいことが詰まってざくざく脳に突き刺さってる。赤司だってまあ、そんなもんだろう。
「じゃあ小太郎、今何を考えてる?古いビルの屋上で下の道路に人通りは少なく、だと言うのに部活の後輩、一年生に首を絞められ今にも己の身体は柵を乗り越え落とされそうで。命を他人に握られて、お前は今何を考えているの」
すらすらと、まるであっさりと、今の状況がまるで真上からでも見えているんじゃないかってくらい滞りなく言って、赤司は少しだけ首を傾げる。
視界の端が歪んでいるのはそろそろ酸欠だからだろうか。明確な殺意など赤司からは読み取れないけれど、首の拘束は確かに柔らかく恋人でも相手取るかのように優しかったけれど、じわじわと締め続けられれば流石に苦しさも感じるらしい。
赤司が笑う。それだけで、おれの胸にふたつしかない肺が震えた。
あ、違うな、震えたのは心臓だったのかもしれない。
「奇麗だなあって、思ってるよ」
「・・・・・空が?」
「んな情緒的じゃないってー。赤司だよ、目の前の君、ユー。御分かり?」
「、常々思っていたが、お前、幼少期にどこか頭をぶつけたりしたのか」
「アッハハハ!」
恋をしている。目前の、突然に首を締め上げてきたかと思えば起き抜けの警戒心の欠片もない姿を晒しもする、酷く危うい少年に。
いつだったか初めてコートで向き合ったときからずっと、恋をしている、のだと思う。
「・・・・・・・・、そっかあ。お前はいっつもこうなんね」
ぶづりと大気にことばを刺せども、赤司は動揺しない。ただふと空を見上げ、眩しそうに目を細めて見せただけだ。
生きたいか。解らない。苦しいか。それはもうかなり。何を思う。苦しくて上手く思考できない。
どうしてそうもいろんなことに拘りながら生きるの、聞いたおれに返された不可解で犯罪一歩手前の行動。これが、今お前が思うすべてが僕の答えだと静かに赤と橙の瞳は語る。僕はだから生きている。だから拘っているのだと。
死にたくないから、生きている。
例えば赤司の生きる理由が、ストイックとかそう言う次元じゃないほどに拘る理由のひとつが、それだとしたら。かなしい以上に、―――ただ、空虚だ。
「それでも奇麗だと言えるのか」
赤司のからっぽを埋められないなら、せめて、ばっかみたいに巨大な絆創膏とかでくるりと覆ってやれたらいいと思う。
けれどおれにそれはできなくて、赤司もそんなこと許してはくれない。だからふたり、身体同士が触れ合うほどに近くに在っても、お互いの体温が溶け合って同じなまぬるさになっても、おれたちは抱きしめあうことすら出来ずにひとりとひとり、だった。
ああいきがおもったとおりにできないというのはあんがいくるしんだなあ。
「赤司、お前がどう思おうとね。おれのすきな色はいつだってうざったいくらいの真っ赤なんだよ」
首に回された手に触れて、手の甲に爪を刺す。赤司に痛がる素振りはなかった。
だから身を乗り出して、ぐっと彼との距離を詰める。緩くかけられていた指に自分から突っ込む形になって息が詰まったけれど、何かもう、そう言うのはどうでもいい。
ただ、苦しかったから。
赤司の口内にある酸素を食った。
「悪趣味だな、」
一瞬、合わさった唇に対して軽く毒づくそのひとの瞳にやはり感情らしい何かがくゆることはなく、淡々と吐かれたことばには笑みだけを返す。赤司が吐いた溜息はゆっくりと広がって、鮮やかな赤の軌道を描いてべったり地に落ちた。
「絞首ちゅーとか、ハイレベルっしょ」
「マゾヒストだとは思わなかった。否、確かにサディストにも見えなかったけれど」
「赤司はマゾっ気全開だよね!」
「何だ、酷い言い草だな」
胸を突く。赤司の胸の真ん中を突く。まるで抵抗もせずされるがままだった身体はぐらりと背後に大きく傾いだけれどそれでも倒れることもなく、ただ、おれの首にかかっていた彼の指が外れただけ。首の薄い皮に最後、確かに爪を立てられたけれどもそれだけだ。
赤司から逃げることは、案外、簡単にできた。
「、ふふ」
青を背にして、赤司は立っている。
ついさっきまでひとの首を絞めていたとは思えない手はだらりと両脇に下げられて、緩く握りこまれたてのひらは最早何も掴んでは居ない。ただからっぽになった掌をそれでも握るのは、ねえ、赤司どうして。
その指先は冷えているのか。冷えているのだったら今すぐにでも駆け寄って、彼の手を握るのに。とか思う。
それをしない、できない、のは、弱さではないと信じたい。
「すきだよ!」
だから高らかに。立てた人差し指を青空に突っ込んで、かき回して、赤司みたいに世界の色彩を全部魅了できる自身はないけれど、それでもおれの精一杯を持って高らかに。
宣言する声は果たして、おれの周りの大気くらいなら虜にできただろうか。
「おれは赤司、お前が!すきだよ!」
じんと首が痺れている。きっと、彼のてのひらの形が赤く残っている。それさえ愛しいのだから、こんなにも爛れた感情が恋でないわけがないだろう?
笑いながら両手を開く。左右にぐんと。腕に空の青が落ちて、まだらな青を肌に残した。
赤司はおれの両腕では閉じ込められないと知りながら。柵に腰を預けたまま空を振り仰いで、やっとさかさじゃあなくてまっすぐに出来た頭から身体へと溜まっていた血が流れ落ちるのを感じながら。
、笑った。
「だって赤司、お前居る世界がこんなにも美しい!」
お前に首を絞められ地面に頭を向けさせられなければ、空を見下ろさなければ。おれはきっと今日の空の青さを知らなかった。
間近で、睫同士が絡まりそうなほど近くでお前の瞳を覗き込むことがなければ。お前の橙の瞳が時折黄金に近い色をして瞬くこともあるのだと、きっとずっと知ることはなかった。
「なあ、そうだろ!」
やっぱり思った通り、おれは赤司の総てを許容してしまっている。受け入れて、好き勝手解釈している。何かそんなのでいいんじゃないのと思うから、笑うだけだ。死にたくないから生きている。空虚だ。だから何だ。
生きたいから生きるも、死にたいから生きるも、赤司がおれのとなりで息をしてくれる動機になるのならもう何だって構わない。
真上に広がる、くどいほどに鮮やかな青が、たとえ赤司の目にはおれの思う灰色に見えていたとしたって。それでもやっぱり青は、おれの目に映るこの空の色だと言い張ってやる。だってその方が美しい。お前の青は違うんだぜと、何度だって説き伏せてやろう。
「・・・ねー赤司。『生きたいかい』?」
「そう、だな」
こんと他よりも高い位置にある古ぼけたビルの屋上。遠くで聞こえる音は、何だろう、クラクションだろうか。
赤司はゆるやかに笑っていた。
屋上でふたり向き合っているのに、もう、体温が重なることはないままだった。
「解らないけれど。それでも、今なら未だ、生きていられる気がするよ・・・・死にたくないからではなく」
彼も両手を開いて、空ごと抱きしめようとするかのように広くおおきく左右に伸ばした腕が風になぶられることを許しながら、晴れやかに笑って。恐らくここでただひとつ、彼のそんな姿を酷く美しいと思うおれの瞳だけが狂っている。
赤司の髪は、碧空の色をしていた。
真上に広がる空はいつだって、おれと赤司を押しつぶそうと躍起になっているのか隅から隅まで真っ青だ。
目を閉じるだけで、身体に受ける風が増えたような気がしてくる。太陽の光は冷えた風とは違って春の、ともすれば初夏のぬくもりを宿していて、無防備に晒した肌にその日差しは柔く焼きつく。
生きていられると笑った彼の胸の底なんか解らないから、ただぼんやりと願う。彼の左胸にあるはずの心臓がきちんと正しく脈動を繰り返していますようにと、馬鹿馬鹿しいとか笑い飛ばせるわけもない願望をことばにしないままで願う。
おれの手は、柵の上でぶらぶらつられている赤司の身体を一思いに突いてやることはできないから。頭に血が上ってこめかみがぎぢと痛む、さかさにつられる気持ちも本当の所で解ってはやれていないから。
そうしておれの手では、そんな赤司の身体を抱き寄せてやることもできない。
できないのにおれは、おれは、赤司に恋をしているのだ。
「赤司ー」
「何、」
だからそっとキスをする。唇を合わせるだけの稚拙なそれが、人工呼吸だとは思えなかった。
永遠はおれが殺した
←