くわり、木吉の隣で日向が欠伸をする。その後も目を細め眉を寄せ、解りやすく眠そうにしているのが可笑しくてたまらなかったが、笑ったが最後浴びせられるであろう罵声を考慮して木吉は口角に力を込めた。わざわざ飛んで火にいることもない。
廊下は放課後の喧騒に溢れ、不快ではない騒がしさが鼓膜を突く。思わず破顔しそうになる自身の口角にさらに気合を入れてやりながら、木吉は誤魔化すようにぐんと伸びをした。
「最近やっぱり、あったけえよなあ。春だなー」
「うわ、三年になるのかおれら」
木吉が朗らかに言えば、日向は露骨に眉を寄せて首を降る。
あと一年。過ぎることばはそれだ。俯きがちに張っている日向の首裏を見下ろしながら、木吉はぐうと腹に力を込めた。残り一年を、もっとこうすればよかったと後悔することのない一年にしたいのはおれだけではないのだろう、思いながら。
「ははっ、この前入学した気がする」
「おれもだよ。ああ一年が短い短すぎる・・・・」
「だなあ。日向の主将も板についてきたし」
「そーかあ?」
乱雑にことばを放って少し早足になった友人の耳が赤く染まっていることを目ざとく見つけて木吉はついに噴出した。鳩尾に入ってきた拳を器用に避けながら、ぽこぽこと沸いてくる笑みに抗うこともなく笑い続ける。
自身の体がどうなろうと変わらない日々が、どうしようもなく愛しい。
「ほら、部活部活。笑ってんなよはやく行くぞ」
「うん行こうなー」
「何なんだよマジで!」
木吉は花宮に逢って気づいたことがある。
すきだからこそ。花宮は出来ないことが歯痒いから、ならばと本当に出来なくなってしまう前に自分からバスケットボールと言う競技を切り捨てた、と言うその願望じみた推測が正しいとして。
自ら切り捨てるなんてこと、おれには無理だと木吉は思うのだ。プレーが出来ても出来なくても、関係ない。ここに、誠凛に居たいと思う。コートにはもう立てなくても、ならば精一杯支えたいと背中を押したいと。
それを知ることが出来たなら、なるほど、彼との接触は本当に何も得られなかった訳ではないのだと知る。捜した理由は今となっても解らないままで、やはり逢わなくてもよかった存在ではあったが、逢ってなおそう思えるほどでもなかった。
難解な自身の胸の内をもてあましながら、不思議なおとこだ、日向に聞こえないほどの音でそう木吉は呟いた。
(逢えてよかった。)
少しだけ、思う。本当に少しだけ。
「新入部員、入るかなあ」
「さーな」
いつかの一年生のことばをなぞって笑った木吉を一瞥して、興味なさそうに日向は肩を回し、彼はそのままの動きの流れに乗って、木吉の背中を叩いた。
「まあどうなろうが頼むぜ、マネージャー。おまえもうちの部員なんだ」
日向は木吉を哀れまない。―――誠凛の全員、誰も木吉のことを哀れんでなど居ない。優しいからこそ伺うけれど、案ずるけれど、それは決して神経を逆撫でするような同情からくるものではなかった。
時折背に刺さる感傷を含んだ視線は、決して同情から来るものではなかったのだ。
木吉は笑う。今更気づけた事実が多いことが可笑しくてたまらなくて、窓から差し込んでくる春の陽気があまりにも暖かいのが嬉しくて仕方なくて、笑う。
悪くない。
バスケが出来なくなってしまったこんな自分も、木吉が想像していたそれよりも悪くはなかった。
そして同日、花宮真は学校に対して退学届けを出した。これも尾ひれの生えているだろう噂だったのだが、木吉は彼は本当に居なくなったのかと言うことを確認しには行っていない。
夜の残骸
どこ行くん。
それは一笑して彼の肩に手のひらをぶつけ、数度揺する。呼び止められた彼は怠惰に瞳を傾け、視界がとらえた胡散臭い笑みに盛大に顔を歪ませた。
どこへ行く、とそれは繰り返す。何を聞きたいのか何を考えているのかよく解らない、感情の読み取りづらい笑顔に夜の街のネオンライトを散らし、彼の肩に指を刺して。
その様子を見、彼は嘲るように笑った。バッカじゃねえの。両手を広げて気取った動作で肩をすくめる。
「どこって?」
誰かに指定された才能の限界が今はもうない。どこを目指すことももう必要ない。
不自然なほどに軽くなった心があまりにも自身に似合わないことを自覚してしまって余計に、愉快な気持ちになってくる。
自身が誰かにして来たことに対して弁解じみた回想をする気はなかった。詫びて許されるようなことをしたなんて思っては居ないし、そもそも申し訳なさなど抱いていない。どこへと問うたおとこは彼のそんな様子を咎めるでもなく、彼のことばを反芻するように細い目を更に細くして笑みを深める。
「生憎と、今ならどこへでも行けそうでね」
行き先は決めていない。包帯だらけの足は重い。散々だと揶揄して彼は眼帯を指で弾き、カラリと軽い笑顔を浮かべた。
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