※流血表現は有りませんが、「怪我をしている」描写があります
「よお」
そうして花宮は転がっていたボールを拾い上げ、腰と手首の間に挟みながら気だるげに木吉の方に近寄ってくる。不自然に引きずられた足に絡みつくのは―――そのほとんどがジャージに隠されて総ては見えなかったが、―――ただでさえ白い肌以上に真っ白い布。
僅かに香るのは消毒液のにおい。
張り付く真新しいガーゼは左頬を覆い、その延長線上には眼帯が片目を隠していた。髪が少し伸びているだろうか、ばさばさと長い髪を鬱陶しそうにかきあげている。
身体は少し、細くなっているようだった。
「何やってたんだ」
「・・・・バスケ」
「へえ」
顎に伝う汗を拭って、花宮は細く息を吐いた。熱いのだろう、胸の辺りのシャツをはためかせて風を送り込みながら胡乱気に木吉を見上げているが、その視線に気づいていてもなお木吉はにこにこと笑顔を崩さない。
半眼のままぐるりと首を回した花宮は、そんな彼に対して苛立たったように舌を打った。
「居なくなったって聞いたんだけどな」
舌打ちを奇麗に無視し、居るじゃないか、と木吉は笑う。眉を寄せながら花宮も笑った。さあな。
「部活辞めて、学校行ってねえだけ。おれのアタマの活かし方はそれなりにあるんでね」
はぐらかすように声音を弾ませる彼に何故ここに居るんだとは聞かないことにする。花宮はそれをして欲しくなかっただろうし、もしそう問うたとしても、もう来ないさとやはりはぐらかすように笑いながら花宮は木吉に背を向けるだろう。
そんなことは解っていた。だからふたり、待ち合わせもしていないしそもそも友人でも何でもないのに、まるで何かのまねごとのようにぽつりぽつりとことばをぶつけあっていた。
「そうか」
「そーなの」
妙に間延びした調子で言って花宮は笑う。
本当に今日はよく、笑う。
「おまえは。もうぶっ潰れたって聞いたんだけど」
「ああ、今はマネージャしてる」
「ふうん。マネージャー、ね」
「・・・・霧崎の奴等にも逢って来た」
「、へえ」
瞬間少しだけ揺れた彼の眼球には気がつかないことにして、変わった奴等だったよなどと意味のないことばで沈黙をふさぎながら木吉は後頭部を掻いた。
不自然ほど片足に体重を預けきった体勢で、花宮は先ほどから笑みを絶やさないままに木吉を見上げている。その姿勢のまま、包帯の巻かれたほうの足を一度だけ地面に軽く叩き付ける。
サインにも満たないものだったけれど、もう花宮は、コートの上で試合が出来ないのだろうと、そこでやっと木吉は確信した。そんな彼の、僅かに動揺の走った顔を見て満足げに目元を緩ませる花宮の姿がさらにその確信を裏付ける。
居なくなったと聞いた。潰されたと聞いた。けれどせいぜい入院していることをひた隠しにしているだけだとか、怪我が治るまでは部活に出て弱みを晒すようなことをしたくないだとか、そう言った至極花宮らしい理由で雲隠れじみたことをしているだけだと勝手に思っていた。否、思い込もうとしていたとも、言えた。
けれども違ったのだ。だって、木吉の目の前に居る花宮はもう、プレーできる状態ではない。脚だけなら木吉のように無理さえしなければ完治するかもしれないが、果たして目はどうなのだろう。
治ったとしても、そう言うものは後遺症が残るのではないのだろうか。だから花宮は治ってもなお出来ないことを突きつけられる前に、自分からバスケを切って捨てたのではないのだろうか。
すべて推測だったけれど、不思議と正しいと、思う。確信と裏付け。花宮は本当におれのことがきらいらしい、思った木吉の視界が不自然なほどに像を結ばない。
「おれの膝」
「、ん」
「潰したことに、理由、あるか」
「・・・・あったって言ったとして。何」
「興味だよ」
「―――酔狂な奴」
酔狂か。笑ってみる。木吉の笑みの意味を知らない花宮は首を傾げ、訝しげに彼を見た。しかし微動だにしない木吉の笑顔を前に数秒と経たずにまた視線を逸らせて息を吐く。
「まんまだよ。壊れちまえって思っただけ」
ぱきりぽきりと、中心が折られる音を聞いた。途端真面目にやることが阿呆らしくなった。だってそうだろう、絶対に超えられない自分以上の存在が居る。だって所詮おれは無冠。
諦めるのは思ったよりも簡単だった。
だがその後、すべてをないに等しいと扱われ同じような目にあったはずのそいつが、まるでまだ折れていないように変わっていなかった木吉が憎かった。ずるくもない、暴力に訴えない、ただ自身の力のみで戦う普通のプレーをまだしていた、そいつが。
「おまえがきらいだったから」
静かな声音は夜気に不思議とよく馴染む。
たった二言に込められた思いを、どこまで木吉がくみとれたかなど花宮は案じない。どうでもよかった。
きらいだから、壊れちまえって思ったから、潰した。それだけで充分だ、おれにはその汚さが似合いだと彼は思う。だって悪いことをしたとは思っていないのは本当だし、一生詫びるつもりもないのだ、弁解も言い訳も必要なかった。
「うん、そっか」
花宮の声を聞きながら、木吉はふと夜を見上げた。先ほどよりも星の光は濃いようで、鈍い光は確かに網膜を突いて来る。
「おれもおまえがきらいだよ」
「だろうな」
本当に、木吉は花宮に逢いたい訳ではなかったのだ。それでも今、木吉の目の前に居るのは花宮で、ことばの最後を空気に溶かすようにして静かに話すおとこは確かに居なくなったはずの彼。
本当に逢いたがっている奴等の前には決して姿を現さないところが花宮らしい、とさえ思ったけれど。胸に満ちるこの、決して好意ではない柔らかな感情を何と名付けてやるのが妥当だろう。
深くなる夜のさなかで、まるでふたりしか居ないような気がしてくる。錯覚だった。
「どうするんだ、これから」
「どうするって?」
「いや、何をするとかどこに行くとか、あるのか」
笑ったのは、―――花宮が少しだけ先。
「ねえよ」
触れられるほどの近さに居るおとこの肩がずっと遠くにあるような気がして、木吉は指を内側にゆるく織り込んだ。少しその指を開いて花宮の腕を掴む、それで何が変わるとも思えなかったから。
「なあ花宮」
「うん?」
何も変わらないのに。
もうお互い、出来ないのだと知りながら問うことは、きっと酔狂ではなくて不毛と呼ぶ。
「バスケ、まだすきか」
花宮は記憶の中に居る少年のように笑いはしなかった。けれども真っ直ぐに木吉を見て、ひとつだけになってしまった真っ黒で彼を映して、言うのだった。
「ずっとすきだよ。何、お前バッカじゃねえの」
真空の真っ黒の瞳が、ゆるり、瞬く。夜よりも毒々しい、鮮やかな黒が木吉の顔をくにゃりと歪ませて瞳に映し込む。
声音は淡々としているのに暖かくて。
何故だろう、木吉はそのことばを聞くためだけに彼を捜していた気がした。
「、そうか」
「ん。当然だろ」
「・・・おれもだよ」
「そーかよ」
気のない返事を最後に、花宮はゆっくりと歩き出して木吉の横を通り過ぎる。木吉の脇を撫ぜる風、そのままコートから出て行くのだろうと知れた。そうしてもう二度と足を踏み入れる気がないことも。
呼び止めようとは思わない。だから木吉はただ、今日何度目になるだろう、真上にある空を覗き込む。星は明るい。
月はなかった。
「そうだ、なあ、」
「ん?」
意外なことに足を止めて、また語りかけたのは花宮の方だった。振り返りはしなかったけれど、ただバスケットボールを抱えたまま真っ直ぐ前を見るだけだったけれど、長い毛先が風になぶられるのも構わずに、彼は名前を音にする。
木吉。
恐らく今日始めて放たれた木吉を呼ぶ花宮の声は、少し、語尾が掠れていた。
「お疲れサマ」
木吉の視界の隅、黒髪が揺れる。はなみや。呼ぼうとした名前は音になりきらずに唇の端を転がり落ちて、白のラインに消えた。
だってそれは、お疲れ様と言うその短いことばは、もう飽き飽きするほどに木吉に突きつけられ続けていた同情でも慰めでも惜しむことばでもない。
潰れたの、へえ、じゃあ今まで勝手に頑張ってたんだ。それはお疲れ。
それは花宮らしい皮肉であり、解り辛い少しの優しさだ。同情は飽きたろうと言う嘲笑。それは不思議と心地いい温度で木吉の胸を叩く。
花宮が姿を消そうとしている意味は未だ知らず、ラフプレーを続けていた意味も報復を甘んじて受け入れていた理由も知らない、知りたくはない。
だからすべてだった。
花宮がバスケがすきで、そんな彼が木吉に対して言ったお疲れ様と言うひとことだけが、今木吉が知っている花宮のすべてだった。
逢ったから、何を得た訳でもない。むしろ木吉が花宮から奪われたものはあまりにも大きい。
それでも木吉が今日と言う日まで、花宮をずっと捜し続けて居た―――結果が理由が、これなら。
「はは。これからも頑張るさ」
「あっそー」
今度こそ歩き出した花宮の背中はすぐにすっかり夜になってしまった風景に消えて行く。痩せた背中に浮き出る肩甲骨がいやに不健康そうで、栄養について口を出しておけばよかったかなあと今更のように木吉は思う。
またいつかとはどちらも言わないままだった。
だからじゃあなも聞いていない。
星の底に棲んでいる・後編
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