居なくなった、と聞かされて、半月ほど。花宮が本当に居なくなったことを木吉が確認し終わってからもそれくらい経った。
毎日と言っていいほど部活漬けの日々を送り、帰りにはただマネジメントをしただけでもくたくたになりながら帰路に着く。ひとり、かえる。
そしてふと、彼を思う。それがここ二週間ほど木吉の習慣になっていた。
(逢いたくはないんだけど、な)
けれども捜すと言うこれは、矛盾と呼ぶに違いない。
ここ半月、本当に、木吉は自分の知らないところも―――花宮の知らないところも、よく知る。
だから何と言うわけでもなかったが。
空には星がちらちらと輝き始めていた。白っぽいものが多いだろうか、そのちいさな点の中に青や赤、たまに橙にかがやくものも混じっている。どれが何座何星だと言うのを知らないまま、ぐんと高く空を仰いで歩くのはいささか滑稽で、知らず笑みが唇を突いて出た。
ひとり口角を緩ませる木吉のつま先が小石を蹴っ飛ばし、彼の脇を通り過ぎる小学生の集団が歓声を上げる。
橙にまみれたありふれた帰路、下校だ。毎日の風景で、何も欠落したところなどない。
最初からなかったくせにまるでなくしたような気がしながら捜し、だが逢いたくはないと言う矛盾を、我侭を、汚いところを押しつぶしながら笑うおれのことを、だからこそ花宮は嫌うのだろうと木吉は思った。
初めて逢ったのがいつの日だったか、もう覚えていない。夏のうだるような暑さ、水を含む空気、そればかりは覚えているのに、だ。気道に詰まるほどの湿度を持った空気は、しゃわしゃわと鳴く蝉の声とよく似合っていた。
そうしてその空気を引きずったまま、二度目逢った花宮の第一声は。
『何、おまえ、気持ち悪ィ。何考えてんだよ腹黒』
自分だって醜悪なくらいに整った笑顔を顔に貼り付けていたくせに、確かそれだった。木吉の耳を奇麗になぞった猫なで声が語るのは侮蔑で、今よりはねじ切れた性格をしていなかったにしろ、初対面時からは想像もつかないほどに変わってしまったその様子に一瞬思考を忘れたものだ。
誰だ。思わず問うた。少年は笑うだけであったが。
少し見ない間にあの日の少年の中の何かが変質したようで、けれどそれだけで留まっていたとも言えると知ったのは、二度目の練習試合が始まってからだ。
だって木吉には忘れていないひとことがあった。胸の底、すとんと落ちたそのことばと、凄絶に笑いながらも鮮やかなプレーを繰り広げる少年とが不思議とぴたり重なったから、――――そうか、と。だから少年は少し変わっただけで未だ留まっているのかと。
初対面のときも二度目の練習試合の時も、花宮は試合が始まった途端当時どちらかと言うと小柄な方だった体躯をくるくる動かしコートの上を駆け回り、鮮やかな軌道でシュートを決め、そうしてとんでもなく的確な位置にパスを出し、何よりもスティール上手い。性格が少しねじれたくらいで、その才能は褪せることを知らないのだと逆に教え込まれた日。
花宮真と、ラフプレー。
初めて聞かされたそのふたつの単語の意味を、最初はうまく噛み砕けなかったほどに。バスケットボールと言うスポーツを楽しそうにしていた少年のことを忘れてなんていなかった。どうしてだろう、なんて思えないほどに、その姿はいきいきとしていて、今もなお鮮やかに木吉の胸に刺さっている。
『なあおまえ、花宮!バスケすきか!』
刺さったままで痛みもしないが、忘れていない。
『バァカ、当然だっつうの』
吹いた風のぬるさを、目尻が歪む少し特徴的な笑顔でカラリと一笑した彼のてのひらが酷く優しく木吉の胸を突いたことを。忘れたことは、もしかしたらずっとなかったのかもしれない。
そんな彼が変わってしまった理由は知るところではなかったけれど、今の木吉が思い当たる理由としては―――“無冠の五将”。
その呼称が付けられ始めた頃。花宮真と言う選手が、試合中派手に敵チームのエースを潰したと聞いた。ラフプレーが繰り返された結果だと。
一歩及ばず。天才ではあるが、劣る。才能はあるがそれだけだ。
“キセキの世代”と呼ばれる少年達と比べられるが対比はされず。そんな天才達と実際に試合をして、木吉の中心がへし折れたように。花宮もまたどこかで彼らとやりあい、へし折られたのではないだろうか。
中心を。奇麗に、ぽきりと。
自分は彼らと試合をした後も何とか自身を保つことが出来たが、彼は出来なかったのではないか、と。木吉は思う。彼が思い当たる理由がそれだけだ、と言うだけで、正しいのかそうでないのかは解らなかったけれど、思うだけで本当の所は何も知らなかったけれど。もしそれが真実なのだとしたら、花宮は今何を思っているのだろう、なんてことを考えた。
すきだったものを、得意だったものをあっさりと否定されて実力の差を叩き付けられる。付いたあだ名がそれにさらに追い討ちをかける。無冠。
冠を持つのはお前達の手ではないのだと暗に揶揄する、賞賛と少しばかりの嘲りのことば。それが、花宮の変質の理由だとしたら、―――したら?
頭上で飛行機がひとつ雲を引いて飛んでゆく。目で軌道を追うことはしなかった。
(バスケ、おまえすきだったんだよなあ、花宮)
空に、雲に隠されもしない位置に星がある。真昼には見えなかった光だった。
あたりが暗くなるだけで、その光はこうも美しくなるのか、と、嘆息する。知っていたことなのに、どうしてか今はじめて知ったような気がした。
五時を告げる放送はとっくの昔に終わっていて、こどもたちはさっきすれちがったきり見かけていない。木吉はかかとを僅かにひきずるようにして歩きながら、自然上向く顎と喉にすうと酸素を追い込んで、吐く。
どこかで花宮も息をしている、そんな当然なことが、どうしてか不思議でたまらなかった。
(・・・・まだおれは、すきだよ)
だから、すきだから木吉はずっと体育館に立っている。もう走ることは、プレーすることは叶わなくても、せめて触れては居たくてすがりついたままでいる。
誰に未練がましいと笑われても構わなかったのは、彼はバスケが、誠凛が、すきだったからだ。
胸の奥、いつかの少年が笑う。バスケットボールを胸に抱いて、当然、言ったその笑顔に、だよなあなんて語りかけながら。
帰路に着く。ひとりで、かえる。
けれどもドリブルの音がして、ふと、下げていた視線を上向けた。
気づけば赤く染まっていた筈の空の端までもう真っ黒になっていて、いつの間に夜が去来したのだろう、肌寒い。
ドリブルの音は未だ続いている。
それがふと途切れた、と思った途端に聞き鳴れた音がして、腹の真ん中がくうと閉まるような高揚感に襲われた。
シュートの音。ボールがネットを突き破る音。その音に、木吉はいつまでたっても浮き足立つ。初めてバスケットボールと言う競技に触れたときからずっと、この音がすきだと思う。
けれどすきなのはそれだけではない。バッシュの底が体育館のコートのあの独特のつるりとした床と擦れ合うときに鳴る、高い鳥が鳴くようなスキール音。怒声。―――コートの中だけで聞ける歓声。
すべてが今も色鮮やかに、木吉の指には絡み付いているのだった。
(また、シュート・・・・入った)
時計を見るともう六時半になっていた。中学生あたりならまだ家に帰らなくても、両親の許可さえあれば問題ないだろう時間だ。
けれどここ一帯、つまり木吉の自宅周辺に、そこまで熱心にバスケに打ち込むような学生は居なかった筈だと彼は記憶している。と言うか、知っていたら即行で特攻をかけている自信がある。
首をひねりながらもコートのある方向につまさきを向けた。通り過ぎても良かった、けれどどうしてか、うるさく騒ぐ腹の虫を抑えてでもなお見てみたいと思ったのだ。
酔狂。ふと脳裏に浮かんだのは、確かいつだったか黒子が誰かに言っていたことばだ。
(、上手いな)
影は未だ見えない。フェンスの向こうに見えるのは、ただひとつ突き出たゴールだけが夜に刺さっている光景だけだ。
それを眺めながら臆することなくコート内に侵入して、木吉は振り返りもしないその細い背中にわざと甘ったるく優しく語りかけた。よお。
背中は振り返らないまま、レイアップシュート。空を丸くくりぬく影はすぐに落ちて。決まる。さすがだ。
見られていないと知っていたから木吉は両手を打ち合わせ、拍手をしながら一笑して。
「久しぶり、花宮」
木吉は笑みを深める。
緩慢な動作で振り向いた花宮真は、心底面倒くさそうに片手を上げた。
星の底に棲んでいる・前編
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