居なくなった。なるほど、と、思う。
アパートの一室、記憶している限りでは花宮の二文字が飾られていた扉に張りつくのは、今はただ剥げかけた塗装ばかりだ。
一年だか二年だか前、木吉は一度だけこの扉の前まで来たことがある。理由は忘れた。花宮と木吉の接点はほぼないに等しく、だからこそ自身がこの扉までの行き方を覚えていたのが不可解でならない。
だが今、木吉はこの扉の前に立っていたし。
その奥、生活していたのだろうおとこの気配は、残骸さえないのだった。
「花宮」
ためしに呼びかけてみるが応答はない。ひとり暮らしだと聞いていたから、家族だけは残っているだなんてこともないだろう。
首を傾げる。ごきり、と首が鳴る音を聞いて、木吉はふと覚えた既視感に傾げた首をそのまま停止させる。はて、この光景を前に見たような、否ここまで来ることができたのだから来たことはあるのだが。
そしてふつと、思い当たる。以前一度だけこの扉の前に来た日のこと。思い立って愕然とした。
「はなみ、や、?」
二度目の呼びかけが震えたのは風のせいだ。
だって、その一年だか二年だか前、花宮を見かけて、そう、わざわざ関わりたいと思う相手でもなかったから通り過ぎようとして。
思い出す。血臭がした。
だから通り過ぎることが出来ずに、その、不自然に塗れた腕に自身の指を突き刺して引いたのだ。
花宮はうざったそうに木吉を見上げ、よォ、好戦的に嗤ったが、木吉の方はただ張り詰めた喉から無理矢理音を搾り出して彼の腕を揺すった。
『おまえ、その怪我、どうしたん、だ』
なんでもない、階段から落ちた、こけた、挙句の果てには通り魔に遭ったと話を二転三転させる彼を引きずりながら無理矢理家を聞き出し、そう、ここまで連れて来たのはいつの日のことだっただろう。
居なくなった。伊月のどことなく突っかかるような声が鼓膜に刺さったまま意味を持つ。
恐らく繰り返し行われていたのだろう暴行。何年も前から、相手こそ変わっていたのかもしれないが、ずっと。それでも彼はラフプレーを止めず、潰された選手の恨みを買ってまた身体中を血で塗らすような暴行を静かに受け入れる。
木吉は、だって、覚えているのだから。怪我だらけの腕をぶらぶらと脇で揺らしながら、抵抗なんてとしていないぜと言っていた彼のことを。
解らない。
だって木吉の中に、選手を潰そうが壊そうが何とも思わない性格のねじ切れた花宮以外のおとこは居ない。花宮が何を思って暴行を受け入れていたかだなんて想像すらつかない。
『なあ花宮、お前、どうしてラフプレーなんかしてるんだ。解ってるのか、自分が、何をしてるのか』
『あ?おれがしてることの意味?バッ・・・カじゃねえのおまえ、解ってるっつうの。バスケだいすきな奴の身体ぶっ壊してんの―――で?』
ノブに申し訳程度にひっかけた木吉の指の冷たさは、恐らく誰も知らなかった。
*
手を離して初めて大切だと気づく存在は多い。
ならば、そもそも手すら繋いでも居ず、その手でおれの腹をえぐってきたようなそいつのことを、何と名付ければいいのだろう。
*
自宅に居ないのならと向かった先、花宮は、と、平坦におとこは言った。
居ないぞ、と。
真っ黒な瞳は死んだように沈んでいるのに、ことば尻がぎちりと僅かに歪む。その奥、やる気がなさそうにガムを噛んでいたおとこもまた、前髪の奥に隠れた目で観察するように木吉を見ている、ようであった。
木吉は笑う。そうか。アイマスクを指先からぶら下げた彼は遠くを眺めながら呟いた。そうだ。
木吉の知る花宮と違うところを、恐らく彼らは知っているのだろう。少なくともその行方を案じられ、誰かが居なくなったその場所に誰かを捜すようにされて、惜しまれている。
それでも花宮は笑うだろうか、くだらないと一笑するのだろうか。なあおまえ何を思う、と問うてみたい影は今はここに居ないのだと知る。
「うん、そうか、じゃあおれは帰ろう。部活頑張れよ」
先ほどから木吉の対応をしていたおとこ三人の少し奥、うるさく騒いでいた記憶のある短髪のそれは嫌に静かにひとつ頷いて、ひらりと掌を翻させる。誰も彼も木吉に対してラフプレーを詫びることはなかったし、木吉はだからこそ居心地がいいと思えた。
無理をしていたおまえが悪い。確かに花宮はおまえに決定打を打ったがそれだけだ、とでも言いたそうなスタンス。一貫して全員がそのスタイルをだったからか、不思議と憤りは感じない。だから、特に恨み言を言うこともなく背を向ける。
背後に控える体育館はしんと静まり返ったまま、ひとつ、ドリブルの音が響くだけだ。
(花宮は、居なくなって哀しまれるような、奴)
きっと一生知ることはなかった、知りたいとも思わなかった男の本質めいたところに触れて、どうしてか痛みを覚えた胸の辺りに指を刺す。
(おれはどうして花宮を、捜しているんだ、ろう)
捜す。
それもまた、違うのかもしれない。木吉はただ花宮の足跡を後から踏むようにして、ここ一週間ふらふらとしている。ある選手に聞けば最低最悪、死ねばいいとまで言われて、だがまたある少年に聞けば以前とても良くしてもらった、最近は見ないがどこに居るの、とまで言われた。
どうにも繋がらない。いっそ双子だったと言われても信じてしまいそうなほど、語り手によって花宮真はその形を変え、そして、どうにも掴みあぐねる残像を眺めながら木吉は彼を追っている。
その意味は知らない。何に突き動かされているわけでもなく、木吉はただひとりの背中を捜して。
名無しのパラドックス
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