「―――思えば、あのころの僕は必死だったんだろうと思う」
ひとつ、フィルムを挟んでやっと届いたとでも言いたそうに頼りない色をした空は淡く青い。むしろ白に近いだろうか、何とも名づけがたい空の色。
何、と火神はひとつ真上に声を飛ばし、くちもとに持っていっていたペットボトルを少し下げた。そのまま僕を視線の端にひっかけるようにしながら伺ってくるから、片手を上げて特に何でもないことを示した。ただの感傷だ。
「帝光って、今でも強いっけ」
「、さあ。知らないな。あまり愛校精神に溢れたOBは少なくとも僕の周りには居なくてね。そもそもあいつらは中学よりも高校の方に顔を出しているようだよ」
「あー」
特に意味をなしていない音を会話の間に挟みこんで、火神はやっとペットボトルの中で泳ぐ嫌に派手な色をしたスポーツドリンクを喉に押し込んだ。帰国子女らしいから、毒々しい色をした食べ物に対する抵抗も無いのだろうと結論付けて特に言及はしないことにする。
声が上がった。
つと視線を滑らせた先、涼太が大輝を完璧に模倣した動きでダンクを決めている。浮かぶ笑みは好戦的なそれで、挑発的に、レーンアップ。とりみたいだ、ぽこりと脳裏に浮かんだ思考を特に恥じることもなくそのまま受け入れる己のことが何だか愉快で、くつくつと喉が笑みで震えた。
「“上手な模倣は最も完全な独創である”」
「んだ、それ」
「ふ。なんだったかな。格言だったか、名言だったか、それですらなかったか・・・・・何だか耳に残っていてね」
「ふうん。なんつうか、聞こえはいいよな」
「大抵の人間なら聞こえがいい、だけで終わるだろうけれど、」
あえて笑みを含ませて言えば、ひらりと僕のことばごと叩き落そうとするように掌を翻して火神は肩をすくめた。
相変わらず、柔らかにあたりを魅了する男だと思う。おれを見ろとどぎつく光るのが大輝だとしたら、くすぶるように、けれども確実に熱を上げて、ゆっくりと侵食してくる魅力のあるおとこ。気づけば身体中燃え上がっていると言うおまけつきで。
テツヤが未だに眩しそうに眺めるのも無理はない。プレーが魅力的なら、人柄もまた多くの人間が好ましいと思うそれだろう。
本当に、と。笑った目尻が歪んでいると知りながら知らぬふりをして、足の間に挟んでいた魔法瓶に手を伸ばす。中身は水だったかな。
大輝、おまえ、馬鹿だよなあ。思うのだった。本当に今更。
そうしておれが今思ったことを、とっくの昔に青峰が気づいていたんだろうことは解っていて、それが更に愉快で気道を埋めていく笑みを抑えきれない。
火神はそんな奇怪とさえ映るだろう僕にまたちらりと視線を寄越したけれど、何も言わない。着色料のすさまじそうな液体を、ただ舌の上に落とすだけだ。
「テツヤは元気かい?」
「何でそれをおれに聞くんだよ」
「その答えは簡単だ。おまえだからさ」
「いーみわかんねえ」
解らなくていいよ、思ったが口には出さなかった。代わりに、目の前で展開されている試合に集中する。本当は試合にも満たないお遊びのストバスだったけれど、その密度の濃さは試合と比べて遜色のないそれだ。
駆け回る人数が増えたり減ったり、メンバーも見るたびに入れ替わって、先ほどまで味方だった者が数秒後には敵になって。何故プレーが成り立っているのか参加していた僕自身にもよく解らないほど。
けれど、楽しい。
例えばそう思う僕がいつかの僕から退化した結果だとしても、それでよかった。
「元気だっつうのは見てて解るだろ」
「・・・・・・そうだな。もう一度バスケをすきになってくれたようで、よかった」
「、お前さあ」
「うん?」
「あーまあいいや・・・・・おっ、?」
投げやりに答えた語尾を驚きに変え、僕の隣で火神が声を上げるものだからつられて彼の視線の先に流した僕の視界が、大輝を捉えた。
腕がしなって、そのあまりになめらかな軌道に見とれている間に、ダンク。ぎしりと軋むゴールに、真太郎が非難の声を上げる。
着地した大輝はひとつ、不敵に笑った。砕いた光がそのまま瞳に閉じ込められたような輝き方をする深い青が涼太を捉えながら、脇に立つテツヤに向かって拳を突き出す。
拳同士が打ち合わされるその音が、聞こえても居ないのに鼓膜を揺らした。
それを見てなのかは解らなかったけれど、するりと立ち上がった火神が駆け寄ってきていた高尾とハイタッチしてコートに突っ込んで行った。そのままの流れで涼太から真太郎に向かって出されていたパスを叩き落す。
今まで火神が腰掛けていた場所に収まった高尾は垂直に近いほど傾けたペットボトルの中身―――毒々しい色をしたスポーツドリンクは流行なんだろうか、―――を喉に流し込み、一息ついてから膝を打った。汗が顎を伝い、地面に不思議なかたちを作るのをぼんやりと眺めていると、丁度顔を上げた高尾と視線がかち合う。
思った以上に真っ黒い目がぱちりと瞬いた。
「混ざんねえの?あんま消耗してるようには見えねえけど」
「まあ・・・今は観戦、かな。おまえはいいのか」
「ん、まっ今は火神に場所譲るって感じで。うー、あっちぃー」
真太郎の3Pが決まるたびに僅かに目を細め、口角を緩め、高尾は酷く密やかに笑みを零す。今はひとりで三点ずつ確実にとっていく背中に向かって、火神や青峰に阻まれるたびに酷く柔らかい声で罵声を吐きながら。
と、氷室にひきずられてコートに入って来たらしい敦がぐんと腕を伸ばしてテツヤからボールを奪い、とりあえずは味方らしい真太郎に再びそれを投げて返す。違うんだよなあと隣で上がる不満気な声を背負いながらも、その高い軌道の先でボールはまたネットをくぐった。
違っても美しい。呟く。それには異論はないようで、高尾はけらけらと何が可笑しいのか笑いながら頷いた。
「にしても、これ、今何対何の戦いなんだ」
「ええっとー、黄瀬、真ちゃん、紫原、氷室ー・・・かな、対、火神、青峰、黒子、の―――あっ今黒子サイドに今吉サン混ざったから、うんそんな感じ」
「せめてもうひとりずつ増えればな・・・」
「あっははは。混ざるー?」
「いや、良い」
高校を卒業し、進路は様々だった。大学、就職、専門学校、それ以外。同じコートに立っていた連中をこうして集めるだけで、他ではあまり見ない集団になるほどに様々。
実に。
実に満足な、結果だ。
「ふうん?」
今度はさつきがひきずりこまれたらしく、少し弱くなったパスが彼女の掌におさまる。慌てたように左右を見回していたと思えば、途端愉快そうに目を細めてコートの隅に立っていた確か誠凛の女監督、に向かってパスを出し、半強制的に試合に参加させた。
ルールが適応されているのかさえ疑わしい、むしろ試合にさえ満たないもの。それでもたのしいのは、きっと僕だけじゃない。
笑みを含んだ息が知らず唇を割って出た、と同時、伸びた影にふと顔を上げれば、人差し指で目前の空気を混ぜるようにしながら、真太郎に野次を飛ばしていたはずの高尾が目の前に立っていた。
じいっと、それは僕を見詰めて、けれどもすぐに踵を返してコートに戻って行く。
戻って行く、自然に使ったそのことばは、けれどもここに居る全員に当てはまるのだろう。戻る、帰る、それは家につながりやすいことばだろうに、きっと彼らは―――僕を含めて、コートに直結する。
恐らく、コートでやっと息が出来る人間は僕の周りに意外と多い。
「・・・・敦」
そうしてやっと息が出来るそれの名前を音にしたと同時、跳んだ敦の掌が大輝の放ったシュートを阻んだ。ちらりとこちらに視線を寄越した彼は軽く笑って、だが一瞬でその笑みを消し好戦的に目を光らせる。
つまらないとはよく言っていた。バスケなんてと、詰り、卑下していたのもよく知っている。きらいじゃないんだろう、揶揄する様に言えばむきになって言い返してきたけれど、決してきらいだとは言い切っていなかった。
だから何とは思わない。彼に気付かせてやったのは僕ではないし、キセキの世代と呼ばれた彼ら、僕、その間に連帯感なんて今も存在していない。僕らを繋いでいたのは結局、僕らを形容した名前。
と、バスケ。うん充分だ。
必死だった僕が掴んだもの、掴めなかったものの残滓は今も掌の中にこびりついていたけれど、不思議と後悔や悔恨はない。
あの時こうすればよかったと後悔しないように生きることはいくつか歳を重ねた今でも難しくて出来やしない生き方だけれど、だからこそ、後悔だって悪くはない。僕は後悔でもしないと思い出を大事に振り返ることが出来ない人間らしいから。
「赤司ー!」
高尾を押しのけて参加したらしい小太郎が玲央に羽交い絞めにされながらも大きく腕を振り、そのまま、今日の空だって真っ青に出来るんだぜだとか今にも言い出しそうなほど自信に満ち溢れた笑みを浮かべ、言った。
「んなとこで観てないでさー、みんなで一緒にバスケ、しよう!」
キセキの世代、その中に、残った関係はない。感情はない。今思えば、当時の交流は友人と呼ぶにも満たなかった稚拙な関わり合いだったのかもしれない。
けれどもそれらを押しのけてなお僕に残ったものは、案外悪くない現在を形作ってくれている。
人間退化論
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