早退しようそれが嫌なら次の時間だけでも寝ておけと口うるさく騒ぐ敦を説き伏せて、授業に出るからと制止の声を振り切って廊下に出た。どうやって教室から教科書を取ってきたのか、なんて、覚えていない。今どこを歩いているのかも良く解らなかった。
 ただ授業には出なければ、と。思うだけ。

 の、かすむ視界の中。きらきらが流れている。

 等々に視界に侵食してきたその色を一瞬、捉えきることが出来ずに息を詰める。思わずそれを見詰めながら、ああ、知らず声が漏れていた。足元が途端しっかりとしてきた、ような、歩く場所をようやっとつかめたような不思議な感覚。
 彼に注がれる視線の多さ。それと対比して、今、私には何も巻き付いていないではないかと。先ほどまで喉を締め上げていたあれはもう存在していないではないかと。
 今更、そしてやっと、それに気づいて。安堵の息がこぼれる。

 そうして勝手に安堵し息をこぼす私のことなど露知らず、それは廊下を、一直線に突っ切ってあたりの空気を丸ごと引き連れて、きらきら流れるのだ、滞ることなく。

 不機嫌そうに少しだけ目を細めながらも、唇ばかりで弧を模って彼はひらひらと手を振った。そのきまぐれな行為の一瞬後、上がった歓声に苦い笑みがこぼれおちた。アイドルじみた扱いをされている彼自身、は、正直そこまで献身的な人間ではないはずだ。考え方だって自己中心的の才能主義者で、およそファンサービスに向く性分には思えないのだが。
 きらきらは流れる。滞ることなく、濁りを奇麗に隠したまま。黄瀬はゆるりと笑んでいる。

「・・・・、あ」

 笑みを少し、崩したと思った。思って、ああ、目が合ったと。
 ひとり、廊下の真ん中を歩いていた彼は、私を真っ直ぐに見詰めて相好を崩す。棘を撒き散らすようだった雰囲気が随分と和らいで、話しかけやすい少年のそれになる。

 きら、きらり、みめかたちばかりが光るくせに、およそアイドルには似合わない性分の傲慢な少年。けれどもこどもなんだろう、周りとの距離を測りかねているように思える。当たり障りのない付き合いはどうやら得意なようだったが、今、つまらなさそうに廊下を歩いていた彼の姿だけを見るに、移動までわざわざ行動を共にするような付き合い方をしている誰かは居ないらしい。

 それでも平気だ、と言うだろう。真似が上手い少年は、出来ることと出来ないことを私の知る人間の中では一番悟っている。

 ふうと笑顔を浮かべて―――そう、今ここでやっと笑んで、少しばかり早足に近寄ってくる彼が、腿にぱちぱちと教科書をたたきつける音を聞きながら控えめに手を上げる。
 何に対する同意だろう、軽く頷いた黄瀬はまるで自然に私の隣を歩き出す。私も移動教室だったけれど、確かに目指す教室は近い位置にあるけれど。

 自然に隣に馴染む黄瀬と言う存在はいつも、酷く染まりやすい色をしているのに確実に黄色、で、そう言うのを何と形容するべきか。

「次、美術?おれはねー、あれっスよ、調理実習」
「カップケーキか」
「そうそう。ほら、プレーンじゃなくてもいいってんで、うちの班はバナナとチョコチップなんスよ・・・・あ、ねえ、赤司っち食える?」
「ん?何が」
「チョーコーバーナーナーあーじー」

 いやに舌足らずに甘えた言い方をして、それが自分で可笑しかったのだろう、くつくつと喉の奥で笑いながら黄瀬は身体を揺する。こんと抜けて高い位置にある黄色に近い金の髪が、窓から差し込む日に透けてまるでにせものじみた輝き方をするのがなんだか眩しくて、知らず目を眇めていた。
 そんな私を、見て。黄瀬もまた目を眇める。何を考えているのか、整った目元から感情は読み取れなかった。

「食べれる、けれど。それがどうかしたのかな」
「お、やったね。ラッキ。じゃあ、おれ頑張っちゃうから期待しといてよ」
「期待・・・・?」
「ん、もう。要領得ないなー。赤司っちの為におれ、がんばって作るから受け取って欲しいって話っスよお」
「な、何を」
「文脈的にカップケーキっスねえ。あ、お望みとあらば他のでも作るけど」
「いや、それは、・・・遠慮しておく、」

 よ。と、言い終わる前に。私が抱き込む様にして抱えていた教科書と筆記用具を引っ手繰って、けたけたと笑いながら黄瀬が廊下を走り出す。
 つかまえてご覧。この歳の、声変わりの途中の少年の、独特の掠れ方をした声で言いながら。

 廊下を蹴る足取りは軽い。加減はしてくれているのだろう、進む速さは追いつけないほどのものではないのにどうにも届かない。黄瀬は休み時間の、ひとの多い空間のなかを大きい身体を奇麗に折り曲げて捻じ曲げてどんどん遠くへ走っていってしまう。
 黄瀬くん。
 上がる歓声には目もくれず。手も振らず。赤司っち。笑う彼の声がくわんと脳内に反響して落ちた。

「あれ、つかまっちゃった」

 カーディガンの裾を握り込み、彼をその場に縫い付けたまま荒い息をどうにか落ち着かせる。体力は人並み以上である自信はあるが、さすがに気を抜いていた所からの全力疾走はきついものがある。たとえ黄瀬が緩く走ってくれていた、のだとしてもだ。そもそもの速さに差がありすぎる。

 一身に。
 一身に、視線を浴びて。

 それは女子のからの羨望を含んだものだったり、真面目そうな男子生徒からの迷惑そうなものだったり、装飾品を身体にべたべたと張り付いた茶髪の少年からの挑発的なものだったり、―――するのだけれど。たくさんの目を惹きながらもただ黄瀬は軽やかに笑う。
 重くはないのだろうかと思う。黄瀬だけではない、一部、と言うか主に黒子である例外を覗いてバスケ部の連中は良くも悪くも視線を集める。それでも意に介さず、好き勝手。私だって他人をものさしに自分の行動を測ったことはないが、彼らの挙動の奔放さはさすがにどうにかするべきだと思う。

「か、えせ」
「うん?」
「自分でもてるから・・・・・ッ、は、あー・・・疲れた」
「え、ごめん、速かったっスかねえ」
「論点はそこだと思うの」

 どこだろう。はぐらかすように言って、笑って、肩を竦めて。
 おれのみてくればかりを愛してくれる女なんてどうでもいい、以前冷笑と共に吐き出していた少年とおよそ同じ人間には見えなかった。

「論点なら、おれじゃなくて赤司っちでしょうが」

 そして不可解なことを黄瀬は、吐く。どこか伺うように私のことを見る彼の目にくゆる色のことを何と呼べばいいのか解らず、唇を噛んで、俯いた。

「何か、・・・いや、これはいいや・・・・ほらあ、吐いて保健室行ったんスよね?そのまま早退すればよかったのに。今日も部活あるし、心配っスよ」
「、もう体調なら大丈夫だ。・・・・・落ち着いた。それに部活だって問題ない、マネージャーのやることはそもそも部員と比べて多い訳ではないし、迷惑はかけないよ」
「やー、そう言うことじゃないんスけど」

 妙に歯切れ悪く言って、なんだかなあ、言いながら黄瀬は後頭部をがしがしとかき回した。足取りばかり軽く階段を下りながら、上半身を揺すぶって。
 からり、一笑。

 伸びてきた腕のことを知りながらも黙ったまま、せめてもの抵抗に俯いたままで居ても数段下に居る彼からは覗き込まれるかたちになる。
 その視線は苦では、なく。
 だがつい、つい透明な視線のことを思い出してしまって、眉間がぎちりと締め上げられたように痛んだ。鳴りそうになる奥歯を噛み締めながら顔面を覆う。知らず漏れた息は、我ながら頼りなく震えていた。

「・・・・大丈夫」
「ねえ、ちょっと」
「大丈夫だから」

 伸びてきた腕に拘束された手首が、鈍く膿むような熱を持った。振り払うことも出来ず、かと言って縋りつくこともできず、宙ぶらりんのまま片腕の主導権ばかりを彼に押し付けて。
 全く私は、いつからこんなにも弱くなってしまったのか。

「もうチャイムが鳴る」
「や、でも先に保健室っスよ。だって顔真っ青だし」
「大丈夫だから。だから、カップケーキ」
「ちょ、」

 期待してる。

言いながら、なるだけ乱暴にならないように指を外して彼の脇をすり抜けた。少し振り返った黄瀬が片目だけ細め、心底不快そうな顔をするのをしっかりと受け止めて軽く笑う。大丈夫だと示すために。だからお前たちを煩わせはしないのだと伝えるために。
 なのに何故か。自分より弱い者を見下しなめてかかる悪癖のある黄瀬はこの時ばかりは嘲笑せず。

 私をまっすぐに見たまま痛がるように顔を歪めた。伸びてきた指先は、今度は私の目尻を掠めた。私は泣いて居ないのに優しく、酷くやさしい手つきで、体温ばかりを残すのだ。
 
 
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