雨がつま先を叩く。跳ね返った水がジーンズに模様を作る。部室は酷く静かで、今日は誰も居ないのだと知れた。

 今日も誰も居ないのだと知れた。



「・・・・・寒いな」

 京都の冬と言うものもなかなかに厳しいと知ったのは、もう数年も前のことになる。関西なのだから雪とは無縁だろうとたかをくくっていたのだがそんなものはただの思い込みに過ぎず、初めて迎えた冬を彩ったのはつめたく確実に体温を奪っていく雪。一面の白。

 呆然と立ち尽くす僕の前で笑い転げていた小太郎の姿も、同時に抱いた苛立ちも鮮明に覚えている。

 それに比べれば東京の冬なんてまだましではあったのだが、だからと言って寒さを感じないわけではなかった。歯の根が合わない、ほどではないにしろ、やはり寒いとしか言いようのない風がむき出しの耳に襲い掛かって来る。
 ただでさえ幼く見えがちな容姿をさらにこどもらしく見せていると常々言われる耳を隠さない短髪は、中学生のときから前髪以外は変わっていない長さだ。

 ああでも、周りの景色ばかりは変わっている。

 三年間歩いた中学校へと続く今歩いている道から以前はなかった高いビルが見えるようになり、公衆電話があった場所にはコンビニが出来ていて、長く点灯していないままだった街灯は真新しいものに姿を変えている。
 住宅地の中、そこだけ別世界のようにぼっかりと出来ていた空間と壊れかけのバスケットゴール、そんな夕焼けのイメージが強い非日常的な光景も、今は洒落たマンションが埋めていた。
 哀しくはなかった。

 そうかい、なんて、少しだけ拗ねたこどものように思っただけだ。そうかい、立ち止まっているのはやはり僕ばかりかい。そんな風に。

 【それでは約束の日の八時、公園にて。】

 淡々と締め括られていたテツヤからのメールの事務的な冷え方はいつものことで、今更何とも思うこともなく是と伝えた。一週間前のことだ。出会ったばかりのことではない、逆に、そのころの方が彼らとはもっと柔らかなところで繋がっていたように思える。

 昔の話だ。たった数年でもあのころよりは歳を取ったからか最近どうにも懐古的な人間になってしまって、どうにも感傷的になることが多々ある。
 街ですれ違う学生達のことを、もう、自分と同じ学生だとは呼べない。
 バスケで有名な学校のジャージを見ても、どんな部員が居るのかつぶさに観察したりもしない。ああ学生が居る、騒いで居る、それだけの光景だ。

 成り下がったとは思わない。ただ終わった。または閉じた、ような、そんな日々だ。戻りたいとは思わなかったけれど、時たまふと取り出しては丁寧に丁寧に懐かしみたくなるような、そんな毎日だった。

 きっと学生生活は素敵なものだったのだろう。部活に打ち込み、先輩にも恵まれ、全国が手の届く夢であった、三年間。または――――六年間。
 ずっと楽しかったさ、僕だけだったのかもしれないけれど。
 本当はずっとひとりだったのかもしれないけれど。

「は、」

 気まぐれに吐いた息が顔の周りを白く染め上げる。それがどうにも可笑しくて、二度三度とおおきく開いたくちから熱い息を吐き出しながら、喉を張っているからだろうか、自然目に入ってきた冬の空に目を細めた。

 この季節はどことなく退廃的だと、冬が巡るたびに思う。

 灰色がかっていると言うか、夏空に比べて淡い色の空を隠すのが葉のつけていない枯れているようにも見える木だからかもしれない。
 追い立てられるように感じるのが夏の終わりだとしたら、冬の終わりはさながら置いて行かれているようだった。

 少しずつ色を失っていく視界、三年生の居なくなる体育館、はやくはやくと急かされているかのように一瞬で真っ暗になる午後五時。
 何度も見た光景だ。もう、飽きた。

 そして当時はっきりと抱いた筈の思いさえ、もう、何だったのか思い出せないのだった。

 今はもう残っていない。歳を重ねるごとに、おとなに近付くごとに、見ないふりがどうにもうまくなってしまったのだった、僕は。前なら掻き集めてでも自分のものにしたかったはずのやり場の無いたくさんのことが、今ではさらりと自然に指の間をすり抜けてさよなら。

 『もうこどもじゃあない』んだから、なんてことばと共に笑まれることがなくなってから何年経っただろう。今こそただしく『もうこどもじゃあない』のに、どうして今この瞬間の僕に対して誰もそう言ってくれないってんだろう。
 ひとり置いていかれているようだと思って。
 ならばと走ったのがこどものころなら、ならばと車にでも乗り込むのがおとなの僕さ、きっと。

 もっともっとちいさな頃に思った将来の自分、夢、実際そこに立ってみて思ったことはと言えば、おとなと言う奴は予想以上に狡賢くて弱かったってことだろう。

 冬は未だ更けているのだった。

「あ」

 なんだか自然に漏れたことばが唇の端を伝って滑り落ちる。見慣れていた筈の校舎の癖になんだか始めてみたそれのようで、それでも入学式のときの独特の緊張感も圧し掛かってくる制服の感覚もないままに僕はただひとりで帝光中学校の、通っていた学校の敷地内に何と思うこともなく侵入する。

 ただひとりで。
 つれているものがあるとすれば感傷と懐古、ただそれだけで。

 まだ八時にもなっていないと言うのに、職員室にも誰も居ないようだった。少なくとも理科室あたりになら実験の準備のために残っている教師でも居るかと思ったが、それも無い様子でこの空間すべてがしいんと黙り込んでいる。
 幽霊が出るんじゃ、と、心踊りもしないまま。淡々と目的地に向かうだけの僕も、指先も、冬に冷やされたすべてが、恐らく未だにあのひとりきりで取り残された部室に閉じ込められていた。

 冬。部活を引退した後も、僕は元主将と言う立場上―――と言う言い訳を携えながら―――何度も部室へと体育館へと足を運んだ。もう見えない輝きを捜すのには僕の目はおかしくなりすぎていたようだったけれど、それでも、それでもと繰り返す反復は我ながらいっそ哀れで滑稽。
 失笑しか産まない。
 だって十五歳、あのとき一番何も理解出来ていなかったのは僕だった。

 シュートが決まっても笑わなくなった真太郎、テツヤの空洞な視線、大輝の解り易すぎるやる気の喪失、目立つようになった涼太の傲慢さの見え隠れする振る舞い、ただ従順なだけになった敦、僕。

 僕だったんだ。

「部室、・・・・・場所は変わってないのか」

 愛しいのか、懐かしいのか、何とも言えない感情が首の裏を襲う。それが背骨を駆け下りて身体の末端へ流れて、部室のドアに触れる指が、震えた。

 夜だから部員が居ないのは当然のことだ。そう何度も言い聞かせても、視界は明滅を繰り返す。怯えるように震え続ける指先は紙のようで、切れ切れに吐き出した息は頼りない色のもやになりながら透明だった空気を白に染めた。

 酷くまだらな視界だ。

 終ぞ誰も来なかった、卒業式、部室。ひとり長く誰も待たずにただ居続けたこの、目の前、扉で隔てられている先の空間に、きっとすべてを置いて来た。
 八時、公園。
 高校生になり一年と少し経って、いびつさに目を背けながら再びおままごとのように始まった彼らとの交流のなか、僕は一体何度心から笑えただろうか。

 ずっと僕の喉に刺さっていた魚の骨のような異物感を、払拭しようと。部室に置き去られたすべてだって僕のものなのだから、もう僕が、僕らが居た残骸なんて物理的には何も無いのだとしても、拾いに来るべきだと。
 それを抱いて、消化したころなら、僕はきちんと笑えるような気がしていた。夢でよかった。今日、僕がひとりこの場所に訪れる理由になるのなら、叶わないままの夢でよかったんだ。
 笑えなくてもいいのだ、結局。彼らと共に居られるだけで。

 それでも、と。思ったのはどうしてだろう。どうせ部室に来たって楽しいことなど何も無いと思っていたし、現に今その通りになっている。こんなにも苦しくて痛いのに、どうして未だに僕は部室の中に入ろうとしているのだろう。待ち合わせ場所は公園だ。少なくともここでは無いのに。

 だってここは、誰も訪れなかった場所だ。足を運ばなければならない理由が無くなれば、誰もがすぐに放り出した場所なのだ。
 高校の頃の部室に対しては想ったことの無い、どうしようもなさが吹き出してくるところ。最後まで静かなままだった、彼らと居た頃には聞いた事の無い雨音が、ずっとずっと響いて居た場所なのだ。
 ばたばたと。
 雨音があんなにもうるさいなんて、きっとずっと知らないだろうと思っていたのに。

 夜の声が聞こえる、と思う。昼間は恐らく中学生たちが産む喧騒に溢れているのだろう空間、だと言うのに、僕しか居ない夜、今は静まり返っていて別世界。
 黒。空。星は見えなかった。星を見るにはまだ、ここは明るすぎる。

「失礼します」

 震える指で、ドアを、押して開いたか引いて開いたか、解らないけれど中に入って。
 ひやりとした空気が目尻を撫で、開け放しの四角形から外に飛び出して行くのを感じながら、ただ真っ暗なばかりの空間に目を凝らした。
 やはりと言うか何も無いのに、どうしてだろう、馬鹿みたいに懐かしくて。何ともいえなかったあの頃の僕の、確かに抱いていた感情にやっと名前を付ける。

 寂しかった。
 誰も居ないと解っていても、誰かを期待して。待っては居なかったけれども、それでも、来てはくれないだろうかと願いはして。
 けれど結局はひとりきりのまま、まるで置き去りになったような、隠れん坊で僕だけが見つけてもらえなかったような、あの何とも言い難い寂しさ。ひとりぼんやりと空を時折薄紅が彩るのを色彩を眺めながら、冬の終わりだけを静かに受け入れていた十五の春。
 あの頃僕は、確かに、寂しかった。遣る瀬無かったのかもしれないな、最近はそう思っていたけれどそうじゃない。そんなに僕は上手に出来ていない。

 寂しかったんだ、と。実感して、思い出して、やっと。流れ落ちていっていた何か、感情だったかもしれない何かに爪を立てる。そう、僕は上手に出来ていない。夢見た完全無欠のヒーローにはなれずじまいだったありがちなおとなさ。

 それでも僕はここに居たんだ。最後抱いた感情は寂しさだったのかもしれないけれど。

「なあ」

 真っ黒に呼びかける。あの、自尊心ばかりが大きくなって、それとつりあわない自分の幼さに歯噛みをしていたあの頃には口に出せなかったことばだった。
 おとななになった、からこそ。言えたなら、なんだ、歳を取るのも悪くない。

「誰か、来いよ」



ひとりぼっちでの庭



「はい」
「ここに居るぞ」

 透明な声が鼓膜を叩く。心臓が震えた、と、感じた。真っ黒には誰も居ない。
 それでも声は、続いて、いくつかの音が重なって、ああそれは後ろから僕に話しかけるようにして、いくつも。

「随分と遅くなっちゃってごめんね、赤司っち」
「いやー、やっぱり来ねえよなあ公園にはな。紫原ナイス」
「赤ちんに関してはまかせとけ。勉強は知らねーけど」
「ムッ君それはどうなの・・・・」

 真っ黒は延々、隅から隅まで真っ黒で、目前には誰も居ないのだと知れた。転がっているバッシュは、今の部員のものだろうか。

「赤司」

 夜の匂いが鼻を突いたから、だから、つんと目頭が疼いて、どうにも、どうにも思考がまとまらなくて僕は、僕はただ俯くだけで。
 磨き上げられた革靴は、仕事帰りだから、で、もう、よれよれの靴紐で縛り上げた運動靴なんて履いてない。

 誰も居ないはずの空間に満ちるのは、喧騒だった。

 誰かの指が僕の肩を掴み、優しくやさしく、引いてくる。されるがままに背後へと重心を移すけれど、常ならするだろう頭を打ち付ける心配なんてしない。

「お待たせ。」

 体温がじわり、背中に溢れて。
 部室には―――目前には、誰も居ないのだと知れた。




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