「赤ちんのこわいことって、なにー?」

 さくり、とスナック菓子の崩れる音がする。追ってばりばりとうるさいのは包装を指でひっかいた音だろうか。
 こわいこと。くつり、喉のそこで笑ってしまう。

「そうだな、・・・必要不可欠になること、かな」
「どうして?」

 間髪入れずに入った鋭い声に、思わずくつりと喉の奥で笑みをこぼしながらこどものような彼に向き直る。僕の退路をふさぐように、事実ふさぎたいのだろう、部室の戸の前に突っ立っている巨体の主は首を傾げたまま。
 くつり。またわらえば、むかつくと彼はちいさな声で吐き出した。

「僕が勝利の為――――ひいてはチームの為に僕を投げ出す。そんなのは恐怖の対象にもならないし、在っても何ら疑問のない行為でかつ、僕の自尊心が傷つけられるようなこともない」
「赤ちん、」
「だが」

 遮って、重たそうに瞼を乗せている三白眼を睨み上げて、できるだけ好戦的にみえるように口角を歪めてみる。予想どおり、嫌そうにますます目をほそめた彼はいっそ愉快なほど不機嫌で、大きい身体を持て余すように、もしくは苛立ちを表現しているのか揺すりながら眉を寄せる。
 喉の奥にスナック菓子を突っかけながらそんな顔されたって怖くもないし、こたえもしない。くつり。三度目、しつこくわらう僕に、さらに垂直落下していく敦の機嫌。ああ、おかしい。

「誰かにとっての僕にはなりたくない」

 最近切ったらしい、けれどいまだうっとうしいくらいに長い前髪の奥、ちいさな黒がもっとちいさくなって、表情をうかがうことが難しくなる。

 ばり、と音が鳴る。
 落とした視線のさき、ジャガイモを揚げかつスライスして塩をまぶしたスナック菓子の袋が無残に潰れているのを眺めて、やっぱりわらいごえをこぼしてしまう僕に、あきれたのか何なのか敦はもう何をすることもなかった。言いたいことを一緒にのみこもうとしているみたいにジャガイモを以下略したそれを嚥下しながらだまっている。僕がつづきをはなすのを待っているのだ。
 仕方なく上唇と下唇を引き剥がし、重いばかりの舌に鞭打ちながらくちを開く。

「誰かの僕になってしまった僕。その誰かは、きっと、僕が自由に僕を投げ出すことを制限したがるのだろうね。自分のものなのだから。ひとというのは厄介だ、所有欲と言う奴は実にうっとうしい」

 ばりばりと。空間が裂けるような音。実際はただの、奥歯で噛みつぶされるだけの無愛想なそれなんだが。

「果たしてそれは僕か?」

 うん、と。
 返事なのか、それとも問い返すためのことばなのか、判別のしがたい発音でひとことを投げ出した敦のことばが宙に浮く。

「誰かのものの僕がってことだ――――解り辛くてすまなかった。必要とされ、僕が僕自身を出し惜しむ・・・・・勝利にも繋がりはしない、無意味な自己保身だと思わないか」
「赤ちん」

 ゆっくり、と。なぞるようにゆっくり、彼自身がぼくを呼ぶ、独特の愛称をころがした敦は僕がさえぎらないことを確認し、つらり、と話しだした。

「前提がおかしいんだよ、赤ちん。投げだすとか必要とされないとか必要不可欠になりたくないとか、まるで、赤ちんのことを考えているひとが誰もいないみたいな言いかたしてさ、おかしいよ」
「おかしい?どれこそ、“おかしい”よ敦。何がどうして僕が誰かに、何て突飛な考えに至ったんだい」
「赤ちん、それ、本気?」

 押し殺したような声で、敦は低く囁いた。ぎちり、と鳴った音は彼が奥歯を噛み締めた音だろうか。歯がゆそうな顔をして、前髪をぐしゃぐしゃに掻きまわした敦が駄々を捏ねるこどもみたいに身体をゆすって軽く地団太を踏む。どうして、なんで、時折もれる声音はどれもひび割れて低く、上擦って細い。ことばのかずが少ないんだあ、前ゆるりと彼が言っていたのをふと思いだした。

 眠そうに、興味なさそうに手元の駄菓子にかじりつきながら首をかしげ、立てた指をくるくる回しながら言っていた。ことばのかず、ボキャブラリ、とでも言いたかったのだろうか。
 だからね、オレ、考えてしゃべんのきらい。
 そう言っていた敦が言葉をさがしている。ないものを絞ったって何も出やしないのに、眼球をうろうろとさせて唇の開閉をくりかえして、苛立ちながらも思考の放棄をしない。いつもならとっくに、やーめた、と投げ出しているころなのに。

「・・・・本気も何も事実だろう?」
「じじつ。ほんとう。何が。赤ちんが、赤ちんをだいじにしないのが事実なの。ずっと、そうだってそうだったって言いたいわけ」
「敦、ちゃんとまとめてから話せ。それに、僕は自分自身をないがしろにしたことなんかないが」
「今言ってたのは、でも、大事にしてないよってこと、・・・・・だよね赤ちん」
「してるさ。ああでもそうだね、不可欠だとは思っていないんだよ、だから。必要ではあるかもしれない。だが不可欠ではない。なくても機能しない訳ではない。それが僕だ、ろう?」

 敦が頭を抱えて部室の扉に背中をぶつける。そしてちいさく、僕の名前を呼んだ。

「赤ちんのこわいこと」

 舌打ちをしそうになった。
 彼は僕に、こわいことを聞いたのだった。そうしてそれに、かたちはどうあれ恐怖を抱いている対象について答えてしまったのだ、僕は。僕らしくもなく。

「――――・・・ああ、そっか」

 ちいさく呟いた敦の腕が僕に伸びる。長い腕に絡みつかれ、体重をかけられるままに膝からちからをぬき、地面にぺたりとふたり、座りこむ。肩にぐりぐりと額を擦り付ける敦の頭を撫でながら苦笑し、うんうん唸りながらむずがるように身体をゆする彼の背中をぱたぱた叩いてやる。
 長い長い腕に完全に抱えこまれ、まだ帰ることは出来なさそうだ。抱きしめているくせに壊すことを怖がっているような力加減に締め付けられるのは、認めたくはないが随分と心地がよかった。

 敦の首に頬を当てて目をとじる。汗ばんだ肌は僅かな熱をもっていた。

「こわくないよ、赤ちん」
「なにが、」
「こわくない――――、ここにいるから、オレ、赤ちん離さないから。赤ちんだけの赤ちんでいいから。オレが、赤ちんのオレになるから」
「何を、言って」
「みんな赤ちんだいすきだよ。オレだけじゃない、黒ちんも黄瀬ちんも峰ちんもみどちんもミドチンもさっちんもみんな、みんな、だいすきだよ。オレがいちばんだいすきだけど、いや、それ関係ねーか」
「おい敦、聞け」
「はなれないよ。はなさないよ。赤ちんはなくなったらだめだ。いなかったら寂しい。いてもいなくても同じ、みたいないいかた、すんなよ」

 訳が解らない。
 言葉とともにきつくなっていく拘束も、言葉の意味も。よく解らない。

「オレ、いるから。赤ちんの傍にいるから、怖がってそんなかなしいこと、言うなよ。だいじょうぶだから」

 これではどっちがあやされているのか解らない。今にも泣き出しそうなおおきなこどもに慰められている――のだろう、腹の立つことに――僕。

「・・・・・・確かにこわいことに対して答えたのは僕だが、」
「うるさい聞けよ!」
「は」

 きっと今敦の頭の中は、先ほど掻きまわされた前髪以上にぐちゃぐちゃでどうしようもないに違いない。すくないと言っていた言葉を掻き集めて、それでも足りないくらいにたくさんの言葉を僕に伝えようとしている。何が言いたいのかよく解らないまま、少しずつ心臓に這入ってくる敦の声の優しさなんて。知りたいなんて言ってない。

「もう必要不可欠なんだよ、オレにとって赤ちんは。赤ちんを拒絶したりなんかしない。・・・・こわいからって、最初から切り捨てたりすんなよ。受け入れられてから捨てられるのがこわいなら、だいじょうぶ、オレ絶対赤ちん捨てたりしねーから」
「・・・・・・馬鹿だね、敦」
「オレ馬鹿じゃねーしっ。馬鹿なのは赤ちんだっつうの」

 こわくない。ここにいるから。こわくないよ。はなさないから。
 延々、繰り返しながらぎゅうぎゅうに抱きしめられる。敦の体温は高く、暑いと感じるほどだ。
 不可欠になりたくなかった。不可欠である存在の、不可欠になりたくなかった。僕にとっては必要不可欠なのに、相手にとってそうでなかったら?いらないと言われてしまったら。どうすればいいんだろう。
 今日の僕は、本当に僕らしくないようだ。

「赤ちんがだいじに思ってんだろ。なんで、同じだって信じてくれないの」

 誰かにとっての僕は果たして僕だろうか。
 彼が不可欠だと繰り返しながら抱きしめる僕は、果たして。

「だいすきだよ、赤ちん」

 ああもう僕は失えない。それがこわいんだって、解らない敦はやっぱり馬鹿だ。
 くつり、自嘲的に笑みを零す。

「ロッカーにつめて持って帰りたいくらい」
「おや、猟奇的だ」
「サスペンスホラー。消えた赤ちん的な」
「はは」

 ぎゅうぎゅう、長い腕と長い脚が僕を拘束している。そろり、彼の背中に回した腕。気付いた敦が僕の肩から顔を離し、鼻が擦れるほど近い距離でうは、と笑う。
 どうしようもなく、こわかった。



夜光雲